秋の彼岸には特にやることもなくなりつつあり、これからのことを何かしら考えたりする。
親戚も少なくなってきているからお寺の話とか考えていかなければならない。
とりあえず障害の都合上子孫とか二の次三の次の話なので自然に私の先の世代は考える予定が全くなかったりする。
することがなくなるというよりは自分のキャパシティの都合上なくならざるを得ない、
と言った方が正しいのかもしれない。
少子化少子化とは言っているがそれすら気にとめる余裕や力がないという。
そういうものである。
誠に遺憾である。
秋の彼岸には特にやることもなくなりつつあり、これからのことを何かしら考えたりする。
親戚も少なくなってきているからお寺の話とか考えていかなければならない。
とりあえず障害の都合上子孫とか二の次三の次の話なので自然に私の先の世代は考える予定が全くなかったりする。
することがなくなるというよりは自分のキャパシティの都合上なくならざるを得ない、
と言った方が正しいのかもしれない。
少子化少子化とは言っているがそれすら気にとめる余裕や力がないという。
そういうものである。
誠に遺憾である。
外で日曜大工、家の補修をしていたり、物置で車やバイクをいじっているのを見ると、
最近自分のパソコンを改造していない、と思う。
機械は定期的に触っておかなければいざという時に技術がなくて何も出来なくなる。
よく考えたらエンジン音がしないだけで、自分もなんかわからない機械をいじってあれこれやっているのである。
チューニングみたいな凝ったことは一切やらないけれどパーツを組み立てたり組み換えたり取り替えたり外したりはしなければならない。
そうしなければパソコンなんて完成しないからである。パソコンなんて手を加えてなんぼてあるから買ったままで使うなんて考えられない。
エンジンとか専門的なことを一切やってないので危険だからモーターには手を出さないだけである。
本来なら触るものはなるべく自分向けにチューニングしたりカスタマイズしたりして、もっと自分らしくしたい。
畑もそんな風にしてきた。音楽なんて自分の音作りのことを考えないで何ができるか。
特にギターやベースなんて自分のことだらけであってソロで弾くならばどこまでも自己本位に追い求めて、追い詰めてもいい。
音はどこまでも改造すべきものである。近所迷惑にならない範疇で。
そのために一番いいものではなくても現実の範囲内でなるべく近いものを追い求め、取り付け、演奏してきた。
どうも最近外の音に振り回されて自分のこと、自分の音については追い求めてもいない気がする。
本気でやったら確実に近所迷惑になりますが。
なので正直近所なんてなければいいと思う。
誠に遺憾である。
年々外からの刺激に弱くなっている気がする。
元々大きい音は最初から大きくて騒がしいが、今まで若干大きいレベルだった音も大きい音の中に入るような気がしてならない。
要するに大きめの音なんて聴くな、と。
こんな耳なら音の少ない、あるいはない場所に行って静養したくなる。
疲れた、音に疲れた、最近などギターも大音量で弾くこともなくなったし、
昔よく聴いたメタルもそんなに聴かない。今はクラシックばかり聴いている。
とにかく音に疲れてしまったらしい。
虫の音とかカエルの音は気にならないが人間の出す音ばかり気になって仕方がない。
現実社会に適応できていないのは間違いないが、音だけに関していえば少し騒がしければもっと簡単に適応できなくなる。
ひどい音とか発作的に通報したくなる、ようなひどいメンタルになっているのは間違いない。
耳栓とかイヤーマフとかすでに買いそろえてある。だが一番なのは音のない環境である。
今まで生きている中で社会に、生活環境に適応できていないのはわかっているので、
世捨て人みたいな世間から隔離された静かな生活なんてできませんか、と問うて過ごしているようなものである。
誠に遺憾である。
※これを書いている人間はエレキギターやベースやドラムを演奏します
バイクや車というのはよくわからないが、私にとっては恐ろしいものである。
特に音が。
大きければ大きいほど恐れが大きくなる。小さくてもエンジン音や排気音が大きければアウトである。
そういうものがない住環境を臨むなんて道路の傍に居る限り根本的に不可能だが、
減らせられるならなるべく減らしたいものである。騒音なんてなければよろしい。ついでにダンプとかトラックとか。
バイクなんていつ家の近くの道路を通り抜けるか知らないからいつ来てもいいように精神を鍛錬しないといけない。
前準備は重要である。
耳栓とか音楽とか色々な対策をして、ようやく乗りきれるものである。私の中では。
しない方がいいのは言うまでもないが、しないとその場を乗り切れない。
