サンデー毎日のロッキー青木伝の冒険編最終回。

 

 自動車の次がパワーボート、そしてバルーン(気球)―。ロッキー青木が気球に乗って太平洋を横断したのは、1981(昭和56)年のことだ。その破天荒な話題が途切れなかったのは、偶然ではない。どれもベニハナのPRのために行われ、時期が重なっているからだ。

 ロッキーは73年、ブランデー蒸留のヘネシーが運営してきた「マイアミ・オフショア・ボートレース」の開催権を買い取り、「ベニハナ・グランプリ」に改めた。そこから82年までの10年の間、パワーボートレースを主催し、自らも出場してきた。82年のベニハナ・グランプリで3度目の大クラッシュを起こし、3カ月間の入院生活を強いられたことは前号に書いた。

 一方、気球への挑戦は、ボートレースより早い。70年前後には「ベニハナ・バルーンチーム」を結成している。本人は個人的な趣味として気球に乗り始め、そのあと自宅のあるニュージャージー州の競技大会にも出場してきた。

 そのベニハナ・バルーンチームは、ロッキーがパワーボートで2度目のクラッシュを起こしてから、2カ月後の79年11月、フィラデルフィアで開かれた気球レース「ペインウエーバー・サーキット」に出場した。もとより退院したばかりのロッキー自身は気球レースに出場できるはずもなく、松葉杖(づえ)をついて大会の応援にやってきたに過ぎない。

 しかし、ロッキーにとって、ここが一つの転機となる。大物の気球パイロットとの出会いだ。78年8月、気球で初めて大西洋横断に成功し、ジミー・カーターからホワイトハウスに招待されたベン・アブルッツオが、レースの視察に訪れていたのである。

「はじめましてミスター・アブルッツオ」

 有名人好きのロッキーはいつものように駆け寄り、声をかけた。(以下略)

 

 なお、本連載に関し、読者の方からロッキー兄弟の慶応中等部の入学について、以前に兄弟そろって慶応幼稚舎入学と書いたことについて矛盾するのではないかとご指摘がありました。冒険編で改めて幼稚舎ではなく中等部入学と書いていますが、改めてお詫びして訂正いたします。なお冒険編はいったん終了しますが、連載は続きます。