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 農閑期にした歴史探訪ー3として、蒋介石の記念碑をご紹介します。

 
 田母神前空幕長の懸賞論文に、「日中戦争は蒋介石に引きずり込まれた」とか、

「日本が侵略国家と言われるのはぬれ衣だ」などとあり、結局、これにより

更迭されることになりましたが、実際のところ、蒋介石は日本にとって

どのような存在であったのでしょうか。


 この地岬町江場土の国道128号線沿いに蒋介石の記念碑が建てられています。

その碑には、「以徳報怨之碑」と刻まれ裏側に説明板があります。


 前にこの地に日華親善に生涯を捧げた梅屋 庄吉翁の別荘があり、そこが終焉の地に

なったこと、そして、この別荘には蒋介石総統がしばしば訪れ、中華革命の烈士共々

幾度もの挙兵の策を練ったことなどについて触れました。そうした由緒あるところから

この地に記念碑が建てられることになりました。


 その碑に刻み込まれた「以徳報怨」の背景にある、歴史的事実とは何だった

のでしょうか。


 説明板にはこのようなことが記されています。昭和25年8月日本の降伏で戦争が

終わった時、戦勝国による国家分断占領(ソ連案ー北海道をソ連、本州をアメリカ、

四国・九州を中国が占領)、民族離別の危機に直面した時、蒋介石総統はこれに

強く反対し、連合軍が日本を占領することになりました。更に、200万人に及ぶ

在華日本国将兵、邦人の速やかな送還を実現したのみならず、日本再生のため

戦争賠償(800億ドル)を放棄しました。総統はここに「徳を以て、怨に報いる」

との信念により、日本に対して往古以来の歴史を紐解いても稀有である、寛大

極まる措置をしました。


 この蒋介石総統の恩義なくしては、今日の日本の繁栄は在り得ないことを想い、

有志が相語らい日本各地の同志の賛同を得て、「以徳報怨」を永世に伝えるため、

この記念碑が建立されました。


 「以徳報怨」の記念碑の前に立って、これは石の板にだけでなく、自らの心の板に

刻むに値する四文字に思われました。