なぜならいつ来るかわからない恐怖心に襲われるようになったからである。
ここ最近の憂鬱具合などそれがそれなりの割合を占めると言ってもいいだろう。
今年になってから急にバイク等々の音が怖くなり始めておさまる気配がない。
抗不安薬が精神安定剤に変わったがそれも近くで鳴り出すモーターの音が最初の原因である。
それに近くの家の工事などが加わって自力ではどうしようもないことばかり大きくなり、
最終的に耳が次第に受け付けなくなって不安がつのって現状に至るわけである。
工事は終わったがバイクが通らないことはない。ついでにトラックとかも走り抜ける。
何も関係ないが、外国の大きな道路近くのホテルに泊まった時など、夜中でも車の音にバイクの音、
それから断続的に鳴り響くクラクションでとても眠るとかいう話にならなかった。
まだ自宅近くでクラクションを鳴らさないのと、深夜早朝に騒がないだけいいとは思うが、
それでもでかい音がいつ来るのかわからないとそれだけで私は不安になる。
夜中でも音が大きくなってしまったら、いずれ引っ越しも検討しなければならないだろう。それだけ音は恐ろしい。
誠に遺憾である。
最近憂鬱にしては重い感じになったり、発作的に暗くなったりするので、
心療内科で抗鬱の薬を新しく処方された。
特に理由もなく気分が暗くなったり、運転中にやってきたりもするので何とも落ち着かない。
しかしそうなるような決定的な何かしらが見当たらない。小さな原因はたくさんある。
わざわざ口にするような大きな理由が見当たらないない。近くの車やバイクの音とかはたまに騒がしくなる。
人付き合いは減らしているので急にやってくる人付き合いを除いてストレスはそんなにない。
もはや「季節の変わり目」みたいなどこででも何とでも言えそうな理由にしてしまうしかない。
しかし気分は間違いなく暗く、一度落ちたら長く引きずる。頭に直接響いてくる。
あまり「どうして生きるのか」などを考えたらどん詰まりになるから控えめにしなければいけないと思いました。
今まで取り組んできたことが終わったり、ちょっとだけ気の重くなることがあり、一撃で決まるような大きな出来事はないが、
いろいろな小さな凹む出来事の積み重ねで、勝手に気分が凹んだり落ち込んだままになって、戻れなくなったりするので、
もう自力で何とかするような段階ではないと私は判断しました。
そして薬が効くまでに一週間程度かかるので、それまでにダメージを大きくしないよう、副反応の嘔気に揺らされながら、
「何故生きるのか」という泥沼にはまりに行かないようにしながら生きなければここはどうにもならない、と思いました。
誠に遺憾である。
正直町内会というのはお金さえ払って済ませることができるならそうしてしまいたい。
人間関係の障害をもつと意図しない人間関係があったとき何かしらやらかしたりしないかをとても気にかけるようになる。
特に勉強して、学習して、空気が読めるようにもなってないから、
人間関係が主なことになることをやらせると大抵ろくな事にならない。
なるべく人との接点を減らして商取引と本当に必要な人間関係だけを維持して、
それ以外の外から降ってくる人間関係については触れないで生きられるならなるべくそうしたい。
人間関係を引きずると生きている気がしないから。
だいたい障害者手帳が出るくらいには人間関係の障害があるので、
町内会なんて本当にどんな人間がいるかわからない地域社会に放り込まれるじゃないですか。
関係を切っても近くにいるということは一切変わりが無い。こちらがしびれを切らせて引っ越してしまうまで。
たとえ地元だとしても何ら変わりは無い。むしろ地元ならかえって黒歴史である。私だけではなく地域そのものの黒歴史である。
障害があるということはカミングアウトすることまでも含めた考えをしなければならないということであり、
差別意識のある人にぶつかる可能性もあれば、差別でなくても偏見の目にさらされる。
嫌な視線を向けられることはもう半ば決まっているのに、何らかの集まりに強制的に出なければならないとしたら、
私は針のむしろにでも座っているような気分になる。居るだけでいたたまれない。
精神に病識があるのにそれをさらに人にあれこれ言われてああだこうだと特例扱いされたり、
自分にだけ違う視線を向けられたりしたら、そんな場所には最初からいない方が、メンタルヘルス的に健康になる。
障害を明らかにしなければ補助は受けられないが、明らかにすると福祉関係ならいいが、
福祉以外の人々に何を言われたりやらされたりするかわからない。特に差別的な言動にさらされることを恐れるものである。
何でもどうでもいいから、ゴミ捨て場や街灯の管理に必要な経費は支払うから人間関係を振らないでほしい。
