隠者の庵

隠者の庵

自閉スペクトラム症(昔は広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

一月に入ってから、急に気力だの活力だのががっくりと落ちて今に至る。

じっとしていたら治るかと思ってじっとしたがそれほど良くなった気がしない。

昨年十一月から耳鳴りがひどくなってほぼ一日耳から高い音が鳴り響き、

ひどいときは換気扇とか少し音の大きい機械はびくびくしながらスイッチをつけたものである。むしろつけない日もあった。

音が塊で襲ってきすぎていて落ち着く暇もない。落ち着いたかと思ったら頭が重くなる。

これでもちゃんと精神安定剤とか睡眠導入剤とかはちゃんと服用しているんですけど。

それでもどうにもならないなら、薬を変えたり強くしたりするか、いちかばちか環境をごっそり変えてしまうしかない。

こんなことで自分は集団で生活するのには向いていないと実感するのである。

人の音がとことん気になるから。耳鳴りがひどくなってから一層ひどくなった。

なんでもかんでも鳴る音を気にしていつ鳴るのかと考え込んでいたら不安が強くなったり恐れを感じたりして体調は悪化するばかりである。

環境を整えようにも、自力で整えようと動く気力すら乏しい。だらだらと駄文を書きながら愚痴でもこぼすしかない。

要するに生きてるのがつらい。

ただし現状、普通?のうつ病のように朝に症状が重くなるのではなく、傾向として昼から夕方にかけてが一番気分が重い。

朝も確かに重いが少々であり、昼と比べたらそれほどでもない。どういうことなのだろう。

誠に遺憾である。

ASDをこんなものというのは何だが、こんなASDなんて自称してもいいことなんてありませんよ、今なら(などとASD診断済の人間は言う)


