隠者の庵

隠者の庵

自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

最近憂鬱にしては重い感じになったり、発作的に暗くなったりするので、

心療内科で抗鬱の薬を新しく処方された。

特に理由もなく気分が暗くなったり、運転中にやってきたりもするので何とも落ち着かない。

しかしそうなるような決定的な何かしらが見当たらない。わざわざ口にするような理由がない。

もはや「季節の変わり目」みたいなどこででも何とでも言えそうな理由にしてしまうしかない。

しかし気分は間違いなく暗く、一度落ちたら長く引きずる。頭に直接響いてくる。

あまり「どうして生きるのか」などを考えたらどん詰まりになるから控えめにしなければいけないと思いました。

今まで取り組んできたことが終わったり、ちょっとだけ気の重くなることがあり、一撃で決まるような大きな出来事はないが、

いろいろな小さな凹む出来事の積み重ねで、勝手に気分が凹んだり落ち込んだままになって、戻れなくなったりするので、

もう自力で何とかするような段階ではないと私は判断しました。

そして薬が効くまでに一週間程度かかるので、それまでにダメージを大きくしないよう、副反応の嘔気に揺らされながら、

「何故生きるのか」という泥沼にはまりに行かないようにしながら生きなければここはどうにもならない、と思いました。

誠に遺憾である。

正直町内会というのはお金さえ払って済ませることができるならそうしてしまいたい。

人間関係の障害をもつと意図しない人間関係があったとき何かしらやらかしたりしないかをとても気にかけるようになる。

特に勉強して、学習して、空気が読めるようにもなってないから、

人間関係が主なことになることをやらせると大抵ろくな事にならない。

なるべく人との接点を減らして商取引と本当に必要な人間関係だけを維持して、

それ以外の外から降ってくる人間関係については触れないで生きられるならなるべくそうしたい。

人間関係を引きずると生きている気がしないから。

だいたい障害者手帳が出るくらいには人間関係の障害があるので、

町内会なんて本当にどんな人間がいるかわからない地域社会に放り込まれるじゃないですか。

関係を切っても近くにいるということは一切変わりが無い。こちらがしびれを切らせて引っ越してしまうまで。

たとえ地元だとしても何ら変わりは無い。むしろ地元ならかえって黒歴史である。私だけではなく地域そのものの黒歴史である。

障害があるということはカミングアウトすることまでも含めた考えをしなければならないということであり、

差別意識のある人にぶつかる可能性もあれば、差別でなくても偏見の目にさらされる。

嫌な視線を向けられることはもう半ば決まっているのに、何らかの集まりに強制的に出なければならないとしたら、

私は針のむしろにでも座っているような気分になる。居るだけでいたたまれない。

精神に病識があるのにそれをさらに人にあれこれ言われてああだこうだと特例扱いされたり、

自分にだけ違う視線を向けられたりしたら、そんな場所には最初からいない方が、メンタルヘルス的に健康になる。

障害を明らかにしなければ補助は受けられないが、明らかにすると福祉関係ならいいが、

福祉以外の人々に何を言われたりやらされたりするかわからない。特に差別的な言動にさらされることを恐れるものである。

何でもどうでもいいから、ゴミ捨て場や街灯の管理に必要な経費は支払うから人間関係を振らないでほしい。

できないものはできないどころか、余計に悪化させることを特に怖れているから。そして必然的に流れで村八分にされるから。

それなら誰とも関わらないで勝手に最初から村八分にされるわ。人と人との線を最初から繋がないようにして。

誠に遺憾である。

急に引っ越すことになって、特に理由はないが選んだ先が怪しい雰囲気のアパートだった。

建物案内のGoogle翻訳されたような微妙な日本語、修繕の行き届いていない建物、

それらが全部何とも言い難い微妙な雰囲気になっていた。

周囲の住人のやっぱり微妙に怪しい日本語を聞きながら案内された住所にたどり着くと、

内部のすべてが微妙に古くさく、本当にやっていけるのかという雰囲気が漂ってきた。

内側の壁がボロボロなので触ってみたらそのままボロボロと落ちてきた。

それはヤバイと落ちた塊を袋に押し込んでから気晴らしで外に出て行った。


事を済ませて家から出てみるがなぜか集団住宅から出られない。外に出るたびに同じような集団住宅にたどり着く。

そしてそのどれもが怪しい日本語を放っていて、日本ではない場所に移住でもしたかのようである。

数軒目でなぜか一階が市場になっている住宅にたどり着き、やっぱりギクシャクした日本語で何とかやりあっていると、

この辺の集団住宅は日本人のための住宅ではないらしく、その辺にいた人から日本から「うちの国」に嫁いできた芸能人か何かの話になった。

終いには小さいホールに案内されてその芸能人の出した曲を聞かされる羽目になった。

なんだかんだで家に戻ると家族が到着しており、改めて荷物や家具を配置しなおして、

近くの住人と微妙に通じない日本語で話して、また共同フロアで鳴り響く大音響の国の宣伝などを見て、

違う国にでもやってきた、やってきてしまったという気分になった。

そのうち近くの住民がやってきて、なぜか持ってきたゲームをプレイしても、日本語ではなかった。

やはり自分ら以外は本当に別の国の人ばかりのようである。


そしてまた外に出ると今度はちゃんと外に出たが、水田にやって来た。

近くの人に聞くと近所の国から何かを空から落としてくるという。

何のことか良く理解出来ないまま待っていると、空から袋に詰められた球根っぽい何かと肥料、

それから若干の土砂が詰められたビニール袋が何個もふんわりと水田のあたりに落ちてきた。

近くの人はそれを渋い顔で拾いながらトラックに押し込んでいった。

「こんな空から降ってくるような植物なんて、どうなるか怖くて育てられない」と言いながら。

どうやら住居だけでなく、他の場所にもその国は手を伸ばしつつあるようで憂鬱な気分になった。

こう、世の中に普通に出ていたときに一番不思議だったのは、仕事を終えて家に帰ったあとでどこかに娯楽に出かける概念があることである。

帰る途中で買い物を終えて家に帰ったら、もう肉体的にも精神的にもクタクタでとても人と何かをする気分ではない。

ダメージ回復のために一人で楽しめることを人に気兼ねなく楽しんでおかないと明日が乗り切れない。

などと思いながら過ごしたものである。当然誰かが玄関チャイムを鳴らしたときにはゲッソリした気分がやってくる。

仕事で誰も知り合いのいない場所に勤めた時などは本当に誰も知り合いなんていないから仕事で人間関係がおしまい!はい終わり!

