隠者の庵

隠者の庵

自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

騒音と呼べるような音は最近そんなに鳴らなくなったが、だからといって安心できるわけではない。

聴覚過敏というのは自分が意図していなくても必要以上に音が異常に聞こえるような状態である。
だから他の人ならばどうでもいいような音が耳に引っかかったり、変に大きく聞こえたりする。
前に書いたがいちかばちか耳に何かありはしないかと聴力検査を受けたが特に問題はなかった。
純粋にメンタルか脳の気質上の問題である。
周囲の人々が同じ音をどのように聞いているのかはわからない。ただ我慢の限界というか耳の限界に来てしまいイライラすることは増えた。
いい加減回りには人の居ない車もバイクも来ない一人暮らしで音の鳴らない環境を確保したいと思うのである。
それくらい音の鳴るものの耳に対するダメージが半端ない。
耳栓をずっとしていてもかえって聴覚過敏が悪化したり他の症状を併発したりするし、何より触覚に違和感ばかりなので、
耳栓に頼り過ぎるのも危険であるから、本気で耳栓をつけるのは宴会が近くにある場所とかにぎやかすぎる雑踏とかだけにしておく。
何にしても少なからずダメージが入るような耳をしていると、何の変哲のない音でさえも、
年々キツくなるというか、音によってたまったストレスとか疲れが余計に心の余裕を失わせる。
当然比例して耳の音も余計に大きく感じる。
一時期ひどい音が鳴り響いていたときは精神安定剤も増えたし抗うつ剤もなんでもかんでも使える物なら使った。
周囲に雪が降ってきて車も静かになったが根本的な問題は一切解決していない。雪がとけて春になればまた同じ音を聞くことになるだろう。
周囲の成員は一切変わらないからである。
何なら自分だけ遠くに離れたい。親が近くにいないとだめとかそういう問題でもない。
何でも誰でも音がきつい。それだけで生きているのがキツくなるには十分である。
誠に遺憾である。

(夢の中での)仕事相手が急に分厚い本とボードゲームの盤を持ってきて、

これやってみるか、という。なんでも第三次世界大戦を起こしかけた奴が暴れる設定である。

何でもクリアの難しさにおいて定評があるという。

分厚い本を開いてみると全文英語であり、余程マイナーなゲームなのか、翻訳すらやる気がなくなりそうな厚い本で、

ルールなんて理解しようにも壁が高過ぎる。

何とか基本的なルールを身につけたが簡単にボードの上の人がルール上死んでゆく。

ゲームマスターが手抜きしてもそうだが普通にやればルールを理解する前にゲームオーバーになってしまうだろう。

とにかくゲームオーバーになりまくりなので何も進まず、もういいから分厚い本を読ませろ、と言い、

中の英語を漠然と理解しながらゲームに登場する人々の非道さに震え、

ゲームでもこんな殺伐とした世界は要らないと思いました。

そのまま昼ご飯になったがゲームのせいで味が抜け落ちた。

もう人生もなんとなく終わりのような気がして、適当にその辺を歩いたり、新聞を眺めたりしていたが、

突然裁縫がしたくなり、手短な布のほつれを見かけたら突然わいて出た針と糸を使って縫って修復し始めた。

自分のことではないような流れるような手際で。

一つのほつれを直したら別な服の穴を探してそれを縫って埋めたり、

何でもいいからと服の山を漁って穴でも見つからないか、見つけたらすぐ埋めてやるのに、などと、

意味不明なことを考えながら車が通る道路の上に出て裁縫の続きを仕上げていた。

人の目が気になると急に活動できなくなるので目立たないくらいでちょうどいい。

それともなんですか。迷惑なやつがスタンドプレーをするのがお望みですか。

目立つのは身長の都合上どうしようもなく一番前に立つくらいでいいです(切実)

