隠者の庵

隠者の庵

自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

変なメタルバンドの音楽ビデオを見ていた。

とにかく人がバントメンバーの自分らを含めて酷い目に遭わないと気が済まないらしく、

曲が始まって田舎を歩いていると熊に襲われそうになって、持ってきた武器で抵抗しつつ家の中まで逃げてそこで演奏を続けたり、

どこかのアイドルグループのライブに乱入してボコボコにされながら演奏をしたり、

曲の終わりに決まった場所にいると銃で撃たれるので誰がそこに立つかをロシアン・ルーレットみたいに、

数十人で曲を流してリズムに合わせて一歩歩いて決めて、

銃撃を止めるためにこちらも反撃できるので、曲の終わりにわざと撃たれる場所に立ったボーカルが四十数回同じ事をして、

何回も撃たれながら最終的に相手の瞳孔を銃で撃って止めてきちんと演奏を終わらせたり、

何故かその撮影に自分も付き合わされて回りには死にたがりしかいなかったり、

とにかく酷い目にあった。夢だから許されるが現実なら確実にコンプライアンス違反だろう。

当然メジャーな音源でなく、よくこれがインディーズで通ったな、というものであり、

そこまでやってバンド名がリスト(クラシックの作曲家の綴りで)という最後までよくわからないバンドで、

とにかく生きている気がしなかった。

あれからAIは相変わらず進化しているけれども自分にとって一番の利点と言えば、

将棋を観戦している時の有利判定とか次の最善手だったりする今日この頃、

皆様方におかれましては日々御健勝のこととお慶び申し上げます。


AIもなんか最近食傷気味だが、生活にじんわりと染みこんできていて、

昔なら誰かに頼んでいたような店や施設で使うようなイラストの類も自分でAIに頼んで作ってもらえたり、

簡単な音楽を詩にあわせて作ってもらえたり、あまりよろしくないが歌手の声を再現してこの歌手ならまず歌わない歌を歌わせたり、

今の時点でも便利だと思えば便利だし、著作権から考えれば首を傾げたくなるし、

このままAIが発展していけば、人間の知識を超えていくのではないかとか、

ちょっと前では考えもしなかったことが出来るようになってきている。

簡単な相談事なら色々質問しても答えてくれる(それが正しいかを確かめるのは人間であるが)

