憲法十七条は聖霊の王の手による | is6689のブログ

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額にフクロウの馬の顔

 in先天道天の神殿

  聖徳太子

御名

①厩戸王

厩=馬小屋。

太子は馬小屋の戸の所の王。イエスキリストは馬小屋の中で生まれた王。「馬」で共通性。「中」と「戸」で位の違いを示している。

②豊聡耳命

豊(とよ)=ゆたか

聡耳(とみみ)=敏耳(とみみ)=よく聞こえる耳。耳は理性を象徴する。聡耳は「一」を聞いて「十」を知る理解力。言葉は「体系」になっているゆえに、推理力の高い知性であれば「一を聞いて十を知る」事は可能である。

「初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。(ヨハネ伝1章1節)」

神であるこのことばを得た人は聡耳の人になる。聖徳太子はこのことばを得た人である。人は最初、母からことばを学ぶ。人は「神であることば」を得て新たに生まれる。真のことばは真言、神であることばである。真言=聖霊である。聖霊は神キリスト御霊、真理の御霊である。新しい生の母はイエスキリストである。「豊聡耳王」の霊的は母はイエスキリストである。イエスキリストは「馬小屋」で生まれた王。聖徳太子の名は「厩戸王」である。

③法大王(のりのおおきみ)

アダムの子、背きの子が新たに生まれるという事は聖霊を授かるという事である。聖霊を授かるという事は背きの性が解消されるという事である。また過去の背きの罪から来る罪意識が雲散霧消するという事である。

神は法である。アダムの子は背きの性ゆえに法に逆らう。根が不法者である。

「それらの日の後、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしはわたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。・・・・・・・(ヘブル人への手紙8章10節)」

「新生」とは新約の成就である。心に神の法が記される事である。不法者が法友となる事である。聖徳太子は聖霊を得ている。という事は彼は法友である。太子は王統ゆえに法王または法大王である。

厩戸王、豊聡耳命、法大王の御名は全て聖霊に由来する。また薨去の後につけられた「聖徳太子」という御名も、「聖霊の徳の皇太子」がその由来と考える。聖霊の徳の人はこの世、とくに反キリストの輩から理由もなく憎まれる運命にある。聖霊の人の存在は悪魔の子の罪を暴き責めるからである。聖霊によりて処女マリヤから生まれたイエスは反キリストの勢力によって十字架に殺された。聖徳太子は蘇我氏一族=反キリストの族によって殺された。西洋ではロゴスの人ソクラテスが不条理にも殺された。

    憲法17条

聖徳太子が制定した憲法は「17条の憲法」が正式名称ではない。「17条の憲法」で広辞苑に検索しても出て来ない。正式名称は「憲法17条」である。

この表現は憲法即ち17条という意味である。憲法=17条という事を言っている。・・・・・・・・・・。こう言われると「17」は単に個数を伝える数字ではないのではないだろかとの思いが出る。

わたしのブログを読んでいる方は察したと思う。「51」は聖霊による変化を示す数字。その変化の基に51÷3=17が存在する。17=イエスキリスト=正義である。生きとし生けるものの憲法は17である。即ちイエスキリストである。

ヨハネ伝1章3節に「すべてのものは、この方(ことば)によって造らた。造られたものでこの方によらずにできたものは一つもない。」とある。ことば=この方=神キリスト=現人神イエスキリストである。聖徳太子は、17=イエスキリストを知っている。憲法十七条は聖霊の王厩戸王の手による。また聖霊の人=仏陀である。

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