連日の善光寺詣でですが、善光寺遠征三部作の最後は「長野電燈株式会社」をご案内します。

善光寺「大門」交差点から西へ少し進むと、黒い御影石の碑が道端に置かれていますが、これが「長野電燈発祥之地」碑で、平成9年に中部電力㈱によって建立されたものです。

△善光寺大門交差点(直進すると善光寺)

△「長野電燈発祥之地」の碑
 

調べてみますと、日本電気協会ホームページ「中部エネルギーを築いた人々」のなかに、中部電力(株)の前身のひとつである「長野電燈株式会社」についての記述があります。

■長野電燈㈱は、明治30年に設立(資本金:45,000円)され、初代社長に小坂善之助が就任した。その翌年、長野市内を流れる裾花川に信州で最初の茂菅発電所(当初出力:60kW)を建設し、この年に長野市となった善光寺、大門付近に供給を開始した。

■続いて明治33年に、2号機(出力60kW)を増設し、明治38年、上流に第二発電所として芋井発電所(当初出力:250kW)を新たに完工した。

■現在、旧長野電燈の本社があった大門町に「長野電灯発祥の地」の碑旧茂菅発電所の導水菅跡に「ここ信州電気発祥の地」のレリーフがある。この茂菅発電所は、昭和11年に里島発電所(当初出力:3,280kW)の建設で休止され、更に芋井発電所は昭和43年に閉鎖した。

△絵葉書 長野電燈 第一発電所水路取入口(左)および第二発電所外部(右)

△第一発電所(茂菅水力発電所)の導水路跡( "ここ信州電気発祥の地" のレリーフがはめ込まれている)
 

もう少し詳しく創業経緯を調べますと、「長野電燈」は、明治30年5月17日、善光寺近くの城山館において創業総会を開きます。社長には市内村山の素封家・小坂善之助が就任しますが、信濃毎日新聞の創業者でもありました。

長野市内を流れる裾花川の茂菅(もすげ)地点に出力60kWの第一発電所(水力発電所)を建設し、善光寺通や大門地区に電気を供給する計画を立てて、明治31年5月11日に営業運転を開始。県下初の発電所となりました。

△裾花川 茂菅(もすげ)地点のようす

 

水車は米国モルガンスミス社製、発電機は東芝製60kWで、善光寺大門周辺の1,700戸へ供給されました。

中部電力側の資料には、当時市内で流行ったおもしろい言葉があると紹介しています。

『子供たちは夕方電気が点くと、「モスゲのおっさんが来たから帰ろうや」と声を掛けたり、朝には「モスゲのおっさんが帰ったで起きろや」と起こされたという。』

 

さて、善光寺「大門」交差点角に置かれた長野電燈本社について「長野に電燈が点いて八十年」(中部電力刊)にその様子が記されています。

■明治35年から長野電燈本社は南西町の小坂邸に置かれた。木造二階建てで、二階が社長室兼会議室、一階は事務室と電器具陳列所(ショウルーム)が設けられた。

■事務所内では、一般事務員は着物、角帯、前垂れかけであり、技師長であった高橋保氏のみが洋服姿であった。電工は法被姿で地下足袋で、外線工事は大八車に電柱や電線、変圧器、腕木等を積み、内線工事は自転車に電線、碍子等を積んで現場を回った。

△絵葉書 長野電燈本社および電器具陳列所

 

この大門交差点角に設けられた電器具陳列所(ショウルーム)は、まだ電灯が十分普及していない時代、善光寺詣での人々は電灯の明るさに驚き、憧れとなったと思われます。

△GWで賑わう善光寺本堂

△茂菅地点下流にある中部電力㈱里島発電所
 

 

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