3028

 パラオという国は戦前日本の植民地でした。当時、欧米列強の植民地になったほとんどの国は、人口が10分の1以下に減り、人間以下の扱いをされていました。しかし、日本は植民地で水道やガスを引き、学校を建設し、豊かな生活が出来るよう環境を整えていきました。パラオもそうだったし、パラオの人たちは「初めて人間として扱ってもらえた。こんなに生活を豊かにして



もらえてありがたい」と喜んだそうです。太平洋戦争が始まると、パラオの人たちは「俺たちも日本人として一緒に戦う」と言ったのですが、軍のトップから、「貴様らと一緒に戦えるか。全員船に乗って即刻脱出せよ」と言われたそうです。パラオの人たちは別の島に疎開しました。船が港に出るとき、日本人が海岸線に並び手を振りながら、「達者で暮らせよ~」と見送ってくれ




ました。島から随分離れた頃、パラオの人たちは気付きました。「そうか、自分たちが差別されたと思っていたけれど、実は日本人に助けられたのだ」と。そして船の中で「ふるさと」「君が代」をみんなで歌ったそうです。その後、島に残った3万人の日本兵は全員戦死しました。戦争が終わって島に戻ると、海が真っ赤だったそうです。パラオの人たちは、日本兵の死体を一体



一体、墓に埋めたのです。そして、自分の子供たちに「パラオは日本に救われた」と、当時の歴史をずっと今日まで伝えてきました。こんな話はパラオだけではありません。沢山あります。でも多くの日本人は知りません。もちろん戦争ですから、日本の軍隊もたくさん悪いことをやったと思います。ただ、「それだけではなかった」と言うことも知っておかねばならないと思います。 要はそのとき統治したトップの魂によって影響が変わってくると言うことだと思う

891011日のありがとうございます1140071001350014000回。Café昭和の時代

3027

 「養心の会・播磨」の主宰者木南一志さんの「こころ便り」にこのようなことが書かれていた。「戦後70年という節目に天皇陛下はパラオ国を訪問されました。かつて、日本が統治していた国です。もっとも我が国を尊敬して下さる国でもあります。国旗まで“日の丸”を模して青地に黄丸。青はどこまでも美しいパラオの海。黄に丸は、満月を表すそうです。そして、ほんの少し



真ん中から外されているのは、親と仰ぐ日本に対して失礼だからという。満月は太陽によって輝く。私たちの太陽は日本なのです。パラオの国のペリリュー島では日米の熾烈な戦いがあった。自分で学ばなければ本当のことは分からない。新聞で信用できるのは「日付」だけという。私のひとつだけの命は、父母を通じて先祖へ繋がっていく。その歴史を知らなくては、自分の



人生の意義など分かるまい。先人たちのお陰で今の平和があると感謝したい」。時の総理大臣が、日本国のことを本当に考え二度と戦争を起こさないという強い決意があるならば、天皇に先駆けてペリリュー島へ出向き、日米の兵士たちに鎮魂の誠を捧げるべきだと思う。恐らく天皇陛下は、この70年という大事な節目に自ら進んで(範を垂れ)この島に訪れ、総理



を初めとする為政者たちに「不戦の決意」を促すためではなかったかと、あの時そう思ったのは私一人ではないはず。これこそシンクロというのか、みやざき中央新聞の記事にピース小堀さんの素晴らしい記事があったのでコピーしておいたのだが、期を同じくしてパラオ国のことが書かれている。「パラオという国は戦前、日本の植民地でした。当時、・・・続く


3026号 

 昨日、二人展が終わって殺風景になったので自前の作品の飾り付けを川﨑君に手伝って貰い一段落したところで、ふと表のテントを見上げたらかわいいツバメのひよこが顔を覗かせている。開店して3年目の初夏を迎えるが、毎年同じようにやってきて2ヶ月近く子育てをして去っていく。随分と大きくなって身を乗り出しているが、チュッチュ、チュッチ




ュと余りせわしくないので、どうも今回は一匹だけのようだ。毎年ここにやってくることそれだけでも凄すぎる。誰が教えるでもなく。大自然の叡智と遺伝子が・・・ところで、毎月送って下さる「こころ便り」の「養心の会・播磨」は来月で幕を閉じる。15年ほど続いたが残念だ。それに先だって、「養黙」の「養心の会・山口」も今月で閉幕。「養心の会・北