苦しいものを自称されたらいくら人の気持ちがわからん人間でも、人間は簡単にひどいことをする、とでも言いたくなる。

それこそASDの主症状の「人の気持ちもわからない空気も読めない人間め」とでも言い放ちたくなる。

本物は医療なり福祉なりのケアがなければ仕事でも絶賛七転八倒しますよ。決して七転び八起きではありませんよ。

それこそ人間の人間味が嫌になるくらいに。人間味なんて要らない、言葉通りの意味をくれと。

自分の言っていることが人にはさっぱり伝わらないわからないなんてよくある。怪訝な顔もされた。馬鹿にもされた。罵倒もされた。


私自身の細かなマニアックさは前衛的過ぎて大抵シュールなものに見えるらしい。

診断前の学生時は前衛的兼天然の芸風で一発芸をするので、何故か学内のいろいろなところに呼ばれましたが。

今振り返っても本当に謎で、極めてシュールだとしか言い様のない芸風である。

それからしばらくしてASDと診断され、コレクター気質を発揮して人にはよくわからないコレクションを始めたり、

何故そんなものを集めようとした、と言われるギターエフェクターをかき集めたり、

細かくて伝わらない芸風であちこちを動き回った。


それでもASDを名乗るメリットなんてあるんですか。あれですかギフテッドと勘違いしてませんか。

治療もできないものに何をそんなに期待するんですか。トラウマ発生装置みたいなことをしてばかりの振る舞いで何を得られると思っているんですか。

現実はもっと過酷で絶望的なものである。

誠に遺憾である。

とにかくコミュニケーションは恐怖である。最低限しなければならないことはするがそれ以外は壁とでも話していた方がいい。

全てというか大体は自分自身のコミュニケーション能力の不足に起因する問題であるが、

それがよりによって「自閉スペクトラム症」という、名前がついたら高確率で致命傷みたいなことになっているから一層辛い。

要約すると生まれつきで空気が読めないし、会話もうまくいきません!と言われているようなことである。

現在は治療薬もいい療法もないから他の精神疾患がでたら精神疾患の方の薬しかありません!とも言われている。

普通の人未満の状態から、自力のみでどう立て直せと。精神的な鍛錬、マッチョイズムでもやらせるつもりか。

心の機能が未熟ということは心が弱いということである。鍛えようとしてもボロボロだったり虚弱だったりでまず鍛えられるかどうか。

そしてボロボロだったり虚弱だったりした上に現実で失敗を繰り返した結果、自力で前に出られなくなっている、主に不安という名前で。

こんなことなら何もわからない知能の方が本当に何も知識がないからいいとか言いかねない。その程度にネガティブである。

何だよあの一部の別な障害の人々の訳のわからない前進具合は。根拠もなく前になどいけるか。と私は後に下がりながら思っている。

根拠もなく前進できることがいいこととは限らないがたまに根拠もないのに動ける人が羨ましく思う、自分が前に進みにくいから。

その境地に至るのに私は何を捨てていかねばならないのだろうか、となるので結局自分は前に出られない。

身の危険、精神的な危険に晒されるよりは何事も起きない狭い自分だけの空間を確保した方が自分にとって安全で安心だと思うから。

コミュニケーションをとらない方が平穏でいられるから。人と何を話すのだろうとなると恐ろしくてたまらないから。

今からコミュニケーションを訓練する、といっても何から始めていいかわからないくらい地域には何もない。

診断前に普通の仕事をしていた頃は何でこの地域で普通の仕事をしようと思ったのか。そして何とかなれと挑み続けることができたのか。

今はもう無理である。現実を知ったから。

自分の身を眺めてみると、田舎のしきたりと風土、地域特性と、自分を何でもいいから放っておいてくれ、という意識がある。

環境がコミュニケーション不全の人間にとってはとことん恐ろしい。何も誰も知らない場所で一人で過ごしたくなる。

信頼がわからない。信頼、とは何か。人間がわからないとそういうことも言い出すようになるのです。

誠に遺憾である。

人とはなるべくコミュニケーションをとりにいくようなことをしないようにしている。

したらあれこれ不全を起こしたり、終わった後でぐったりしたりずっと一人で反省会をしたり精神的な不安や恐怖にきりがなくなるからである。