できないものはできないどころか、余計に悪化させることを特に怖れているから。そして必然的に流れで村八分にされるから。
それなら誰とも関わらないで勝手に最初から村八分にされるわ。人と人との線を最初から繋がないようにして。
誠に遺憾である。
急に引っ越すことになって、特に理由はないが選んだ先が怪しい雰囲気のアパートだった。
建物案内のGoogle翻訳されたような微妙な日本語、修繕の行き届いていない建物、
それらが全部何とも言い難い微妙な雰囲気になっていた。
周囲の住人のやっぱり微妙に怪しい日本語を聞きながら案内された住所にたどり着くと、
内部のすべてが微妙に古くさく、本当にやっていけるのかという雰囲気が漂ってきた。
内側の壁がボロボロなので触ってみたらそのままボロボロと落ちてきた。
それはヤバイと落ちた塊を袋に押し込んでから気晴らしで外に出て行った。
事を済ませて家から出てみるがなぜか集団住宅から出られない。外に出るたびに同じような集団住宅にたどり着く。
そしてそのどれもが怪しい日本語を放っていて、日本ではない場所に移住でもしたかのようである。
数軒目でなぜか一階が市場になっている住宅にたどり着き、やっぱりギクシャクした日本語で何とかやりあっていると、
この辺の集団住宅は日本人のための住宅ではないらしく、その辺にいた人から日本から「うちの国」に嫁いできた芸能人か何かの話になった。
終いには小さいホールに案内されてその芸能人の出した曲を聞かされる羽目になった。
なんだかんだで家に戻ると家族が到着しており、改めて荷物や家具を配置しなおして、
近くの住人と微妙に通じない日本語で話して、また共同フロアで鳴り響く大音響の国の宣伝などを見て、
違う国にでもやってきた、やってきてしまったという気分になった。
そのうち近くの住民がやってきて、なぜか持ってきたゲームをプレイしても、日本語ではなかった。
やはり自分ら以外は本当に別の国の人ばかりのようである。
そしてまた外に出ると今度はちゃんと外に出たが、水田にやって来た。
近くの人に聞くと近所の国から何かを空から落としてくるという。
何のことか良く理解出来ないまま待っていると、空から袋に詰められた球根っぽい何かと肥料、
それから若干の土砂が詰められたビニール袋が何個もふんわりと水田のあたりに落ちてきた。
近くの人はそれを渋い顔で拾いながらトラックに押し込んでいった。
「こんな空から降ってくるような植物なんて、どうなるか怖くて育てられない」と言いながら。
どうやら住居だけでなく、他の場所にもその国は手を伸ばしつつあるようで憂鬱な気分になった。
こう、世の中に普通に出ていたときに一番不思議だったのは、仕事を終えて家に帰ったあとでどこかに娯楽に出かける概念があることである。
帰る途中で買い物を終えて家に帰ったら、もう肉体的にも精神的にもクタクタでとても人と何かをする気分ではない。
ダメージ回復のために一人で楽しめることを人に気兼ねなく楽しんでおかないと明日が乗り切れない。
などと思いながら過ごしたものである。当然誰かが玄関チャイムを鳴らしたときにはゲッソリした気分がやってくる。
仕事で誰も知り合いのいない場所に勤めた時などは本当に誰も知り合いなんていないから仕事で人間関係がおしまい!はい終わり!
などと職場の入り口のドアを閉めたときから思ったものである。ここからは自分だけの時間と。
そんなアフターの時間を過ごしていたので、夜から新しい人間関係が増えることもなく、
生活の半径なんて狭ければ狭い方がいい、人間関係を広げて人と接すれば接するほど摩擦の傷が自然に増えていく人間には耐えられない。
もう仕事をやっているだけで人間に疲れるんですけど!と散々思ったものである。
そしてどうもそれは普通ではない、とわかったのは普通の仕事を辞めて随分と後のことである。
人は夜の街に出かけていくし、酒を飲んで何だかんだと騒いでいるし、スポーツや何やらやって夜の時間を過ごしている。
仕事でぐったりした人間にはそれがきつかった。
夜の余暇を楽しめたのは作業所に入って人間関係を強要されなくなってから、である。
パブリックもプライベートも縛られる人間関係を築くなんてことは、自分にはほぼ不可能なことであった。
パブリックですでに疲れ果て、うんざりして、とにかく休まなければならないと思う人間に何ができるか。
人の機嫌を取っているうちに精神が磨り減って、一日凹むことばかりで過ごしているのに、さらに磨り減ってしまうようなことができるか。
一人を、シングルを生活の単位としている、そうみなしている人間には、集団生活はもれなく苦痛である。
仕事をしている時に優先してほしいのは一人で放ってもらえる権利であった。
