横須賀と小栗上野介 | 雲水・ISA(九龍)のブログ

雲水・ISA(九龍)のブログ

日本は神の国
仁術師

先日、バイク仲間が来たときに、三笠やペリー上陸記念碑などを案内したばかりですが、今晩のTV東京で関連のある人物の紹介をしていました。


ペリー来航以後、対米交渉時に裏の通訳をしていたたジョン万次郎と、日本近代化に貢献した小栗上野介の話でした。


ジョン万次郎は15歳の時に漁に出て遭難し、その時に助けられたアメリカの捕鯨船のご縁で、初めてアメリカに行った日本人だとされています。勤勉で賢く、アメリカの高校を主席で卒業したそうです。


雲水・ISAのブログ-ジョン万次郎


当時も、官僚の馬鹿げた規則のせいで、アメリカ人に対してオランダ語で交渉したそうです。万次郎は実際にアメリカで教育を受け英語もぺらぺらだったにも関らず、家柄問題(漁師の出身)や官僚のやっかみのせいで、正式な通訳はしませんでした。


しかし、咸臨丸にも同乗し、船酔いで指揮が取れない艦長の勝海舟に代わって指揮を補佐したそうです。元々が漁師ですし、知識も経験も豊富でした。彼無しで渡米は難しかったでしょうね。


雲水・ISAのブログ-小栗上野介


その後に紹介されたのが小栗上野介でした。私の地元横須賀の博物館や公園には彼の記念碑や胸像がありますが、具体的にどのような人であったのかという事はあまり知られていません。同時代の勝海舟や坂本竜馬は知られているのに、同時代の偉大な人物であった彼のことはほとんど知られていません。教科書に記述が載っていたことさえ覚えられていません。


ここが、日本の歴史教育のおかしいところです。先日も、ある教育問題に関する番組で指摘していましたが、日本の場合は縁遠い方向から勉強させられます。


つまり、我々は、なぜか原始時代ではどういう暮らしをしていたなどと言うところから勉強させられるのです。海外では反対に、近代から勉強するのが普通だそうです。子供でも、おじいちゃんやおばあちゃんの話だとピンと来ますが、いきなりお猿さんみたいな人間の話を聞いたって理解できるはずがありません。


それなら、昭和の時代にはこういう生活をしていたのだよ。その前は、こうだったんだよ。と少しずつさかのぼっていけばわかりやすいと思います。それを今の生活とはまったく習慣も環境も違う時代の話をするのですから、馬鹿げています。


近代からさかのぼれば、今の平和で豊かな生活がどうして実現されたのか?どういう人たちの苦労や悲しみがあったのかということもわかるはずです。それは先輩や親への感謝への気持ちにもなりますし、政治や歴史への関心にもつながるはずなのです。それを逆コースで教育するのですから、文部科学省のお偉いさんたちは何を考えているのでしょうね?


雲水・ISAのブログ-小栗上野介2


そう言う私自身、子供の頃に公園で小栗上野介の胸像を見ても、有名な人なんだろうというくらいの認識しかありませんでした。今考えれば、情けないことでした。


私の生まれた町の発展の基礎を作った人です。そればかりか、日本の近代化の先駆けです。司馬遼太郎さんは「明治の父」とも言っています。さすがに歴史を勉強された人は一般人とは認識が違います。


小栗上野介はペリー来航以降に来日する外国船の接待を担当した、今で言う外務省のようなお役目でした。日米の国交に際しては最初の通商交渉に勝海舟、福沢諭吉などと渡米しています。当時の全権大使は別の人物でしたが、眼光が鋭く威風堂々としていた小栗を代表者だと勘違いする人が多かったそうです。


当時の為替レートは日本に対して大変に不利なレートであり、その為に日本から金(小判)が大量に流出してしまいました。その不平等条約を修正する際の難しい交渉を行なったのも小栗上野介でした。彼は武術にも秀でていたので、胆力が非凡だったようです。直心影流免許皆伝で、同門の勝海舟もかなわなかったそうです。


アメリカを視察した時に、鉄の鍋や刀を手作りしている日本とは異なり、大型機械で様々な製品を大量生産している様子を目の当たりにし、日本の工業化の必要性を感じ、その気持ちを忘れないために金属製のネジを持ち帰ったことは有名なエピソードです。


その後は今で言う外務大臣、財務大臣、防衛庁長官といったような重責を歴任し、日本の近代化に尽力しましたが、言動が実直すぎ周囲との衝突も多かったそうです。その為に、色々な役職を遍歴することとなりました。


工業化の拠点として横須賀に製鉄所(造船所)を建設しました。当時最先端の工業施設ができたことにより、労働者や商人が日本各地から集まりました。私の先祖もその内の一人です。

それが私の町の近代化の基礎なのです。感謝です。


彼は近代化に関する電気、通信、税制、労働、軍事、産業などに関する多方面の具体的な計画を立案していましたが、対抗する薩長政府により、歴史から抹殺されてしまいました。しかし、明治政府の行なった政策は彼の模倣だと言われるほど完成された内容であり、その事実を知ると、まさに近代化の基礎を築いた人物だったことがわかります。それで司馬遼太郎も「明治の父」と呼んだのです。


彼は最後まで幕府側についた為、その才能を恐れた薩長政府から言いがかりをつけられ処刑されてしまいました。たまたま幕府側の幕臣であっただけであり、彼の思想は日本という国家レベルで国際社会を見ていましたが、それを理解できなかった明治政府は本当に惜しい人材を失ったものです。


我々の教わってきた教科書も、明治政府主導による教育の名残ですので、その悪影響を引きずっているような気がしてきました。客観的に見直す必要があるでしょう。私も今回のことがきっかけとなり、色々と勉強になりました。


当時は開国を迫り、日本を植民地化しようとする列強との外交交渉がとても難しかった時代です。外国とのいざこざが絶えなかったそうです。その時に、実際に外国人と渡り合っていたわけですから、今の日本に彼がいたらどうしたでしょうか?中国や北朝鮮にどう接するのか知りたいところです。


太平洋戦争後には白洲二郎という裏の立役者もいましたが、同じ匂いがします。


雲水・ISAのブログ-小栗上野介屋敷跡


お墓は雑司が谷にあるそうです。民主党もお参りしたら如何でしょうか?