九州」は、4年前主宰者の石丸さんが倒れて、15年続いてきたが幕を下ろした。高齢化が進み次々と幕を閉じていく。これが時代というのかも知れないが、継承する人が居なくなったというのが最大の問題点だと思う。どこの会も同じことが言えるが、異業種交流や何か現世利益がありそうなものはそれとなく誰かが主導権を持ってやっていくのであろうが、



このように真心だけ、全くのボランティア組織は余程奇特な人でないと続かない。時代が違うと言えばそれまでだが、「ヨシ!、俺がやってやろう・・」という男氣のある、女氣のある人間が少なくなって来たことだけは事実のようだ。「誰々のために・・・」といった利他の精神が戦後アメリカの政策によって完全に根絶やしにされた。欧米人の戦略はすごすぎる。まさに長期戦略だ。70年かけてジワジワと日本人の大和魂を無きものにしてしまった。・・続く


3025

1ヶ月に及ぶ「横尾忍&山中明子写真展」も終わり、昨日小雨降る中作品の引き上げに来られた。片付け終わってコーヒーを飲みながらいろんな話に花が咲いた。何よりも、横尾さんの鹿児島時代の会社の先輩が、龍門司焼企業組合理事長の川原史郎さんの兄さんだったなんて誰が想像し得たであろうか。もしもこの個展をやっていなかったら、こんな話に発



展するはずがない。だって題材がないんだから。この展示会の直前に揃えたのだから。母の父親(祖父)の末弟の子供が史郎さんである。私より1つ下の24年生まれ。いやあ、本当にこの世は不思議である。ワンダフルワンダフル

昨日のつづき・・・手嶋先生に会うとそれだけで元氣がもらえる。ガッシリしていて如何



にも健康体そのもの。堂々としてテキパキとした言葉遣いながら優しさとあったか味があり品格がある。「お久しぶりですね、やましたさん。ハイ、首の様子を観ましょうね」「ああ、やっぱりズレてますね。右に折れてしかも前に倒れていますね。大丈夫ですよ。すぐに矯正しますからね」。横になって頸椎の一カ所にガックと何かで叩くような音がする。「ハイ、終わ



りました。30分ほどゆっくり休んで下さい」。治療終了。再度機器で診断。「ハイ、これ見て下さい。さっきの曲線が頸椎の曲がり具合です。矯正後は殆どまっ直ぐでしょ。ハイ、これで大丈夫です。しっかり睡眠をとって、暴飲暴食は止め、適度な運動、そして心配事をしないように・・・」。あとは偉大なる自然治癒力にお任せ。「真宝の水素水」と頸椎の正常化で「鬼に金棒」ますます健康体へなっていくこと請け合いです。この大宇宙は「Simple is best」である。

3024

 昨日鹿児島からHさんが小倉に来たからと言って見事な紫陽花を持ってきてくれた。このシーズンになると紫陽花が一氣にその鮮やかさを放つ。うちの畑の隅にもガクアジサイがひっそりと咲いている。先日食事に出て、「あっ、そうだ。ホタルを見に行こうよ」と板櫃川に行ってみた。店のすぐ傍なのにこの3年間一度も足を運んでいなかった。と言うよりも心



のゆとりがなかったのかも。養殖をしていないので自然発生のホタルだ。だから本当に少ない。「ホラ、ホラ。あそこだよ」「どこ、どこ。あらホント」。「かわいいね。一所懸命光ってる」。僅か数日の命であろうが、与えられた命を最大限に光を放って生きている。しかも人間様にこの「光るいのち」を届けるために。神様って何って凄いんだろうといつも思ってしまう。



なぜこんな生き物を造られたのか。きっと人間に見せるためだ。だって他の生き物は見ることも出来ないし、例え見たとしても「凄いなぁ・・」と感動しないだろう。大自然の偉大なる贈り物に心が洗われる。ああ、ありがたい、有り難い、ありがとうございます。ところで、先日、知人から電話が入る。「何度もお店に行ったのですがいつも留守で。新田原の手嶋整骨




院。ヤマシタさんから紹介されて主人と通ってます。何十人もの人を紹介して喜ばれています。そのお礼が言いたくて・・」と。「そうか、神様は、オマエ。忘れてたのか。行ってこい!」。まさに天の声に思えて、早速金曜日2年ぶりに電車に乗って行ってきた。やはり第一頸椎が右折れ、オマケに前に曲がっている。これでは神経がまともに通わないわ。脳から自然治癒力なる指令をいくら発してくれてもいびつな所を神経がスムーズに流れるはずがない。