チームワークという概念が薄い人間に集団行動をさせても和を乱す。自分が散々やってきたからわかる。
パブリックの場であれこれ見張られることは必要だとは思うがそれがパブリックを離れてからでも求められるのであれば生きた気がしない。
携帯や連絡の手段を絶って一人で部屋の中で手足を伸ばしていたい。
こんな体たらくだから人を誘ってどこかに行こうとしたことは大人になってからはほぼない。
大抵人に巻き込まれてどこかについていくことしかしなかった。
人を誘うこと、呼ぶこと自体がとても自分には厄介で面倒なことだから。
いちいち人の承認を得るくらいなら多少不便でも一人でやりきる。
人がいたら人の機嫌しか考えられなくなるから人は家には呼ばない。
おかげさまで恋愛なんてやったことも触れたこともない。
誠に遺憾である。
自分は耳はいい方だと思っている。余計な音ばっかり拾って自分が混乱に陥るからである。
音楽をやるには音感とちゃんと音を聴き分けられることが求められる。
そちらの方には特に苦労はないし、バンドや合唱の曲をちゃんと演奏できる。
問題はそれ以外の生活の場である。
選挙カーとかバイクとかトラックなどのうるさい車両などの放つ音もよく聞こえるし、
多分その辺の雑多な変な音も拾うし、特に大きくない音でも耳に、脳に突き刺さるときがある。
音を受けとめる耳が、聴覚が常に繊細で神経質過ぎて静音環境でしかくつろげない。
特定の音のいくつかは直接脳に響く感じがしてどうにも落ち着かない。
耳栓をつけたら何とかなると思ったら今度は何故かかすかに聞こえる音が脳内で反響してかなり大変なことになった。
時には家の中の機械音だけでもうたくさん、と思うときもある。エアコンや扇風機、ストーブは環境を整えるには必要なのだが、機械音が響く。
パソコンも自分の生活に欠かせないものだが自作で性能を追い求めた結果、普通のパソコンよりはかなりうるさい。
家の外の音は自分のものではないから外的要因と言えるが、
自分の生活に必要な物を使う代償としての音まで時には何か引っかかるものがある。
別に田舎暮らし特有のカエルの鳴き声、虫の音、雨や雪の音などは騒音に含まれないが、
自分の使う機械が余計な音を出すので何とかしたいがどうにもならない。
しかし使っている機械を止めたら生活にならない。一体何をどうしたものか。
そろそろ高品質な耳栓やらノイズキャンセルやらイヤーマフなど、防音を真剣に考えないと生活がきつくなる。
この耳は好きで音を拾っているわけではない、といってもなかなか分かってもらえない。
時々鼓膜のオンオフができればいいのに。と思ってしまうわけである。
結構年もとったが、聴覚が衰えることはまだなく、いい加減少しは衰えてほしいものである。
音を受け取る感覚が、体で、脳で増幅される形の過敏なら、入ってくる音が小さくなるに越したことはない。
世の中は自分の音も他人の音も実にうるさい。
誠に遺憾である。
何なら郊外に行けば熊が出るような田舎に住んでいるが、定期的に熊は現れる。
ニュースアプリに居住地の位置情報を登録しておけば近くで目撃情報があれば通知が入る。○○に熊の目撃情報がありました、と。
そして当然のように警戒しながらそのあたりを通過しなければならない。生活道路だろうと国道だろうとお構いなしであるから。
人が道を敷く場所は選ぶが熊がどこに行くかは選べない。
共存できるのであればそうするがそうもいかない状況ならどうにかしなければならない。
誰でも熊の対策ができればいいが、武装して狩猟できるのは本当に一部の限定された人だけである。
一般市民に何ができよう。対策をしても急に接近して来るならば不意打ちも同然、万全な対策など不可能と言ってもいい。
スプレーとか鈴とか持っていけばいいだろう、といっても急接近してくる野生の生き物なんて冷静に対処することなんてできない。
なので本当にガチガチに固めるか、プロに依頼するか、それらができなければそもそも近寄らない、とするしかない。
都会でああだこうだ言っている人は気楽でいいですね、熊が出ないから。
そんなこんなで熊と共存とか甘い認識の発言を繰り返す人は半ば白い目で見ている。
実際にやってこられて襲われたらどうなるか、その人だけでなく周囲がどうなるか、影響が果てしないから、
熊に餌付けとかやる人の心がわからないし、そもそも見てしまったらまず全力で逃げ切ることしか考えない。
生活圏に熊がいるとは命の危険がそばにある、ということである。
一撃喰らったら死ぬ危険がある存在が近くにあれば抗議の電話なんてまずかける余裕もない。
排除するか追い払うしかない。
それでもきっと福島町や羅臼岳の熊の駆除について抗議の電話が鳴りやむことはないのだろう。
愛護なんてのはどこまでも絵空事です。
誠に遺憾である。