人間よりも面倒くさくない話し相手みたいな存在になっていくのかもしれない。

人間にとってAIの存在自体が日常に紛れ込んできて自分で考える力を失わせれば、

人間としての条件など簡単に外せるようになってしまうのではないか。

誠に遺憾である。

毎回毎回外に出かけたり家の中で気になるのは、周りで大きな声や音を出す出来事が起こりはしないだろうか、ということである。

飲食店で席に座ったら近くで宴会が開かれたり酒を飲んでたがが外れたりする人が叫いたり、騒いだりして、

食事も砂を嚙んでいるような味になるし、ノイキャンイヤホンをつけて音を流して済まされるならそうしてしまいたい。

近くの話も聞こえない?大きな音で心をやられるよりは遥かにマシである。

いかなる生活でも大きすぎる音が持続しないようにと願って暮らしている。

ゲームとかスマホのアプリは家でも全部消音してやっているし、動画を眺めるときもなるべく外に音が漏れない大きさに留めている。

音が大きいというのは、音楽の演奏会でもなければとても納得のいかないことである。

自分も音楽のステージに立って演奏することもある以上、あまり大きな事は言えないが、

音を出すべき場所で出して、出すべきではない場所ではなるべく出さない。

それを身をかけて実行しているだけのことである。

静かに家庭菜園の様子を眺めていたいのに、虫の音など聴いていたいのに、

そこに自動車やらバイクやらが大きな音で何かしらやってくるなら、雰囲気なんてぶち壊しである。私は閑静に過ごしたい。

閑静に、というよりは大きな音がストレッサーになってしまいとてもつらい。

人間に出せないほどの大きな音を出されると本当につらい。

ひどいと心療内科で精神安定剤を増やしたり抗うつ剤を処方したりメンタルヘルス的に色々して最悪の事態を回避しなければならない。

そしてそうしても別に音は消える訳でもない。何もなければいいがそう簡単にはならない。


テレビのガヤの声や過剰なリアクション、そのついでに流されるジングルとか気になりすぎてテレビなんて見ていないし、

たまに見るとしても専門的な番組だったり、将棋や囲碁だったり、音なんてどこで鳴る必要がありますか、という番組しか見ない。

芸能人が話して何かにオーバーに反応するだけの番組なんて目にしたら、チャンネルを変えるか電源を切りたくなる。

社会に出れば出るほど、なぜ人は静かに過ごすことが難しいのか、などと思う。

音についてはもう少し繊細になってもいいだろうと私は思うのである。

誠に遺憾である。

家族総出で街の楽器屋に出かけた。ゲストとしてX JAPANの誰かが来るというので何故か親まで巻き込んで見に行くのである。

しばらくギターを見たり音楽CDを物色していると半分くらいメンバーが違うX JAPAN、というかそっくりさんみたいなのが演奏を始めて、

ドラムの音とかX JAPANじゃねぇ、本物はもっと手数も速さもある、とか思いながら、

何曲か演奏するのを眺めていたらきょうだいが不機嫌になり始め、

全部見終わって帰る頃にはブチ切れそうな勢いになっていた。

店を出て車に乗ろうとするがきょうだいがブチ切れたままでハンドルを握ろうとして、

親が止めようとしたら何故か親がきょうだいに射殺された。


その街の中心部に何故か私も身柄を拘束されて、少しの自由時間がある以外は警察や近くの精神科で取り調べやカウンセリングを行い、

自分の身柄の潔白を訴えたり、状況を可能な限り正確に供述したり、

カウンセラーに混乱した精神状態を説明してこれからどうするかを考えたりした。

建物からは出られないが。


三日くらい経ったが特に変化はなく、何故か自分まで犯人、共犯扱いされはじめるようになったので、

