△名古屋十名所 元大将之社 絵葉書
△山田天満宮境内にある金神社(名古屋市北区山田町)

大正14年8月に新愛知新聞社(現中日新聞社)が新聞紙上で募集した「名古屋十名所」ですが、第10位に入った「山田町元大将之社」は現在と当時の状況が大きく変化しており、なかなか読み解くのが困難な場所でした。

「山田町元大将之社」とは、現在の名古屋市北区山田町三丁目の山田天満宮境内に合祀されている「金神社」(こがねじんじゃ)のことで、この金神社について『愛知縣神社名鑑』では「社伝に延享三年(1746)の創建とあるが、創祀はもっと古く、大将の宮、大将の社、上の宮と称したが、明治初年に『金神社』と改め据置公許となる」とあり、さらに昭和58年に金神社は山田天満宮の境内に移されます。つまり、名称も場所も変わってしまったということになります。

△山田天満宮
△案内板に、「昭和58年、同区山田町四丁目地内にあった金神社(大将の宮)を合祀した」と。

旧社地は天満宮から200mほど離れた廣福禅寺と山田幼稚園の敷地の一画にあったそうです。この廣福禅寺と山田幼稚園の入口に建つのが「名古屋十名所」と「山田次郎重忠舊里(旧里)」の二つの碑です。
△廣福禅寺と同寺が経営する山田幼稚園
△その入口に立つ「山田次郎重忠舊里(旧里)」と「名古屋十名所」の碑

建久三年(1192)鎌倉幕府を開いた源頼朝は、諸国に守護・地頭を置きます。山田重忠は山田荘の地頭となり、名古屋市北西部、瀬戸市、長久手町一帯の山田荘と呼ばれる広大な地を拝領し、名古屋市北区山田町の現在の廣福禅寺あたりに館を構えました。
そして承久三年(1221)、承久の乱が起こります。山田重忠は後鳥羽上皇の鎌倉幕府討伐の院宣に応じ、上皇方につき一族郎党を率いて木曽川の墨股に出陣するものの、10万騎の鎌倉幕府軍に押されて宇治川まで撤退。ここでも敗れ自害します。
承久の乱で勤皇の雄として武勇をとどろかし、後鳥羽上皇側について奮戦の末に討ち死にしたことが、明治維新ののち朝廷の忠臣として、歴史的に再評価され知られる存在となったようです。
愛知県内では日本国史上屈指の忠臣・楠木正成と同等か、それ以上の人気があったのかもしれません。

「山田元大将之社」は、大正14年8月に「名古屋十名所」に当選した訳ですが、こうした時代背景があってか第10位に入ったと推察されます。

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