自分は「一人になりたい」と思うときは、誰かに自分の存在を認めてほしいとか言葉の外の意味は一切なく、単純に一人になりたいだけである。
極端に言えば誰も同じ空気を吸うな、と。存在を認め合うとか面倒なことはいいから何より一人にさせてくれ、ほとぼりが冷めるまで。
人間がわざわざありがとうとか言わせる何とかかんとかもいいから、何も話さないでいいから。
本当に単純に孤独を噛みしめたいから「一人にしてくれ」と自分は言うのである。
と言いたくなる機会が最近本当に多くなって困る。前々から一人にならないと死ぬとか書いている気もするが。
ごく近い家族ですらこう思うのだから、赤の他人については言うまでもない。
全く相談できる人がいないわけでもないが、それはそういう役割分担の人だけ、ということにしておきたい。家庭という言葉で何でも背負わせたくない。
仕事関係ならば、仕事だからという感覚で接することができ、個人の生活に踏み込まれない、深入りされない方がありがたい。
ビジネスライクというか、私生活に誰も入れないような生活をしたい人間には、家庭の家庭らしさがまさしく余計なことに思える。
お金とか最悪生活保護になってもいいから一人であることを優先したい。
金があるに越したことはないが、障害の都合上稼ぐことは難しいので、金なんて正直どうでもいい、とできるならそうしてしまいたい。
どうあがいても最終的には、最期に一人にならざるを得ないのである。その時一人になりきれなかったと後悔するような生活はしたくない。
家庭のもたらす恩恵が、負担や重荷に見える場合、それは家族と言えるものか。
一般的な家庭円満、といえる状態に憧れを感じたこともないわけではないがそこまで親近感はない。
あまり触れあうとこちらが辛くなる。もっとドライに。もっと言葉を少なく。なんなら無くてもいい、とか言いかねない。
家庭の意義、というものが大人になっても未だに大したものに思えない。小さい頃は家庭に守られなければ生存できないからそこにいるが、
大人になったら仕事に就いて、独り立ちして家には積極的に帰らなくていいものだと思っていた。
仕事が上手くいっていれば、言葉通りの意味で家庭を顧みない人間になっていたことだろう。
家庭を築く能力も意欲もないから家族に親近感を抱かないのかもしれない。
晩婚化非婚化といわれ、結婚していないものが後ろ指をさされないような世の中だから、私の負担も少なくて済む。
これが一昔前ならこんな不適合極まりないやつでも、発達障害があってもそう言われず(そもそも発達障害の概念がないから)
家庭を持たされてヒーコラ言っていたのだと思うとそれはそれでゾッとする。
家庭自体がそぐわない人間は自分を含めて一定数は必ず存在する物だと私は思う。
孤独に親近感がある以上、家庭に属していて団体生活をしていると、
定期的に、衝動的にでも計画的にでも、家族の団体をぶん投げて一人になりたくなる。
時代が昔なら世をはかなんで出家でもしていたことだろう。
自分でも高校ぐらいから漠然と「出家できないか」などと言っていたので、孤独になれない方がおかしいと思うタイプなのだろう。
定期的に一人になれなければ逆に精神的危機に立たされる、と。
集団で暮らしていると定期的に衝動的に孤独への渇望がふつふつと湧き上がる人間に家族は酷ではないですか。
誠に遺憾である。