3023

大往生、これは私の独断と偏見であるが、「自分の好きなことをしている最中に息絶える」これが最高の死に方であり生き方であろうと思っている。私の人生で杉原さんを含めて三人だけいる。早朝野球をしていた頃、まさに野球狂気と自負していた重職にあった大石師代さんは「俺はグランドで死ねたら本望だ」と常々言っていたが、まさに朝のグランドで倒れ




そのまま逝ってしまった。また、昨年暮れもっとも信頼し親しくしていた中井勝典さんは、大好きなお酒を飲み終え椅子に座ったまま天国へ逝ってしまった。よく働き、人のために骨身を惜しまない男だった。杉原さんも、世のため人様のためにどれだけ尽力されてこられたことか・・・天はきわめて公平で見事な最期を与えて下さる。是非ぜひこうありたい



と願うのは私ばかりでは無かろう。しかし、その前提は、「敬天愛人」の精神で生き抜くことではないだろうか。この「第一回北九州まちづくりサミット」を開催する前年、我々のグループ「来た吸収くらぶ」は、「山田緑地アミューズメント構想」を打ち出し、全市民的運動を展開し、マスコミにも大々的に報道された。その勢いを買ってこの「サミット」を開催した





のだが、新聞に杉原健児さんのコメントがある。「東京に集まる情報をこのサミットにどしどし提供します」と。その後も氏の主宰する著名人を講師とするフォーラムの議事録を毎月欠かさず送り続けて下さり、随分と勉強させて頂いたことを懐かしく想い出される。次年度からも「熱き思いを語らうひととき」と銘打って、各区のまちづくりの鉄人たち主宰で毎年七区全部にて開催することが出来たのもひとえに杉原さんの魂のお陰である感謝している。

234日のありがとうございます75001130013100回。 ギャラリーCafé昭和の時代


3022

 こころざし高き武士道精神を持った偉大なる郷土の逸材を亡くしてしまった。杉原健児さん、その人である。「関門北九州ファンクラブ」の発起人でもある氏の訃報を、当5月号(111号)で知る羽目に。4ページに亘る特集で氏の遺徳を偲ぶ記事が網羅されている。前市長の末吉興一さん、吉田茂人北九州市立病院局長ほか多くの方々が弔辞を寄せられている。氏は小倉高校を卒業後東



京大学から名門日建設計の理事をされながら、ふるさと北九州に熱き思いを寄せ、東京において「ふるさと北九州を考える会」を立ち上げ、どうすればふるさと北九州が活性化し誇りある街を取り戻すことが出来るか等について真剣なる勉強会をされ、同時にその情報を北九州へ発信しておられたのである。丁度、私が平成5520日に北九州パレスにおいて「第一回北九州まち



づくりサミット」を開催したのであるが、そのときにいち早く賛同してくださり、こころざしを同じくする同志として東京から駆けつけてくださったのが杉原健児さんであった。そのときの市長が末吉興一さんで、その秘書が吉田茂人さんだった。氏は私にこう言って下さった。「ヤマシタさん、私はあなた方に出来うる限りの応援を約束しますからぜひ頑張って下さい」と。そして、「この



ふるさと北九州を誇り高き街に蘇らせましょう」と背中を押して下さったご恩を決して忘れることはできない。去る2018時過ぎ急逝されたが、その日は、明陵(小倉高校OB)五期の皆さんと大好きな囲碁を楽しんでおられた。昼食のあと3時半頃対局中にぐらっとされ、異常を感じた友たちは即座に救急車を呼んで医師3人が同乗し病院へ運び込まれたが、そのまま天国へ召されたようだ。まさに大往生である。恐らく心筋梗塞か何かであっただろうが、殆ど苦しむこともなく、大好きな碁を打ちながらの昇天は往生中の大往生である見事なる人生の総決算である。


3021

 「お寺が変われば日本が変わる」。「コンビニよりも多く存在するお寺が本来の役割、使命を果たすように変わっていけば必ず日本は変わる」と、高いこころざしを持った渡辺晃司副住職は、お寺を飛び出し「出前説法」なる活動を続け、多くの人たちに親しまれている。もう一方、人生の試練にぶち当たり仏門を叩いて僧侶となった平賀ゆう山(氵に斿)さんとの



対談が、昨日Café昭和の時代にて2時間を超す熱き対談となった。熱きと言っても私が一番熱くなっていたかも・・・平賀住職は宗像から筑前琵琶の山口旭江先生のお誘いで(二回目)、臨済宗大徳寺派の興聖禅寺を預かっているが、長い間ボロボロの空き寺で、そこを修復して日々修行に励んでおられる。何と檀家さんが40戸と言うからそれはそれは厳しす