物理的な問題は必要以外外に出ない、やりとりを極力少なくすることで何とかする。

電話やらメールやらLINEやらの人とのやりとりのツールも最小限にする。

普通に使えているように見えるときもあるかもしれないが、

そういうときは顔見知りだったり、定時のやりとりだったり、福祉上必須のことをしているだけで、

それ以外の時はスマホに対話機能なんてなければいいのに、などと思いながら生活している。

まだ携帯電話のない昭和のような世界が自分には住みやすかったのではないかと、独断と偏見で思ったりもする。

当然通知が来たらびびる。心の中で悲鳴すらあげる。精神のレベルが急に不安や恐怖になる。

こんな苦しいことなどしなくていいのに、などと思いながら。

一人であることでやっと落ち着くのに人なんて同じ空間におかれたら不安で仕方がない。

好きで引きこもっているようなものである。

何か気晴らしか、とにかく横になるようなことしかすることがないが、そうしないとつぶれる。特に人と会った後は。

意図しない会話というのはもうノコギリで精神を削るようなものでとにかく落ち着かない。

障害の相談とかこちらが話す内容が決まっていて、どうしてここに来たか、目的を話す前提で行う会話は台本をちゃんと組み立てていく。

そうでない自由な話題は自由なほど混乱したり、何も話せなくなったりする。自由だから。

普通に話すことが一番難しい、雑談が全く雑談にならなかったり勝手に演説になるような障害を抱えているので、本当にフリートークが困る。

一人で独演しているときは別人かと思うくらい雄弁になっているが、そこに一人でも挟まって対話形式になれば急に動きが止まる。

何なら対話で一番落ち着くのは店でのレジでの会話とか言い張る。

何を言えばいいかがおおよそ決まっていて、ルールから外れなければ何とかなるから。

最低、商品をレジまで持っていきお金を払えば無言でも一応何とかなるから。

自分が生きることの中に、電話などの、いきなり心に土足で上がり込んでくるコミュニケーションを入れてないからぎりぎりで助かっている。

連絡手段が電話とか何でもあり、にされたら生きている気はしないだろう。いつ通知が襲ってくるのかと気が気でないから。

最悪歯が噛み合わなくなったり怯えたり頭がガンガンしたりとにかく落ち着かなくなり最終的に不安や恐怖に潰される。

もう外から見ればどうして生きているのかわからないようになってしまっているが、

自分がとことん苦しいのが双方向に連絡先手段があり得る、ということなので、

一方的なSNSのいいねの方が双方向にやりとりをしなくていいだけ、まだ自分は何かができる、生きているような気がする。


もうコミュニケーションに障害があるのは嫌でもわかったから、双方向のコミュニケーションを強制させないで静かに生きさせてくれ。

社会の喧騒とか世間に放り込まれるだけで不安や恐怖を煽られる生活は勘弁願いたい。

誠に遺憾である。

別に自閉スペクトラム症の人が全員不幸というわけではないが、私にとってはひどいものだと思っている。

田舎暮らしのゆえに選択肢が狭まって少なくて選ぶ余裕もないという意味で。

たまに生活の息抜きをしようと福祉施設を利用しようと思ったらそもそも自分の現状にあった福祉施設がない。

大体自分より身体なり知的なり精神なりなんなりの重さがもっと重い、このように文章を書いたり話したりすることが難しい人にはある。

一応知的障害はなく、一応五体満足(脳は決して満足ではない)の人間には適したサービスというものが見つけづらい。

普通の生活をしながら普通には暮らせないような精神状態だったり、あるいは感覚の過敏に襲われながら、なんとか暮らしている。

ちょっと大きい刺激が入れば感覚的にはもう衝撃に襲われているようなものである。

そこに自閉スペクトラム症の大元の症状、コミュニケーション不全やらこだわりの強さやらが加わって越えられるものも越えられない。

これで自己肯定感なんてどうやって高めればいいのか。人と交わればコミュ障と言われる。

環境的に生きていることのベクトルが常に下向きになっている。これ以上何を耐えろと。

おまけにSNSでは被差別の筆頭に掲げられ何かと貶されたり名誉も損なわれている。かつての被差別民のようなことになっていくのか。

自閉スペクトラム症は生まれつきやら遺伝子やら複合的なものであって、そもそも脳の機能的な問題であるから、

