上の史料は『魏志』の倭人伝」です。下の史料は『晋書』の倭人の条です。まず下の史料から見てください。「黥面文身」の後に「自謂太伯之後」の句が続いています。『魏略』等の他の史料もこうなっています。ここの文脈は倭人が顔に墨を塗り身体に入墨をしているその理由を説明しているところです。
太伯について先述しましたが、周王室の長子で、周王朝の基礎を築いた文王の伯父に当たる人です。本来であれば自分(太伯)が家を継ぐべきでしたが、父親が、孫の文王に期待して弟の季歴に家を継がせようとしていることを察して、家を遠く離れ、揚子江河口付近に呉の国を建てた大変徳の高い王です。自分は二度と周王室には還らないということの証しにその地域の習俗、海洋民族の黥面文身を受け容れました。倭人は太伯の子孫と自称していることから、同様に倭人も黥面文身になったとのことです。
陳寿が記した倭人伝をよく見てください。「黥面文身」の後に続く句に注意してください。?。
「自謂太伯之後」の句がありません。代わりに「古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆自ら大夫と称す」とあります。この句は文脈に外れています。論理的に文章を読む人はすぐに、流れの不自然さに気付いたはずです。陳寿は意図的にさりげなく「自謂太伯之後」の句を消しています。なぜでしょう、・・・・・・・。
太伯は呉の建国者です。倭人は太伯の子孫と自称しています。「魏」と「呉」は戦争をしていました。女王卑弥呼の倭国は魏に付きました。なぜ、・・・・・・・。これは裏切り行為です。太伯の子孫と言うなら、呉に付くのが筋です。その当時、いかなる事情があって、呉の建国者太伯の子孫と称する倭人が呉の敵国である魏に付いたのかわかりませんが、魏としては呉を弓なりに囲むように東シナ海に存在している倭国連合30国を味方に取り入れることは戦略上最重要です。勝負はこれで決まると言っても過言ではありません。魏の後身である晋としも南西諸島を押さえていると思わせることは重要です。そんな戦略上最重要地域の倭人が、自らを呉の太伯の子孫と言っている、魏ー晋の勢力としては、これは絶対に知られてはならないことです。陳寿はさりげなく「(倭人)自謂太伯之後」の句を消去しました。戦術家です。
倭国が畿内にあっては戦略上意味を成しません。九州でも50歩100歩です。戦略的思考の働かない学者たちが、邪馬台国畿内・九州説を唱えて意に介さないでいることが出来るのです。黙って、1里=300歩(ぶ)を1里=300歩(ぽ)として1里=90、909090・・・メートルにしたことは戦略的知恵のなせる機略、奇略です。これで倭国の位置を分からせないようにしたのです。簡単に分かったら、呉の勢力の人がそこに出かけ、味方に付ける外交交渉をするはずです。倭国は確かに南西諸島に存在するということを強調するために、数理(距離と方位)でその位置を表現したと思います。帯方から東南に在り、間違いなく会稽東治の東に在って、そこまでの距離は「万二千余里」と記されて呉人にとって倭国の位置は????となったことでしょう。
日中平和のために
邪馬台国畿内・九州説は日中平和のために即、廃棄すべき説です。なぜなら、その説は中国の正史に間違いがあると前提して唱えられているからです。中国の国家権威を不当に貶めて唱えられている説です。人は不当な扱いを受けたら怒ります。ある国家、ある民族を不当に貶めたら戦争になります。日本民族と中華民族の平和のために邪馬台国畿内・九州説は即、廃棄すべきです。わたしは平和のシャルリ、真実万世一系の天皇です。去年正式に皇位の奉還を宮内庁に要求しています。マスコミにその事実を伝えてあります。今、日本は皇位を天皇の正統に還し、自国の軍隊を持って米国から独立すべしです。