などと職場の入り口のドアを閉めたときから思ったものである。ここからは自分だけの時間と。

そんなアフターの時間を過ごしていたので、夜から新しい人間関係が増えることもなく、

生活の半径なんて狭ければ狭い方がいい、人間関係を広げて人と接すれば接するほど摩擦の傷が自然に増えていく人間には耐えられない。

もう仕事をやっているだけで人間に疲れるんですけど!と散々思ったものである。

そしてどうもそれは普通ではない、とわかったのは普通の仕事を辞めて随分と後のことである。

人は夜の街に出かけていくし、酒を飲んで何だかんだと騒いでいるし、スポーツや何やらやって夜の時間を過ごしている。

仕事でぐったりした人間にはそれがきつかった。

夜の余暇を楽しめたのは作業所に入って人間関係を強要されなくなってから、である。

パブリックもプライベートも縛られる人間関係を築くなんてことは、自分にはほぼ不可能なことであった。

パブリックですでに疲れ果て、うんざりして、とにかく休まなければならないと思う人間に何ができるか。

人の機嫌を取っているうちに精神が磨り減って、一日凹むことばかりで過ごしているのに、さらに磨り減ってしまうようなことができるか。

一人を、シングルを生活の単位としている、そうみなしている人間には、集団生活はもれなく苦痛である。

仕事をしている時に優先してほしいのは一人で放ってもらえる権利であった。

チームワークという概念が薄い人間に集団行動をさせても和を乱す。自分が散々やってきたからわかる。

パブリックの場であれこれ見張られることは必要だとは思うがそれがパブリックを離れてからでも求められるのであれば生きた気がしない。

携帯や連絡の手段を絶って一人で部屋の中で手足を伸ばしていたい。

こんな体たらくだから人を誘ってどこかに行こうとしたことは大人になってからはほぼない。

大抵人に巻き込まれてどこかについていくことしかしなかった。

人を誘うこと、呼ぶこと自体がとても自分には厄介で面倒なことだから。

いちいち人の承認を得るくらいなら多少不便でも一人でやりきる。

人がいたら人の機嫌しか考えられなくなるから人は家には呼ばない。

おかげさまで恋愛なんてやったことも触れたこともない。

誠に遺憾である。

自分は耳はいい方だと思っている。余計な音ばっかり拾って自分が混乱に陥るからである。

音楽をやるには音感とちゃんと音を聴き分けられることが求められる。

そちらの方には特に苦労はないし、バンドや合唱の曲をちゃんと演奏できる。

問題はそれ以外の生活の場である。

選挙カーとかバイクとかトラックなどのうるさい車両などの放つ音もよく聞こえるし、

多分その辺の雑多な変な音も拾うし、特に大きくない音でも耳に、脳に突き刺さるときがある。

音を受けとめる耳が、聴覚が常に繊細で神経質過ぎて静音環境でしかくつろげない。

特定の音のいくつかは直接脳に響く感じがしてどうにも落ち着かない。

耳栓をつけたら何とかなると思ったら今度は何故かかすかに聞こえる音が脳内で反響してかなり大変なことになった。

時には家の中の機械音だけでもうたくさん、と思うときもある。エアコンや扇風機、ストーブは環境を整えるには必要なのだが、機械音が響く。

パソコンも自分の生活に欠かせないものだが自作で性能を追い求めた結果、普通のパソコンよりはかなりうるさい。

家の外の音は自分のものではないから外的要因と言えるが、

自分の生活に必要な物を使う代償としての音まで時には何か引っかかるものがある。

別に田舎暮らし特有のカエルの鳴き声、虫の音、雨や雪の音などは騒音に含まれないが、

自分の使う機械が余計な音を出すので何とかしたいがどうにもならない。

しかし使っている機械を止めたら生活にならない。一体何をどうしたものか。

そろそろ高品質な耳栓やらノイズキャンセルやらイヤーマフなど、防音を真剣に考えないと生活がきつくなる。

この耳は好きで音を拾っているわけではない、といってもなかなか分かってもらえない。

時々鼓膜のオンオフができればいいのに。と思ってしまうわけである。

結構年もとったが、聴覚が衰えることはまだなく、いい加減少しは衰えてほしいものである。