心理療法に行けば治るわけでもない。そもそも現状ASDに治療法や治療薬はない。ADHDにあるようなものは存在しない。最早罰ゲームである。

治療できないのなら可能なところを動かして何とかする、とはいえ心や精神が動かそうとしてまともに動くようになっていないから限界がある。

目があるのに目が見えなかったり、耳があるのに耳が聞こえないのと同じように、心があっても心の機能が欠けているのである。

心が欠けているなんて一番重態じゃないですか。しかしそこの手当やら福祉サービスやら身分証明というものに対する意識はまだ薄い。

自閉スペクトラム症と診断されて二十年弱過ぎたがあまり応対が変わったような気がしない。

何なら自閉スペクトラム症を含めた発達障害全般にあてはまる障害者手帳すらない。宙ぶらりんのままである。

発達障害だって「障害」と言われているからには正確な診断名で手帳が欲しくなるわけである。

手帳でもなければこのグダグダな環境はさらに過酷になって当事者に牙を剥く。

精神障害は寛解するから更新が必要であるが、発達障害は生得的なものであるから、精神障害のように扱われるのは矛盾がある。

生得的な脳の機能障害で治療法もないのに発達障害で診断されても発達障害の手帳がないから、知的がなければ精神障害扱いになり、

その結果生得的な障害があるにも関わらず、精神の症状で申請しているから数年おきに更新しなければならなくなる。年金も同じである。

障害の概念が新しい頃に生まれた己の不幸を嘆くがいい、みたいな状況に追い込まれた気もする。

精神的にもフラフラ、制度的にもフラフラ、あまりにも心細い。

酷い奴だの何だのと追い出すくらいなら、ちゃんと手当を受けられるようになってから、

状況が整ってから追い出してくれませんか、などとネットの言論を見ていれば思うのである。

誠に遺憾である。

自分は「一人になりたい」と思うときは、誰かに自分の存在を認めてほしいとか言葉の外の意味は一切なく、単純に一人になりたいだけである。

極端に言えば誰も同じ空気を吸うな、と。存在を認め合うとか面倒なことはいいから何より一人にさせてくれ、ほとぼりが冷めるまで。

人間がわざわざありがとうとか言わせる何とかかんとかもいいから、何も話さないでいいから。

本当に単純に孤独を噛みしめたいから「一人にしてくれ」と自分は言うのである。


と言いたくなる機会が最近本当に多くなって困る。前々から一人にならないと死ぬとか書いている気もするが。

ごく近い家族ですらこう思うのだから、赤の他人については言うまでもない。

全く相談できる人がいないわけでもないが、それはそういう役割分担の人だけ、ということにしておきたい。家庭という言葉で何でも背負わせたくない。

仕事関係ならば、仕事だからという感覚で接することができ、個人の生活に踏み込まれない、深入りされない方がありがたい。

ビジネスライクというか、私生活に誰も入れないような生活をしたい人間には、家庭の家庭らしさがまさしく余計なことに思える。

お金とか最悪生活保護になってもいいから一人であることを優先したい。

金があるに越したことはないが、障害の都合上稼ぐことは難しいので、金なんて正直どうでもいい、とできるならそうしてしまいたい。

どうあがいても最終的には、最期に一人にならざるを得ないのである。その時一人になりきれなかったと後悔するような生活はしたくない。

家庭のもたらす恩恵が、負担や重荷に見える場合、それは家族と言えるものか。

一般的な家庭円満、といえる状態に憧れを感じたこともないわけではないがそこまで親近感はない。

あまり触れあうとこちらが辛くなる。もっとドライに。もっと言葉を少なく。なんなら無くてもいい、とか言いかねない。

家庭の意義、というものが大人になっても未だに大したものに思えない。小さい頃は家庭に守られなければ生存できないからそこにいるが、

大人になったら仕事に就いて、独り立ちして家には積極的に帰らなくていいものだと思っていた。

仕事が上手くいっていれば、言葉通りの意味で家庭を顧みない人間になっていたことだろう。

家庭を築く能力も意欲もないから家族に親近感を抱かないのかもしれない。

晩婚化非婚化といわれ、結婚していないものが後ろ指をさされないような世の中だから、私の負担も少なくて済む。

これが一昔前ならこんな不適合極まりないやつでも、発達障害があってもそう言われず(そもそも発達障害の概念がないから)

