ウエブリブログの閉鎖に伴い、アメバブログへ引越し再投稿です。人気ページでしたので、復刻します。

 

〔2018年01月14日〕

先ごろ渋谷名所というクレジットの入った絵葉書を見つけました。明治期の渋谷の中心地であった渋谷町の名所を紹介したものらしい。江戸時代の渋谷は諸侯や寺領のほかは幕府の直轄地として統治され、渋谷の丘はほとんどが武家屋敷で、低地の水田地帯には農家が点在し、宮益坂と元広尾には商家があったそうな。明治22年の市制町村制の施行により、上渋谷・中渋谷・下渋谷の三村を中心に渋谷村が誕生。さらに明治42年には戸数8,954軒、人口35,191人の渋谷町へ移行します。

 

△絵葉書 渋谷名所 金王八幡神社


渋谷町の名所のひとつが、ここ金王八幡宮(こんのうはちまんぐう)です。社伝によると、金王八幡宮は、第73代堀河天皇の御代、寛治6年正月15日(1092)に鎮座しました。桓武天皇の曽孫である高望王の後裔で、秩父別当 平武基の子武綱は、嫡子重家と共に後三年の役に300騎余を従え1番で参向し、仙北金沢の柵を攻略しました。その大功により武蔵谷盛庄」(渋谷一帯)をこの八幡宮勧請しました。重家の代となり禁裏の賊を退治したことにより堀河天皇より渋谷を賜り、当八幡宮中心居城としました。 

この八幡宮一帯の高台は東に鎌倉街道、西には渋谷川が流れ、東北は低い谷地があって、城館を囲んでいるうえに数か所で湧水があるという城郭を構えるには好条件であったそうです。


△青山通りにある歩道橋「金王坂上」

渋谷氏代々この八幡宮氏族鎮守めました。これが渋谷発祥ともいわれ、現在も境内に渋谷城砦が保存されています。渋谷氏が、武蔵谷盛庄の七郷(渋谷、代々木、赤坂、飯倉、麻布、一ツ木、今井など)を領していたので、金王八幡宮は渋谷、青山の總鎮守として崇められており、古くは渋谷八幡宮と称していましたが、のちの渋谷金王丸の活躍により、金王八幡宮と称されるようになったとのことです。なるほどふむふむ、これでは当然、渋谷名所の一番手になりますな。

 

その後少し移動します。

△唱歌「春の小川」のモデルと云われる「渋谷川」にかかる並木橋を越えて

△JR山手線を渡って、しばらく行くと


△渋谷区文化総合センター大和田

 

暫く行くと、渋谷区文化総合センター大和田につきますが、ここはかつての「渋谷町第二小学校」跡で、金王八幡神社の絵葉書におまけで付いていました。

 


△絵葉書 渋谷町第二小学校

△いまや渋谷の新名所となっている「スクランブル交差点」をみて帰りました。
 

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