4月12日 12時39分・・・あれから私はポイント軌道を探していた

豆相人車を知るきっかけとなった味楽庵を再訪した


先代は他界されており 当主に話を伺った
意外にもポイント軌道は ここから北にある椿寺に保管されているという





店内の記事の通り 確かに手前の枕木のみ年季が入ってるように見える

椿寺に向かおう
昔の椿寺は湯河原地域に属しており 過去の区画整理にて現在では熱海市の領域にある為 熱海教育委員会にも問い合わせたが肩透かしに終わる
翌週 私は根府川にある 離れのやど星ヶ山を訪問した
4月19日 10時19分

カフェ ななつの星

味楽庵にて椿寺の住職と ここ星ヶ山の代表が豆相人車で交流があったことを知り訪問した
正面に見えるのがログハウスの宿泊施設であり おひとり様も宿泊可能だ

そちらがカフェになる





開店まで時間があるので散策に向かう
実は この地にも復元された人車車両がある

下りきって折り返した場所・・・
軌道は木と鉄の角材を貼り合わせて作られていた


星ヶ山の人車車両のお目見えだ



私は味楽庵の車両との違いに直感がよぎった

やはり上等車両だ

ただ 一般と上等との違いは私には解らない

山間部の難所では強制的に降ろされ 客車を押す手伝いをさせられたこともあったという豆相人車あるあるではあるが 上等に乗車すればソレをまぬがれたのかもしれない←




少し前までは乗車や客車を押す車夫の体験ができたようだ

カフェに戻ろう





カフェ利用特典にポストカードを頂けた

この後 私は確実にあるであろう1本の軌道を求めて湯河原に移動を開始する
こちらの軌道探しも手こずった
なぜなら 味楽庵で頂いたパンフレットに掲載されている軌道のあるミタケさん宅の位置が適当な箇所を指していたからである
そして軌道は 庭と同化するように そこにあった


念の為 ミタケさんに椿寺のポイント軌道の話を伺うと ここでも湯河原教育委員会の名を耳にするのである

私は湯河原教育委員会に これまでの経緯の旨を説明し再調査の依頼をすると その3日後にポイント軌道の詳細を得たとの連絡を受ける
ちなみに ポイント軌道が椿寺から教育委員会に渡ったのは13年前で 椿寺の住職に星ヶ山の代表らが文化遺産として保存するよう促したからである
その後 町長の理解を得て教育委員会の倉庫に保存された経緯にある
教育委員会が把握していなかったのは その間の教員同士の引き継ぎが果たせず 今回の行き違いが生じたと見ている
教育委員会の都合により軌道の公開は平日のみの対応となる為 後日 とある学校の正門にて待ち合わせた
5月7日 13時21分

現在ポイント軌道は学校の教室に保管されていた
教室と言っても 私が小学生の頃 未使用の教室を倉庫代わりにしているのを見た記憶があるが 恐らくそれのことだろう
そして ついに出会えた

半ば諦めていたポイント軌道と
今から130年前の1895年 明治28年より10年間ほど営業していた豆相人車鉄道 門川駅ポイント軌道・・・

以前に画像で見たことはあったのだが 枕木の腐食により鉄板をあてがってると思いきや 当時の豆相人車鉄道はポイント軌道のみ鉄板を溶接した一体型で設置されていたらしい


中央にも いくつか溶接の跡が残っている

左の軌道3本はポイントの名残ではなさそうな気もしなくはない
今この場にポイント軌道に関して詳しい者は誰ひとりといない
教育委員会のかたも今回の問い合わせに勉強になりましたと言ってるぐらいなのだから
下記はポイントの名称になる
てんてつ(転轍)器=ポイント装置全体
分岐器=分岐装置全体
フログ=レールの交差部
トングレール=先端の尖ったレール
どんたん(鈍端)ポイント=先端の尖ってないポイントレール
上記の名称を踏まえて見ると ここにある全ての軌道がポイントに当たるのかという疑問が湧く


曲線は なにかしらの打痕跡に見受けられる
画像は関東大震災時の小田原駅である

豆相人車鉄道は明治28年に熱海−吉浜間で開業し 明治29年に小田原全線が開業した
明治40年に蒸気機関車を導入し軽便鉄道に転換されたのだが 関東大震災により壊滅的な被害を受け 大正12年に廃業となる
こちらは軽便鉄道熱海駅
また こちらの写真でも2本の軌道はポイント軌道ではない雰囲気を醸し出している

軌道保管履歴を発見したのだが ミタケさん宅にもポイント軌道が保管されていた年代があり驚いた
震災後の軌道は家屋土砂等に埋まったりしたが 外して売却され いくつかの軌道は残り こんにちの繋がりに至ったのである


トロッコ軌道のような可愛らしい小ぶりな軌道だ

かくしてポイント軌道のゆくえは区切りを迎える