家庭を持たされてヒーコラ言っていたのだと思うとそれはそれでゾッとする。

家庭自体がそぐわない人間は自分を含めて一定数は必ず存在する物だと私は思う。

孤独に親近感がある以上、家庭に属していて団体生活をしていると、

定期的に、衝動的にでも計画的にでも、家族の団体をぶん投げて一人になりたくなる。

時代が昔なら世をはかなんで出家でもしていたことだろう。

自分でも高校ぐらいから漠然と「出家できないか」などと言っていたので、孤独になれない方がおかしいと思うタイプなのだろう。

定期的に一人になれなければ逆に精神的危機に立たされる、と。

集団で暮らしていると定期的に衝動的に孤独への渇望がふつふつと湧き上がる人間に家族は酷ではないですか。

誠に遺憾である。

私は人と暮らすと不都合が出る人間である。人と仕事をしても不適切な人間である。環境の変化にはしょっちゅう不適応を起こす。

前々から思っているが、自分は一人でいないと生活が成立しない。人と何かをするのは全て妥協の産物である。

それでも最低限しなければならないことはするし、仕事以外の付き合いで、人間関係に深く突っ込まなければいい。

仕事の上で必要なコミュニケーションは不完全ながらもするし、

仕事は仕事だと割り切ればなんとかなる。人間関係は壊滅的ですが。

そうやって人間関係が不具合だらけだとクタクタになって、家に帰ったら誰とも関わり合いになりたくない。

そして定例で一人会議を開いてあれこれ脳内で自問する、とは私の中ではよくある話である。

人と人が関わりあうことにエネルギーを使い果たしてもう人間なんていらない、と。

家族が同じ家庭にいれば生活をするので、それぞれの役割において仕事をし、生活のルールに基づく行動をする。

自分の中では家庭は「家庭のようなもの」であり、一人で縛られず誰とも話しかけなくていい時間がないと精神的に追い詰められるが、

極一般的な家庭内で積極的にコミュニケーションをとっているものだと私は思っている。

自分などコミュニケーションに不向きでうわあああと言いながら何とかコミュニケーションの荒波に挑んでいる段階なので、

家庭、プライベートの空間に入ったら人間関係なんて意識したくない。意識するとしたら家庭の中の疲れでも、仕事で疲れるのと同じ意味である。

仕事場でも仕事をして、家庭でも仕事をするような生活ではとても生きていられない。

禅を組むまでではないにしろ、一人であることを噛みしめられる時間がないと精神が保てない。

自分という秩序を保つ家庭に、たとえ家族でも人が居たら、とたんに落ちつかなくなる。そわそわしてとてもリラックスできない。

そして人には何かを強いるようになる。自分の平穏を保つために。そんな家庭が平和などと誰が言えるか。

人の視線の間に一日晒されてまともに生活ができると思うか。

家族の生活音すら最近はうっとうしく聞こえ、落ち着かなくなってきた。もともと聴覚過敏だと言われているが、小さな音も遠慮なく拾う。

そして人には自由があるので気ままに動く。私の意図しないところへ。

そういうのに一々気を揉めていたら生活できないだろう、と言われると思うが、実にそれに気が揉めているから疲れて疲れてたまらないのである。

誰のことも気にしない考えもしない。一人は一人以外の意味をもたない。

家族のバランスのために何かしなければならないという曖昧な関係性は、自分には疲労疲弊を連れてくるものである。

人と人が支えあうなんて毎日毎時できるはずがない。そういうのは普通の人にやらせてくれ。

だから今ある自閉スペクトラム症以外に身体に障害を持つようになったならば、もう生きていける気がしない。

誠に遺憾である。

昨日の投稿の話の続きになってしまうが、自閉スペクトラム症というのはいかに自分がそうでないことかを擬装、擬態するという。

自分が自分を発達障害者なんて思っていない頃に思い当たる節といえば、思い当たる擬態なんて、規則と礼儀で身を固めることくらいしかない。

簡単に言えば法律万能主義に堅苦しい礼儀作法とマナーで自分を雁字搦めにして守ることだった。

逆に言えばルールやマナーを守る意識がなかったりする人にはとことん弱いということである。

規則と礼儀とマナーという杓子定規的なものを使って何とか乗り切ろうとした形跡だけは何とか見受けられる。

自分の部屋以外はすべてよそ行き、自分の部屋だとしても誰かがいるならばやはりよそ行き、

堅苦しいがそうしないと人の間で生きていけない。自分を縛り付けるものが自分である。ルールやマナーは生命維持装置であり、なくなれば個人の精神的に存亡の危機にさらされる。

