△名古屋十名所 榎権現 絵葉書
△榎白山神社(名古屋市西区押切町)

ウェブリブログの閉鎖に伴い、アメバブログへ引越し再投稿です。
東海3県の方以外にはなかなか分かりにくいと思いますが、旧東海道と旧中山道は、現代の東名名神と中央道のように名古屋辺りで合流していた訳ではなく、滋賀県草津までずっと並行に伸びていました。この両街道を繋いだのが「美濃路」(美濃街道)です。美濃の垂井宿と熱田の宮の宿を結ぶ脇往還(脇街道)でした。

永禄3年(1560)の旧暦5月19日午前2時頃、鷲津砦や丸根砦に今川義元軍が襲いかかってきたという急報を受け、織田信長は飛び起きて、有名な敦盛(あつもり)を舞います。「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」。まさにこの桶狭間の合戦に勝負をかける信長の意思の現れでした。
舞い終わると信長は「法螺貝を吹け、具足を持て」と命じ、小姓たちが信長に手際よく鎧をまとわせます。立ったまま湯づけをかき込み、兜を被りいざ出陣。黎明の居城・清須城から馬で駆け出す信長に付き従ったのは僅か5騎の小姓衆だったと云います。時代劇では信長が清洲城(清須市)から熱田神宮(名古屋市熱田区)まで美濃路約13kmを一気に駆け抜けたように描かれていますが、馬で30分程度の距離を2時間ほどかかっていて、信長の熱田神宮到着は午前8時頃であったと云います。

△美濃路に面した「榎白山神社」

実は信長は清須城から熱田神宮まで美濃路を駆ける途中、ここ榎白山神社で戦勝祈願をしています。近在の親衛隊が集まり部隊の体制が整うよう、ゆっくり結集地の熱田神宮へ向かったと云われています。
 この美濃路脇に鎮座するのが「榎白山神社」で「榎権現」とも呼ばれていました。信長が出陣後最初に戦勝祈願した場所と伝わり、桶狭間合戦で勝利したのち一太刀が奉納されます。

この「榎白山神社」は、名古屋市西区押切二丁目にあり、名古屋城の西1kmに位置しています。清洲城にいた斯波義廉氏が文明9年(1477)に、深く信仰している白山権現のお告げを夢に見て、押切の沼地に神社を建てて、その榎を神木としてお奉りしたのが榎白山神社です。
 

△榎白山神社前にある「名古屋十名所」碑

大正14年8月に新愛知新聞社(現・中日新聞社)が新聞紙上で募集し、上位十傑までに選ばれたのが「名古屋十名所」で、その人気投票第8位が「押切町榎権現」。この絵葉書はこれを記念して発行されたものです。境内入口には新聞社から贈られた「名古屋十名所」の碑が恭しく立っています。