こう、世の中に普通に出ていたときに一番不思議だったのは、仕事を終えて家に帰ったあとでどこかに娯楽に出かける概念があることである。
帰る途中で買い物を終えて家に帰ったら、もう肉体的にも精神的にもクタクタでとても人と何かをする気分ではない。
ダメージ回復のために一人で楽しめることを人に気兼ねなく楽しんでおかないと明日が乗り切れない。
などと思いながら過ごしたものである。当然誰かが玄関チャイムを鳴らしたときにはゲッソリした気分がやってくる。
仕事で誰も知り合いのいない場所に勤めた時などは本当に誰も知り合いなんていないから仕事で人間関係がおしまい!はい終わり!
などと職場の入り口のドアを閉めたときから思ったものである。ここからは自分だけの時間と。
そんなアフターの時間を過ごしていたので、夜から新しい人間関係が増えることもなく、
生活の半径なんて狭ければ狭い方がいい、人間関係を広げて人と接すれば接するほど摩擦の傷が自然に増えていく人間には耐えられない。
もう仕事をやっているだけで人間に疲れるんですけど!と散々思ったものである。
そしてどうもそれは普通ではない、とわかったのは普通の仕事を辞めて随分と後のことである。
人は夜の街に出かけていくし、酒を飲んで何だかんだと騒いでいるし、スポーツや何やらやって夜の時間を過ごしている。
仕事でぐったりした人間にはそれがきつかった。
夜の余暇を楽しめたのは作業所に入って人間関係を強要されなくなってから、である。
パブリックもプライベートも縛られる人間関係を築くなんてことは、自分にはほぼ不可能なことであった。
パブリックですでに疲れ果て、うんざりして、とにかく休まなければならないと思う人間に何ができるか。
人の機嫌を取っているうちに精神が磨り減って、一日凹むことばかりで過ごしているのに、さらに磨り減ってしまうようなことができるか。
一人を、シングルを生活の単位としている、そうみなしている人間には、集団生活はもれなく苦痛である。
仕事をしている時に優先してほしいのは一人で放ってもらえる権利であった。
チームワークという概念が薄い人間に集団行動をさせても和を乱す。自分が散々やってきたからわかる。
パブリックの場であれこれ見張られることは必要だとは思うがそれがパブリックを離れてからでも求められるのであれば生きた気がしない。
携帯や連絡の手段を絶って一人で部屋の中で手足を伸ばしていたい。
こんな体たらくだから人を誘ってどこかに行こうとしたことは大人になってからはほぼない。
大抵人に巻き込まれてどこかについていくことしかしなかった。
人を誘うこと、呼ぶこと自体がとても自分には厄介で面倒なことだから。
いちいち人の承認を得るくらいなら多少不便でも一人でやりきる。
人がいたら人の機嫌しか考えられなくなるから人は家には呼ばない。
おかげさまで恋愛なんてやったことも触れたこともない。
誠に遺憾である。