奄美王国の実在、東夷から | is6689のブログ

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奄美王国の領地(推測)

(波線の囲い)

1、山東省 2、山西省 3、河南省


 山東省は夏そして殷王朝時代、奄美王国の領地です。奄城(あまぐすく)遺跡があるとのことです。山西省は夏王朝の領土でしたが城跡がありません。河南省は殷王朝の中心領土です。殷代の遺跡、宮殿跡等があります。文字もあります。都、洛陽があります。

 山東省の南は江蘇省です。さらに南に浙江省、福建省と続きます。


  尊敬されている東夷

 ウィキぺディア「東夷」に以下の記事があります。

  東夷の意味合い

 周代以前の「夷」は現在の江蘇省、山東省付近に住んでいた民族を指していた。その頃の夷の意味合いは、後漢書東夷伝に「東方のことを夷という。夷とは根本の意味である」とあり、その意味は「恵み育て生命を尊重することで、万物は土地に根差してできるものである」となる。そのため東夷諸民族は生まれつきが従順で、道理をもってすれば容易に治められるといい、君子の国や不死の国があるとさえ言われる。

 このように初めの「夷」には侮辱的な意味合いは見受けられず、むしろ好意的な印象を受ける。しかし、周代以降、現在の江蘇省や山東省に斉や魯といった漢民族系の国々が建国され、東夷と呼ばれた人々が漢民族に同化されていくと、東夷という言葉は現在の中国東北部や朝鮮半島に住んでいた諸民族を指す用語となった。

 しかし、中国東北部の東夷においても「東夷は一般的に心穏やかに行動し、心に謹むことを慣習としている。これは他の三方の蛮夷とは異なるところがある」と記し、また「東夷諸国は夷狄(いてき)の国といえども、・・礼がある。中国ではすでにその礼を失ってしまったが、東夷ではそれがまだ信じられている」と記されていることから、軽蔑というより尊敬を感じる。


 下線部についての注釈

 周王朝以前の東夷とは奄美王国の人、奄美人です。山東省は、夏王朝、それ以前とも考える時から、奄美王国の領地です。山東省の下、江蘇省にも多くの奄美人が居たようです。

 「夷」の意味を「根本」と考えていたとは、変です。夷に「根本」の意はありません。「伊(い)」でしたら、根本の意味に通じるものがあります。伊=イ+尹です。尹は治めるという意味です。伊=治める人=王です。王は国の根本です。奄美王国の都は伊仙町です。

 君子の国とは、まさに不争謙下の奄美王国です。不死の国とは長寿の国です。奄美王国の都、伊仙町は不争謙下の道の生き方と千枚岩の効能で、長寿の国です。

 東夷の人が漢民族に同化されたという史実を裏付ける史料があります。


 奄美人は素性を隠しました。周王室の長子、(跡継ぎではない)太伯の子孫を自称しました。「倭人は太伯の子孫と自称している」という事は『晋書』・『梁書』等にもあります。これをまともに受け取ると日本人は漢民族となります。??????????。

 これは「不争謙下」を宗とする奄美人の方便です。平和のための方便です。

 太伯は江蘇省の下の浙江省に「呉」の国を建国した人です。文王の伯父になります。ちなみに、「魏志倭人伝」では、倭人が太伯の子孫と自称していたという事は、意図的に削除されています。倭国は呉国につくのが道理ですから。著者の陳寿は戦略家です。ただの学者ではありません。

 奄美王国の末裔は、周王室に倒され、周王室の親戚筋を仮装しました。これが漢民族に同化されたという史実に対応する史実と考えられます。

 倭国とは漢民族を仮装した奄美王国です。ですから、奄美王国の都に倭国の都があるのです。ともに伊仙町上面縄にあります。北と南に一直線にあります。

 倭国の次に日本国が現れました。倭人の歴史を引きずっては独立国家になれません。国名を変えました。倭国の都を隠し、その歴史を隠しました。日本国の歴史に女王卑弥呼の時代はありません。中国の史書にはあります。当然です。仮装ですが、倭国は中国ですから。

    礼の国

 漢民族にとって東夷は心を慎み、礼を大切にする人と認識されています。その東夷とは奄美王国の末裔、そのことは、王国の不争謙下の遺跡、先天道から明らかです。中国で礼が廃れた当時、東夷ではまだ礼の大切さが信じられていたようです。なぜでしょう、・・・・・・・・。中国は礼の本家では無いからでしょう。礼の本家は東夷の故郷、奄美王国です。


   奄美王国の実在

 漢民族の東夷に対する認識から奄美王国の実在が明らかにされたと思いますが、いかがでしょう。


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