酒の席とか夜とかそういうルールがルールでないような空間が多いから、私にはイレギュラー、想定の範囲外の事ばかり起きて処理しきれない。

だから自分を守るためにより潔白になれるように一層規則で縛り付ける、どんどん重苦しい規則を身につけるしかなかった。

それが私の考える人間への擬態である。まさに人間らしくない人間らしさである。

柔軟性も見当たらないし、ルールを守るためなら何でもやる。守らない人間にはとことん冷たい。こんな奴に人間が務まると思うか。

案の定穴を突かれてボロボロになって心が凸凹になって最終的に精神も発達凸凹になってましたが。

もっと柔軟性と言われてもどうしようもない。それを外すなんてとんでもないからである。

擬態といえば完全に人間に擬態できるようになって初めて本物の擬態が成立するから、

働くという一番大事な場面で擬態が機能しなかったのだから、やはり失敗である。こんなものを擬態といえるか。

ルールやマナーを守ることに全力を使い果たしたから、もともと心理的な余裕なんて存在しないものがさらに悪化し、

堅苦しさしかない人間性のみじんらしさもない、まさに人間らしくない、そして完全に自閉スペクトラム症、

人生に失敗するべくして失敗するようなものである。

誠に遺憾である。

自閉スペクトラム症といえば擬態、いかに自閉スペクトラム症でないかと見せかける、正常であるかのように装うという。

自分の場合、診断が成人期なので子供時代に発達障害という概念を知らない以上擬態のしようがなく、

一通り勉学と仕事をやってゴタゴタを経験した後に診断されて、これからいかに擬態するかカモフラージュするか、ということを突きつけられた。

一言で言えばムダな努力でしたが。

成人期の診断というのはカモフラージュするか、という手段や方法も何もないという意味で残酷、冷酷である。

取り返しがつかないともいう。

もう素が自閉スペクトラム症もろだしで固定されているような状態で一般人を装っても偽である。

死にものぐるいとかでもすぐバレる。発達障害という概念はなくとも、あいつ何か変だよね、とは表からも裏からも言われる。

隠すも何もなくバレバレなものをどう隠せばいいか実際には不可能、という意味で社会的に致命傷を食らったようなものである。

以降普通に生きることを諦める、というかついて行けないからそれ相応の生き方に切り替えざるを得なくなりました。

普通に生きるのも無理ならもう障害者の世界に浸るしかないじゃないですか。これから一般社会に溶け込もうなんて現実的な問題ではない。

いかに自分が心の傷を増やさないようにゆるやかに人生を閉められるかにかかっている。

自閉スペクトラム症用の教育カリキュラムなんて知らない。今さら知ったところで大体のことは取り返しがつかない。

擬態とかはその時代になかった概念だとしても、取り繕うとか何とかはすでに後の祭りであると。

社会への溶け込み方を知らないのにどうやって溶け込もうなんて思えるのか。

今まで社会に入って勉強してきたものすら障害によって偏るのであれば私は一体社会で何を学んできたのか。

それもはっきりとわからないまま終わる。

誠に遺憾である。

最近私の頭の中では「リチウム電池が発火したら怖いからどうしよう」と、

「長く使っているリチウム電池付きの電子機器があるが、変えて変なのをつかんでも怖いからどうしよう」と、

「バッテリーが半分以下になったら手元のモバイルバッテリーでとにかく充電しなければならないが大丈夫か」が同居していて大変である。

こんな矛盾した、混在した話題の脳内会議を一日中、長いときは数日かけて行わなければならない。

そして会議が終わったら「春から雪が溶けて新しい騒音が出てきたらどうする」みたいに新しい議題が出てきてまた脳内会議である。

常日頃脳内会議は繰り広げられる。終わると頭がクラクラする。

これでも人付き合いを半ば断っているから、人間関係の会議は開かれないが、

もし普通に人付き合いをしていれば当然人付き合いについても脳内会議が開催される。昔は人付き合いで脳内会議は日課みたいなものだった。

買い物とか出かけても疲労感とか目まいとか重しが頭にあるような気がしながら行動しなければならない。当然効率は落ちる。

とにかく不毛だが不毛だからといってやらないでは済まされなくなる。不安が強迫に基づいたやめられない行為になってしまっている。

かといってあるものはある。リチウム電池も近所のやかましいものも。

あるから逃れるための心理的な何かもとにかくやかましくしつこく毎度毎度会議は踊るのである。

もはや不安がこだわりと化して毎度繰り返されるからまた来たら「またか」という。

しかし適当に流すとさらに不安が強まるのでガチンコで議題を真剣に脳内で真摯に議論し、

ある程度形にまとめて結論を出さねばならない。それが次の日にひっくり返されるとしても。

ああ、なんと不毛な会議か。心配事を心配するために心配しているようなものだ。

しかし何もしないでも平穏には生きられない。頭に心配事がかすめたらちゃんと会議は開かなければならない。

心配事があって、それを片付けないと生きられないような状態になってしまっているからである。

それは日課というか人生みたいなものであるから。

誠に遺憾である。