音を受け取る感覚が、体で、脳で増幅される形の過敏なら、入ってくる音が小さくなるに越したことはない。

世の中は自分の音も他人の音も実にうるさい。

誠に遺憾である。

何なら郊外に行けば熊が出るような田舎に住んでいるが、定期的に熊は現れる。

ニュースアプリに居住地の位置情報を登録しておけば近くで目撃情報があれば通知が入る。○○に熊の目撃情報がありました、と。

そして当然のように警戒しながらそのあたりを通過しなければならない。生活道路だろうと国道だろうとお構いなしであるから。

人が道を敷く場所は選ぶが熊がどこに行くかは選べない。

共存できるのであればそうするがそうもいかない状況ならどうにかしなければならない。

誰でも熊の対策ができればいいが、武装して狩猟できるのは本当に一部の限定された人だけである。

一般市民に何ができよう。対策をしても急に接近して来るならば不意打ちも同然、万全な対策など不可能と言ってもいい。

スプレーとか鈴とか持っていけばいいだろう、といっても急接近してくる野生の生き物なんて冷静に対処することなんてできない。

なので本当にガチガチに固めるか、プロに依頼するか、それらができなければそもそも近寄らない、とするしかない。

都会でああだこうだ言っている人は気楽でいいですね、熊が出ないから。

そんなこんなで熊と共存とか甘い認識の発言を繰り返す人は半ば白い目で見ている。

実際にやってこられて襲われたらどうなるか、その人だけでなく周囲がどうなるか、影響が果てしないから、

熊に餌付けとかやる人の心がわからないし、そもそも見てしまったらまず全力で逃げ切ることしか考えない。

生活圏に熊がいるとは命の危険がそばにある、ということである。

一撃喰らったら死ぬ危険がある存在が近くにあれば抗議の電話なんてまずかける余裕もない。

排除するか追い払うしかない。

それでもきっと福島町や羅臼岳の熊の駆除について抗議の電話が鳴りやむことはないのだろう。

愛護なんてのはどこまでも絵空事です。

誠に遺憾である。

盆とか正月とかは意図しない不定期的なイベントばかりなので毎日同じように過ごしたい人間には負荷が大きすぎる。

いつものように行きつけの店に出かけてもイベントが開催されて普段来ない量の人がやってきたり、

いつものレストランがいつもより混んでいて座る隙間がギリギリとかになると、

盆とか正月とかは早く速く終わらないかななどと思うのである。

毎年同じ事を言うがそういうものである。


別に毎年ズレもなく同じ事をしなければならないほど柔軟性が欠けている訳でもないが、

あまり普段やっていることからかけ離れたことをすると楽しみよりも不安が勝ってくる。

遠くかけ離れた場所に行けば恥なんてまだ忘れ去られるからいいが、

普段起きないことが起きて、地元で何かをしでかせばどんどん肩身が狭くなってしまう。

外出なんてそんなにするものでもないが、その少ない機会に突発的なイベントが挟まると、

じゃあやってやろうか、ではなくいかに人と会わないように、会話を減らして乗り切ることができないかと考えてしまう。

一回メンタルをガタガタにしてしまうと人の集まりが急に怖くなる時もあるのです。

人と会うことがとにかく不安、恐怖という思考回路に陥ったときに、人間関係をリセットできないかななどと考えてしまうのである。

体調がいいときはそれでも何とか乗り切ることができたり、気合で何とかすることもできるが、

風邪をひくとか体調不良の時に突発的なイベントを挟まれると生きている気がしない。

人の多いイベントにたまたま行って何とか乗り切った後ほど、身体の具合も悪くなりやすい。

人と会えば具合が悪くなる訳でもないが、意図しない人との出会いは極力避けたい。

盆とかそういう選択肢を選ばせてくれるものではない。最悪自室にひきこもって何とかするしかない。

一人暮らしをしてたら確実に家には限られた人以外に誰も入れない。

誠に遺憾である。

気がついたら大きなプールに来ていた。どうもそこで行われる大会に出されたらしい。

何でもいいからデカい大会に出たいとか言ったら本当にデカい大会に出されたのである。

中の放送を聞いていたら障害者専門の水泳大会、ということである。

当然自分のカテゴリーは精神、ということになる。

