延喜式内社とは、平安時代中期にまとめられた法典「延喜式」に含まれる「神名帳」に記載されている神社を指します。略して「式内社」(しきないしゃ)とも呼ばれ、当時朝廷から重要視された官社です。元々「神名帳」は古代律令制における神祇官が作成していた官社の一覧で、延長5年(927年)にまとめられました。
式内社は全国で2861社。生成AIによると、名古屋市内には当時の尾張国愛知郡や山田郡などに属していた式内社が27~37座確認されています。(諸説あり)
<名古屋市内の社数と主な神社>
◯愛知郡に17座17社︰熱田神宮、日置神社、上知我麻神社、下知我麻神社(熱田神宮境内・摂社)、高牟神社(千種区)、川原神社(昭和区)、針名神社(天白区)
◯山田郡・春部郡(のちの春日井郡) などに数座~十数座 (諸説あり) ︰味鋺神社(北区)、片山神社(東区)、綿神社(北区)、多奈波太神社(北区) 等
最近ひとに誘われて行ってきたのが名古屋市天白区平針に鎮座する「針名神社」です。突然の参拝でしたが、境内に「式内社」とあったため、改めて予備知識を仕入れて再度訪れてみました。
△針名神社 旧社殿
針名神社は尾治氏(尾張氏)の末裔、尾治の針名根連命(はりなねのみこと)を祀っています。尾張氏は当時尾張国を治めていました。創建は、延喜年間(900年頃)作成の『延喜神名帳』に従三位針名天神と記載されているところから、それ以前と思われます。慶長年間(1612年頃)に、約800m北の元郷から平針集落とともに現在地へ移されたそうです。
ここで気になるのが、平針や針名神社の名にある「針」という字です。また生成AIに聞いてみます。
・地名における「針」は荒れ地を開いて田畑にした「開墾地」や「平らな原野」を意味する古語や当て字(墾・張・治など)に由来します。
・開墾を意味する言葉「はり」「はる」は、草木を刈って土地を切り開き、耕地や原野にすることを表す言葉です(例:「平針」は平らな土地を開墾した「平墾(ひらはり)」が変化した言葉です)
・名古屋市内には高針・大針・平針などがあります。なるほど勉強になります。
さて、平針の町には飯田街道が走っていますが、またの名を「平針街道」ともいいます。飯田街道と平針街道とは平針宿で分岐し、平針街道は岡崎へ向かいます。このため「岡崎街道」とも呼ばれました。この平針街道は慶長17年(1612)、徳川家康の命により、三河岡崎から名古屋城への近道として造られました。東海道の脇街道として使われます。さらに家康は平針街道の開削にあたり、平針宿を設置しています。この時期は大阪冬の陣(1614年)、夏の陣(1615年)の直前で、大阪豊臣方が名古屋へ攻め込んで来た際に岡崎徳川方の人馬の移動を速やかにすることを目的に、平針街道を設けたそうです。
街道開通に際し、家康は郷之島(平針駅の北)にあった16軒の農家を街道沿いへ移転させ「平針宿」が誕生。この農家に伝馬役を命じたことで宿場町としての歴史が始まりました。このとき針名神社も一緒に移転してきました。平針宿は飯田街道(足助街道)、平針街道(岡崎街道)の交わる交通の要所として発展し、本陣、脇本陣も設けられ、宿場として大いに賑わったそうです。

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