だから自分は犯人じゃないと力説しながら取調室とカウンセラーのいる部屋を往復するのであった。


なんでこんな夢を見たのかって?こっちが知りたい。

最近の選挙からの与党野党の動きを見ていて、毎回安定性は欲しいけれども、

いつまでも安定したままだと変化がなくて投票するのにも疑問が生じる今日この頃、

皆様方におかれましては日々御健勝のこととお慶び申し上げます。


宗教が政治に圧力をかけることができないことを政教分離というのであれば、

随分遠ざかっていたものだと思う。

靖国神社に参拝できないのが当然だとするならば宗教を名乗るあらゆる政党は存在意義を問われる。

自民党に投票したいのに自民党の候補者が居ねぇじゃねぇか、とか矛盾にも程がある。

野党が党ごとに候補者を立ててくるなら与党も党ごとに候補者を立てるべきである。

組織票とか知ったことか。

支持母体とか関係なく投票したい政党に投票できなくて何の選挙か。

世の中が動くように政治も動かなければならない。時代の変化に即しないで何が政治か。

誠に遺憾である。

今年はとにかく音に振り回された。毎年振り回される気もするがまだ通り抜ける音とかならよかった。

近くにたむろされてバイクやら車やらその他もろもろの機械のエンジン音をけたたましく鳴らされると思ったより精神に来る。
今年のブログ記事を見返したら雪がとけてバイクのシーズンが始まる五月ぐらいから、
何か音に関して話題にするようになり、やばい兆候が見え始めてそこから記事更新の間隔は段々空いてきて、
多分この辺でブチ切れたあと反動で精神的に滅入って帰って来れなくなったのが少しだけわかる。
自分の住んでいるところは先にも言ったように冬になれば雪が積もったり路面が凍結したりしてとても二輪車やスポーツカーが走れる環境ではないから、
今年のことは雪が降る前に総括しても間違いではあるまい。
とにかくバイクの音には泣かされた。
別に毎日ではないが家の近くに不定期にやってきて不定期に爆音を流されると、
耳を塞いでその場にこもるし、自室に帰らないようにできないかとか、別なところに引っ越し引っ越しさっさと引っ越しなどと思うようになった。
自分の耳が過敏すぎるからとにかく何でもいいから静かなところでゆっくり過ごしたいだけなのだがそれすらさせてもらえない。
時々何も鳴っていないのに鳴っているような感じがしたりもした。
そのストレスで突然精神が虚無になったり、目の前が真っ暗になったりテンションが下がって上がらなくなったりして、
何をしても楽しくない、楽しめないという状態に陥った。いつ来るかわからない大音響ほど耳に恐怖なものはない。
また、食欲を失ったり体重が減ったりして、かといって運動をするわけでもなく部屋に横になって音が大きくなったら耳栓をつける、
みたいな無気力な生活になった。周りからすればどうして生きているの、という状態に見えていただろう。
これではまずい、と最終的に心療内科で薬を強くしてちゃんと服薬することで最悪の事態は免れたが、
その辺にいるバイクが消えてなくなるわけではない。雪が消えたらまた始まるだろう。
二年三年その先もとなるとさすがにこちらの精神も限界になりそうな気がするので早めに手は打っておかねばならない。
なるべく直談判を避ける方向で。
コミュニケーションの障害のあるものが、他人と話し合いをして解決させるなんて、
まさに話をこじれさせてくださいと言っているようなものである。
だから自分以外の何かなり誰かなりいくら回りくどくても自分が直接手を下したりしてはならない。
もっと確実で適切な方法を選ばねば。
静かな生活とはそんなに苦労しないと手に入らない絵空事でしかないものなのだろうか。
誠に遺憾である。