さて大会で出場する予定のプールに行くと、自分が出るのは5メートルくらいのプールで、そこまで水深もなく、ここをターンして10往復、つまり大体100メートルということである。

自分は二組目だったので、同じスイミングスクールの選手が先に一組目で泳ぐのを見ていた。

なんだか日本だけでなく色々な国の選手がいるので国際大会、パラリンピックにつながる何かみたいな状況である。

何だかんだで先に出た同じスクールの選手がトップで泳いだので、次の試合に進んだ。

二組目で自分の名前が呼ばれたので、プールまで歩いていき、飛び込まないで水中からのスタートになった。

あっという間にターンをしなければならないのであまり泳いでいるという感覚はなく、

せわしなく足を動かして、必死にぶつからないようターンをしているような状況だった。

泳ぎ切ったので水から上がり、タイムを確認して8人泳いだ中で上位につけていたので、

このまま行けば次の競技に進める感じだった。

先に出た仲間は確実に次に進めるので、それを見に次のプールまで歩いて行った。

そこは前のプールとは違ってちゃんとした長さと深さがあるプールだった。

しかしルールを聞いていると、泳いでいる最中に浮かんでいるラーメン菓子を食べきったら先に進めるというなかなかな難題だった。

タイムの順番に8人呼ばれるというが一番先に仲間の選手が呼ばれてスタート地点に立ち、その他の選手が呼ばれて次々と位置につく。

六番目くらいに自分の名前が呼ばれたので、少し驚きながら所定のスタート地点まで歩いて行った。

そこで何故かラーメン菓子にアレルゲンはないかを聞かれた。

海老や蟹のラーメン菓子があったので、甲殻類アレルギーだということを伝えて自分のコースからよけて別のものを配置してもらった。

あとは可能な限り飛ばして菓子を口に突っ込めばあとは何とかなる、何とかする、と、

コースの前で待ち構えていたら少しずつ目が覚めて行ってベッドの上にいた。

仕事を終えて家のアパートに帰ると近くの知り合いが窓の一切無いワンルーム相当の部屋に住んでいたり、

あれは正直外から見てもどうかと思うが、そういう自分の部屋はどうかというと、

玄関を開けて入った居間は特に問題がなかったが、

一つドアを開けて寝室に入ると特になんのことわりもなくベッドとバスタブが同じ部屋に置いてあったり、窓が大きくて外からは丸見えだし、

その割にトイレはちゃんと個室になっていたりと支離滅裂な部屋に住んでいたので、

やっぱり早く普通の部屋に引っ越したいものだと思いました。

周りからは自己肯定感を高めるとか何とかかんとか言われているが、

覆せるなら障害なんて名前では呼ばれないし、覆せられないからこそ障害なのである。

そんな感じでやりたいことと、実際に出来ることが乖離して、実際に自分で出来ることも何やかんやで制限されて、

特に一日フルタイムで働けるわけでもないですよ、となったときにこう、人生とは何かをえぐく考えてしまうのである。

端的に言えば「なぜ生きるのか」と。

産まれてきてしまったものに生きる理由などない。しかし死んではならないと言われる。

人は、生命は死ぬことが定めなのになぜいま死んではならないのか。というどん詰まりのところを考えるようになってしまうのである。

仕事でも仕事っぽいことでも何らかの労働や日課で集中することがあって、深刻なことを考えないで済む手段があれば考えないで済む。

しかし何もすることがないし、何も出来ることがなくなれば生きることそのものを考えざるを得ない。

まるで自然に死に向かっていくように。

いずれは死ぬことが決まっている、老化を避けられる技術が出来たとしても突発的な事故を避けることはできない。

歳をとらないとしても大事故に巻き込まれれば一発である。即死なんて考える隙もないから完璧な死である。

生きることそのものについて触れていけばいずれ訪れる死の話に自然に向くように造られているのに、何を逃れることができよう。


そういう流れを心療内科で話すたびに、抗不安薬や精神安定剤、抗うつ剤などが状況に応じて処方され服用することになるのである。

なぜ人間がいずれ死なねばならないのか、は人間の永遠の問いかけではないのか。

誠に遺憾である。