目立つの面倒くさいですから。

社会に居場所を作ろうとするとある程度目立たなくてはならない気がして胃が痛い。

とてつもない陰でひっそり生きるのはどうしても許されませんかそうですか。

必要な手続きと必要な仕事と必要なだけの買い物とあとは執拗な陰に隠れたい気分では生きていけないですか。

という文章を書く時点で矛盾している気がしないでもないですがここはそんなに人が来ないからいいのです。

もっと人が来ていたらきっとこんな文は書いてないし、人が来ることを意識して胃や精神が張りつめているだろう。

健常者を名乗ったころがそうであったように。

素をだしていけばいいじゃない、という簡単に言う人々は、

素の状態がとんでもない状態である人間がいることに気が及んでいない気がしてならない。

見せたくもないもんこんな文章でも意図していない仮面が外れた素顔なんて。

いちおうこれでもまだよそ行きを意図している方なんですよ。

誠に遺憾である。

何回も書いているように自分には神経質が服を着て歩いているという自覚があるから、

五感というのはなるべくシャットアウトしておきたいものである。

易刺激的、というか、自分の意図にかかわらず侵入してくる感覚はどこまでも異物である。

食事に入ってくる砂とか、突然聞こえてくる緊急車両のサイレンのような。

赤い色が鮮やかだったら闘牛みたいな感覚というのかわからない言葉にしがたいアッパーな感情になってしまうし、

強い臭いはたいてい具合が悪くなるし、少し大きめな音でも耳栓とかノイキャンのイヤホンとかつけて動きたくなるし、

かといって耳栓をずっとつけていても触覚的な違和感は消えないし、そもそも人肌が違和感なので人間に触りたくないし、

何がいいのか、と言われたら味覚以外の感覚をなるべく穏やかにした環境、としか言えない。

許されるならば自分が呼んだ一番強い刺激以外ない空間がいい、無理ですけれど。

色の刺激も、音の刺激も、香りの刺激も、触れる刺激も、味の刺激も、そんな強くないと生きられないんですか、などと思いながら過ごしている。

クラシックを聴きながら何か自分の中にあることをこうやって文章や詩の形にする、

もちろんインテリアも、カラーリングなどなど自分の感覚に適合した状況で、

外の他人の家に出かけたときに刺激が強すぎると、昔は耐えられた何かを、この今耐えられるかわからなくなっている。

色合いがあまりポップ過ぎると目が疲れる。その他の刺激についても強めでも疲れる。

疲れる環境に人間を放置して疲れないように、なんて無理だろうと私は思う。

そもそも人間が一番の刺激物なんですが。

誠に遺憾である。

この間本当に自分が聴覚過敏かどうか、白黒をつけに耳鼻科まで行きました。

レントゲンを撮り、耳の検査(耳に付ける機械音の方が検査の音より大きなもの)とかやって、

あれこれチェックされた結果耳自体には異常は見当たらない、と医者に告げられました。

耳の方のトラブルではなくて、脳とかのメンタル的な部分で音について問題が発生しているのだ、と。

耳鼻科で解決することはそんなにない、鼻の詰まりで耳に影響がでないように、鼻の通りを良くして様子を見るくらい、と。

一言目か二言目くらいには聴覚過敏の類です、と。

なんとなくそんな気はしていたので特段大きく驚くとか何も見つからなかったから悲嘆にくれるとか心が低く落ちることもない。

むしろ純粋な心の問題に消去法で行き着いたようなもので、心療内科でメンタル的な内容に絞って問題を相談できる。

ここで耳に何かあったら治療のために入院とかしなければならないのでそれはそれは面倒である。

親戚の中に耳をガッツリやられて倒れたり通院したり、長期入院したりした人が複数居るので、そこは気にしていた。

耳には明らかな異常がない、とは本当に自己の心の持ちようの問題である。

回りででかい音が定期的に頻繁に聞こえるから耳がメンタル的にやられてしまい、

音に関する心配が頭から離れなかったり、家に居ると周りの大きな音がいつ来るかわからないから家に帰りたくないとか本気で言い出すし、

メンタル的な問題を丁寧に解決していかなければここから先はどうしようもない。

次回またうるさい何かがやってきてまたメンタルがやられる、の再現をしてしまえば、

蓄積されたメンタルのスリップダメージ的に自分が長く保つ気がしないのである。

音なんて可能な限り少ない方がいいのです。

誠に遺憾である。

人と話をするときは、同じ事を声で聴くよりも文章で聴く方がやりやすい。

声が入るとどうしても話している声の調子の方にも注意を向けなければならなくなって、必要な情報がどれかわからなくなる。

喜怒哀楽がどんどん乗れば乗るほど文章と内容が乖離していくから大変である。

怒っているのか悲しんでいるのかという情報を言葉にかけ算して計算しなければならず、感情の計算が苦手な自分にはつらい。

普通に話すぶんには少しは何とかするが、感情が言語を超越して、自分の限界を超えるともうどうにもならない。

文章なら文章の裏に含まれた意味があっても声という感情が入っていないからまだわかる。

言葉の裏の意味というのは、マナー書やネットで公になっているものに関して言えば、まだ実際に見れば学習できる方なので、

その場で新しい意味が付け加えられたりさえしなければ理解出来ないことではない。

しかしその場での人間の感情や表情が加わると途端に意味が読みにくくなってくる。

酷いときは感情や表情が言葉のすべてを覆って聞いている言葉の意味なんてなくなってしまう。