この涼しくなりつつある時期、どこかに旅に行きたくなるとか旅というか移動そのものを楽しみたいとかあるじゃないですか。

それはそれで止める権利は何もないがでかい音を出しながら走るのはご勘弁願いたい。

音ってあるじゃないですか。個人的に音楽を嗜んでいるから許容範囲が狭いのかもしれないが、

何事にも限度という物がある。大きすぎれば聴き続けていずれ精神を病むように。

一時期変な音を聞かされ続けてメンタルが滅入って自分の心療内科の薬を段階を踏んで少しずつ強くしていったように、

たまに聞くならまだしも日常的に聞き慣れない音を耳に入れると身体的、精神的に何かしらの変調をきたすものである。

実際かなり聞いて精神的に効いたものである。

誰かの訳のわからない叫び声とかもそう、近所を通る多分改造された車やバイクとかもそう。

潰れた人をさらに潰して何がしたいんでしょう、と思う。

もう少し音というものには敏感になるべき、というか、もう少し安易に騒音が理由で人を訴えてもいいだろう、とか思いたくもなるのである。

ただ、それを言ったら若い頃の自分のギターやドラムなんてとても恥ずかしくて外に出たくない。

誠に遺憾である。

八月から憂鬱な気分が深まってきて朝起きて作業所に行って普通に活動した後は、

家に帰ってしまったら横になるくらいしかすることがなかった。

動けなくはないが何かをする気が起きないという意味で。

ルーチンワーク、というか、仕事や行事で行かなければならない場所には行くが、それ以外はどこまでもやる気が出てこない。

料理を作ることも菜園の世話をすることも忘れたかのような意志力の低下、

かといって一日中世界は全部終わりだとかいうオーラを身に纏うほどどん底でもなく、

なんとなくやる気がでない、おこらない、復活しない、意欲さえあれば解決するが肝心の意欲がない、という状況だった。

ろくな買い物もしていないし遠くに行ったり日帰りでぶらりと出かけることも、

なんとなくやる気が、気分が乗らないから何もしないで文字通り横になる。そんな数ヶ月だった。

テンションや心の余裕やメンタルがそもそも低い位置にあると、普段そこまで大きく感じない刺激も余計に大きく感じてしまい、

音が余計に大きく心に響くようになったり、臭いがきつくなったり、個人的な主観でしかないがとにかくきつく、

それをどこまでも避けようとして家から出なかったり耳栓やら感覚を遮断する手段や方法を考えたり、とにかく回避的な行動をとった。

今もそこまで回復しているわけではないし、これはまずいと思って心療内科に行って、

憂鬱な気分を何とかするための薬を処方して投薬でなんとかしたようなものであるが、

現在はうるさいところに耳をふさがなくても多少なら何とかなるし、庭に出て秋の香りを楽しめる余裕もできた。

何もする気がないのは、好きな感覚を持つ、その他は可能な限り遮断していたい、という非常にわがままな心理である。

心がきつい状態だと、外からの刺激を極力少なくした防御態勢に、自分は無意識のうちに入っていくらしい。

回復のためには休まなければならないのは前提だとしても、そのために色々な物を排除したり、

やる気が大半なくなったり、とにかくじっとしていたいだけ、みたいな感じであった。

ゲームをしてもノルマを消化するみたいで楽しいのかそれは、と聞かれたら微妙な気分になる。

そしてひたすら自室で休むことだけして、外を通り過ぎるバイクとか車とか近所の誰かの話し声とかをうっとうしく思っていた。

調子のちょっといいときだけ、ふらっとちょっと何かをするような、

役場に行く必要のある手続きもチャンスを見計らって一瞬で終わらせるようなそんな気分だった。

いやはや、本当にわがままである。

誠に遺憾である。

人間には三つの場所が要るという。

一つは家庭など自分が守られる場所。

二つ目は仕事や福祉関係などの働いたり工賃を得たりする場所。

三つ目はそれとはまた別な関係の友人や趣味の場所が。

しかるに田舎であれば自宅と作業所までは何とかなるがそこから先の三つ目の場所が得がたいと感じるのである。

主に故郷が黒歴史であるという意味で。

故郷での学生時代はまだ発達障害とかそういう疑いもかかっていなかった頃なので、

単なる変人であり、勉強はできるがそれ以外がボロボロで変人という意味で伝説を作り次世代に悪影響をもたらした。

すなわち私の存在が黒歴史である。今さら故郷に戻って発達障害でした、なんて言ってもどうにもならない。

過去は取り返しのつかないものである。

田舎というのは狭い社会だから過去の行状を知っている人間は必ずいるだろうし、

そういう人にばったり会ってしまったら私が気まずい。今は友人関係と呼べるものがないのも仕方ないという状況である。

今さらどんな顔をしてお詫びに行けばいいのか。何を謝ればいいのか。

そういう感じなので福祉施設とかもう完全に割り切って確実にカミングアウトしたことで存在が許される場所でないと安心しない。

そうでなければ店を一人でぶらつき歩いたり、あてどもなく車でドライブを繰り返すくらいしかない。

息抜きできる空間が三つ目の場所として必要であるがこの壁が案外高い。

自分のコミュ力では新しく開拓はできない。やってもいずれ違和感が自分からにじみ出る。

なのでコミュ力がないことが前提にあることが、最初からバレている場所でないと落ち着けない。

ただ人に何かを多く背負わせると罪悪感が出てくるから、場合によっては一人でもなんとかなる空間を構築し、

そこを私が生活する第三の場所ということにしなければならない。

自分に浸れる場所が自室以外に確保できないと引きこもりとほとんど同じである。

家と作業所の往復、ほぼ間違いなく他には外出しない、となると、作業所がなければどう取り繕っても引きこもりでしかない。

そうなると全役割を自室に押し付けることになるから、気晴らしでもなんでもいいから行きつけを作っておかなければならない。

今の自分には行き先が少な過ぎる。

誠に遺憾である。

秋の彼岸には特にやることもなくなりつつあり、これからのことを何かしら考えたりする。

親戚も少なくなってきているからお寺の話とか考えていかなければならない。

とりあえず障害の都合上子孫とか二の次三の次の話なので自然に私の先の世代は考える予定が全くなかったりする。

することがなくなるというよりは自分のキャパシティの都合上なくならざるを得ない、

と言った方が正しいのかもしれない。

少子化少子化とは言っているがそれすら気にとめる余裕や力がないという。

そういうものである。

誠に遺憾である。