ぎるほどの生活だ。で、托鉢に出かけるという。殆どの僧侶がこの僧侶の基本である托鉢をしなくなって久しいが、この厳しい修行を自ら実践されている。渡辺副住職は日蓮宗で、平尾台の麓におばあさんが開祖され、その三代目である。お二人とも大変厳しい修行を経験されている。その厳しさを乗り越えて強い精神力が養われるという。例えば年下の




者から殴る蹴るつばを吐かれる(私だったらとっくに切れて反対にぶちくらして追放されていただろう)。また、朝の2時から23時まで6回の水行、後はひたすらお経を唱える。一日二食、しかもお粥のみ。空腹と睡魔と疲労困憊の100日間修行などなど。このお二人を囲んで「宗教とはどうあるべきか?」などについて懇談会を開催することとなった。

とき 723日(木)午後3時から8時まで。 By ギャラリーCafe 昭和の時代 


3020

 529日のつづき・・・橋下大阪市長に当てた小学6年生のメッセージより 

小学6年生の私は今、政治に興味を持っている。そして疑問を抱いている。なぜ政治家には、日本国、日本国民のために身を削るという人がいないのか。歴史が大好きな私は、数年前から野田佳彦首相(当時)が掲げる「増税」にも納得しかねる。自分たちはたんまり金を持ってるくせ



に、なぜ低賃金で働く国民に税をおしつけるのだろう。歴史が大好きな私は、数年前から専門雑誌を読み、学んできた。今の日本はリーダー不在だとつくづく思う。今こそ「電力の鬼」といわれた実業家、 松永安左エ門のような信念と、 織田信長のような統率力を持つ首相がほしい。そして日本のために働く意欲を示してほしい。・・・まだ続いているようだがFBはここで



切れている。数年前のものであるが、彼も今頃は中学生か高校生であろう。今のこの現状をどう見ているだろうか。彼のような立派な子供たちもたくさんいると言うことを忘れないで欲しい政治家さんよ・・・しかし凄いですね、あの松永安左エ門を知っているだけでも凄い。殆どの大人は知らないだろう。私も以前知らなかった。上甲晃さんのデイリー



メッセージで知ったくらいだから。強烈な人だったようだ。「財産は残さない」、「死んだら葬式はするな」など、己の現世にすべてを出し尽くした人だ。覚悟の人生だ。この覚悟が今の政治家や指導者階級の人に見受けられないのが極めて残念だ。少なくとも橋下さんは覚悟を持って臨んでいる。散々バッシングを受けながらも這い上がってきたまれに見る男だ。

1日のありがとうございます10500回。5月の合計463300回。累計41316700


2019

 昨日は、「横尾忍&山中明子写真展」の高校同期の皆さんが集まって「写真の披露とミニ同窓会」がギャラーCafé昭和の時代であり、昼から3時すぎまでワンワン盛り上がった。皆さん家内の同級生でもある。後輩の大島千代子さんを入れて18名。初めからエプロン姿でやって来る千代子後輩。中には親しい方もいて冗談が飛び交うほど。日頃如如何にしっ



かり付き合いをしているかが分かる。横でせっせと手伝ってくれる。「名刺を配りなさいよ」と言っても「先輩、いいです」と。最後に挨拶をさせてもらったが、決して主人のことを言わずに小倉商業に関する報告のみ。今日61大運動会があるとの由。今じゃ高校は普通の日になったことを始めて知った。そして文化祭倉商祭)では、生徒たちが自分



たちで仕入れて販売する商人の実践編として、何と二日間で1500万円も売上げるというから驚きだ。そんなお手伝いを一所懸命やっている彼女。夫が参議院議員の要職に就いていると言うことは、第三者が言ってくれる。ここがありがたいことで、むしろ効果的でもある。乾杯の後、瑛翔楼のおいしい中華弁当を食べながら歓談。 二部は針尾さん♪♪♪



昭和の時代♪の弾き語りに始まって、髙橋先生のアコーディオン伴奏による唱歌を中心としたうたごえでまた盛り上がる。司会役の白石君のご指名でそれぞれが前に出てマイク片手にリード役を。それにしても皆さんよく飲みますなぁ・・焼酎のお湯割り水割り五五とか七三とかがグイグイ進む。スゴイの一言。お開き後は二次会、三次会まで行ったそうな・・・昭和19年生まれ、戦中派はまだまだ元氣です。惜別の唄は昭和19年に生まれたとの由。

28293031日のありがとうございます14600114002280010500回。