前回からの続きです。平針駅から平針街道(飯田街道)を歩いて八事駅へ向かっていきます。  

 
ここでちょっと「あいちの歴史観光推進協議会」のWEBページ を見てみると、
■飯田街道
◯ かつて名古屋から信州伊那地方に向かった道はいくつも存在し、飯田街道と呼ばれた道は複数あった。(*1)
◯ このうち平針(名古屋市天白区)から足助、武節、稲橋(いずれも豊田市)を経て信州飯田に向かった伊那街道が、明治9年(1876)に正式に県道・飯田街道に指定。その後、名古屋~平針間の駿河街道(*2)が含まれ、現在、名古屋・飯田間の道路名としてすっかり定着している。
◯ 駿河街道は、豊臣方との決戦を控えた徳川家康が名古屋と岡崎を最短で結ぶ道として拓かせた道。名古屋城下に入る街道入口には寺院を計画的に移転させた”東寺町”(名古屋市東区、中区)がつくられた。戦災や都市再開発等で移転や縮小したものの今日も多くの寺院が存在している。
 *1 瀬戸街道や高針街道にも信州飯田街道の呼称があった。
 *2 名古屋城下の駿河町(名古屋市東区東桜)~平針(名古屋市天白区)~堤(豊田市)を経て東海道の宇頭(岡崎市)に至る道。岡崎街道とも呼ばれた。
 
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現在の飯田街道は江戸時代には「駿河街道」や「平針街道」と呼ばれていました。名古屋城下の起点が「駿河町」であったことから「駿河街道」と呼ばれたそうです。「飯田街道」というよび方は明治時代以降に定着したものです。平針街道は名古屋から平針宿までの道を飯田街道と共有していて、平針宿で飯田市へ行く飯田街道と、岡崎市まで行く「岡崎街道」とに分かれていました。とくに岡崎街道は、慶長17年(1612)に徳川家康の命によって整備され、岡崎から名古屋城へ向かう近道として、東海道の脇街道 (脇往還) として重要な役割を果たしました。
△絵葉書 統監部の岡崎街道の進軍
△絵葉書 天白小学校における井上師団長の講評
 
上の絵葉書は、大正の末頃に名古屋城内に駐留する陸軍第三師団が天白村一帯で軍事訓練を行った時の絵葉書です。「岡崎街道」を進軍する部隊を写し出しています。場所の特定はなかなか困難ですが、当時の街道の道幅や松並木が続く様子が分かる貴重な1枚です。訓練終了後に天白小学校で訓練の総評が行われたようです。
 

さて、平針街道を平針宿から八事に向かって歩くと、植田川を越え、塩釜口駅を過ぎ、名城大学前を通って暫く進むと、左手に平針街道の旧道が見えてきます(八事山交差点)。ここから峠道に差し掛かります。

△八事山交差点。まっすぐが平針街道の新道で、左手へ行くと旧道
△旧道に入るとかなりの急な上りの峠道です
 
旧道は八事駅までかなりの急坂です。勾配を計算すると9%もありました。この峠の頂上あたり、八事山と呼ばれる地にあった一軒の民家が下の絵葉書です。
△絵葉書 聖上八事山に着御(大正2年11月13日)
△現在の八事山の平針(飯田)街道のようす
 
この絵葉書は、前ブログにも書いた大正2年11月に開催された陸軍特別大演習で、大正天皇が八事音聞山で大演習を御統監される途中、ご休憩された民家です。平針街道沿いの峠道に建っていたようです。陛下はここで馬車から馬に乗り換えられて、山道を音聞山山頂へ向かい、眼下の天白川河原で繰り広げられた大演習を御統監されました。
△音聞山山頂に立つ、大正天皇 御統監之所の碑
△御統監碑(左)・御野立所碑(右)/公園内に二つの石碑があります。明治23年4月2日陸軍大演習が行われたとき、明治天皇がここで諸軍を統監、さらに大正2年11月13日陸軍特別大演習のとき、大正天皇がこの地を御野立所として再び統監されました。これを記念して、大正4年村民によって建てられたのがこの碑です。
△峠を越えて旧道をおりていくと八事交差点で再び新道に合流
ということで、峠道を下って冷房の利いたイオン八事のコメダで少し休憩してから電車で帰ります。
 
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