ひどく無表情だと言われそうになるが自分の話している内容に関しては感情をなるべく入れたくない。

怒号とか剣幕とか論外である。

必要なことを伝えるのに感情を付け加える必要は無い。失礼にならない言葉遣いで必要なことを書けば済むことである。

感情を入れるならその旨敢えて文章にして書く。

よくクレームがどうだかとか言われるが怒りを伝えたい人の述べ立てている言葉ほど無意味なものはない。

怒りが先にあり、理由など怒りを伝えるための触媒に過ぎず、実際言っていることなんてどうでもいいかのようである。

何回事情を伝えても怒りの感情を引っ込めない人ほど私はそのように感じて見ている。

伝えることを伝えたらあとは帰るだけ、の自分にはとても理解できない。

誠に遺憾である。

外に出ると色々あるから人のいない場所でひっそりと暮らしたいと思っても、

買い物はとても不便だし、定期的な通院も楽じゃないし、

今なら何より熊が怖い。のんびり畑を耕しているわけにもいかない。

自然の中で、なんて言ったら熊の爪で顔が吹っ飛びかねない。

人との接点を極力減らすことを念頭に、人間関係を断捨離して静かに暮らしたいなんて言うのは簡単だけれども、

実践するのはそんなに楽ではない。


ただ、故郷に思い入れが無いわけではないが、故郷があまり身を縛るようならむしろ手放してしまった方が楽になる。

主に精神的な意味で。

昔というのはよく人を縛りつける。思い出したくないことを思い出したりするし、考えたくなかったことを考えたりする。

何より意図していなかったことや忘れてしまいたいことを不意にこちらに投げつけられると自分がストップする。肉体的にも精神的にも。

完全にフリーズして何を考えているのかわからなく見えるが実際何も考えられていない。

すごい無表情か仏頂面で突っ立っているが実際頭はいっぱいいっぱいである。

誰も深く知らないなら、誰にも深く知られていないならあれこれしがらみを考える必要もない。

しがらみがあるから、私の頭はこんがらがるし混乱もする。電話なんて人にかけたくもない。

そんな無様な様子なんて自分でも見たくないから人からは隠れているに限る。

それを生きていることに疲れる、というならばきっとその通りなのだろう。

誠に遺憾である。

寒い。寒くなると冬季うつに気を付けねばならない。気を付けねばならないといってどうにかなるようなものでもないですが。

寒いのは実際実にこたえる。服も厚いものにしなければとても寒くて暮らせないし風邪をひけば命も危ないから変な格好をするわけにもいかない。

身体だけで済めばまだいいが冬は天気もそれほどよいとも言えないので、

曇りがちになると気分も曇りがちになる。しかしどこかの国のように人工的に晴れさせるようにもならない。

また暗鬱な空がやってきてまた雪を降らせるだけである。

地面も深い雪に覆われ、春まで畑にも触れられず、雪でないところも凍りつくからウォーキングですら危険である。

ウィンタースポーツをするといっても専用の装備はしっかり調えないと滑って転んで生命の危機がやってくる。

一体何をどうしろと思うがしかし天は覆すことの出来ないものである。忍従して雪かきや暖房などささやかな抵抗をしつつ春を待つだけである。

出来ないものは出来ない。

何故避暑はあって避寒はないのか。

誠に遺憾である。

近所の騒がしいのが本当に騒がしいのか動向を注視したり簡易的にスマホのアプリに音量測定装置みたいなものがあるので計りだした。

暇だから。

暇だからというのがダメならば何かを観察、観測したり日々のデータを積み重ねるのが趣味だから。

あといつ音が大きい方向へエスカレートしてもいいように本当にできる限り細かく記録はつけるつもりでいる。

万一これ以上に健康を害するようなことがあったとしても証拠や記録がないならどこに持っていっても参考資料にすらならないからである。

データを取るなら誰でも使えるようにしておかないと公平ではないし使いようもない。

それが警察や裁判などパブリックなものへの提出物であれば、なおさら事細かに記載しなければならない。


宴会ではしゃぎ廻ったりその辺で叫んだりするのはもう声が大きい時点で論外にするとして、

大きな音が耐えられないが一体自分がどこまで耐えられるのかは測定する目的も踏まえて案外重要だと思う。

大した音でもないのにうるさいと自分が思えば聴覚が過敏になっているか、ストレスなどの精神的な負荷で壊れかけているか、であり、

個人がうるさいと思い込んで叫んでいるのはなるべく避けたい。

誰もが本当にうるさい音については間違いなくうるさいと言わなければならないだろうし、

そうでなくても少し街中を歩けば雑踏やスピーカーからの音にとめどもなく溢れていて私は流されていくだけである。

安全な場所なんてそんなにないですよ、安全だと思うのは音が流れることがどれだけ当たり前でないかということが完膚なきまでに忘れられている。

その音の鳴る前の空間に音はあったか。あっても自然の音であり人間がわざわざ出すような音はそこに含まれていないはずである。

つまり不自然な音をだしていかにも普通であるかのように見せかけているのが現代社会である。少なくとも都市部においては。

静かに過ごしたいが静かにならないものが多過ぎて特に田舎にいるからと言って特に安心だということにはならない。

車やバイクは通り過ぎるしゴミ収集車は音楽をかき鳴らしてゴミを集めるし、ものを運ぶトラックが通り抜ければ地響きはするし、

こちらが音を鳴らさないからといって全く安心でも安全でもないのが現代社会である。

誠に遺憾である。