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 昨日は事務所の大掃除、午後からは、お彼岸のお参りに門司のお寺に家内と二人で参詣し、懇ろにご先祖様のご供養をさせてもらった。その帰り道にふくろうの森さんへ寄ってコーヒーを飲みながら雑談。帰りにはたくさんのおはぎを頂戴す。「丁度仏様のお供えを買わないといけないねと言ってたとこなんです。ありがとうございます」と頂いて帰り、早速仏壇


    


にお供えをした。京都の北川さんからもお土産を頂いてお供えさせて頂いた。ありがたい

出雲の大島健作さんとご縁ができ、「思ったように生きる」の冊子の中にたまちゃん先生の話も掲載されていて興味をそそる。たまちゃん先生CDは超長いが(何回かの講演会場の録音収録)ハマっている。店でも車でもずっと聞いている。実に内容が深く、そしてキャラ


 
    


クターがおもしろいので何度聞いても飽きない。今、一所懸命ダビングしてみなさんにお配りしている。たまちゃん先生も、斉藤一人さんも、中村文昭さんも、しもやんこと下川浩二さんも、そして故小林正観さんも、「著作権なんて関係ない。じゃんじゃんダビングしてもらって結構です」と。これぞ本物である。ケツの穴の小さいことこの上ない昨今の講演家た


    

ち。「録音禁止、写真撮影も禁止、ましてやダビングなど以ての外」という講演家が多い中、この人たちは胆玉が違う。どんどん勝手に広がっていけば、絶対にその人に会いたくなるのが人情というもの。みんな引っ張りだこである。小林正観さんなんかは、死後4年にもなるが新刊が出版されるほどだ。「ありがとうの神様」発売即大増刷とある。・・・つづく

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 「縁を活かす」と言えば、この度島根県の大島健作さんとご縁ができた。彼はたまちゃん先生の大ファンで、たまちゃんファミリー島根支部を立ち上げている。この度大島さんが出版された小冊子「思いのままに生きる」を100冊お願いしていたら昨日届いた。昨日のめだかの楽幸・堀木教室に参加された人たちは運がいい。開封一番の冊子をプレゼント。そして、


   


たまちゃん先生のCDを一緒に。この「思いのままに生きる」の中にたまちゃん先生の「やればできる」や、たった4年間の訓練でエベレスト登頂に成功した木元正均さんの感動のお話しなども盛り込まれている。たまちゃん先生のFBの友だちは全国に5000名ほどいてどんどん広がっている。とにかく度肝を抜かれるほど明るく楽しい講演をされていて、元

   

気をもらいたくて全国のファンから引っ張りだこだ。CDを聞いているだけでも元気が出てくるのだから、ご本人を目の前にしてお話を聞くとそりゃあまあ元気が出るでしょう。生徒も先生もそして一般社会人もみんな元気をもらえる。そして生き方が変わってくる。学校現場から教育委員会に上がり出世コースまっしぐらのところで方向変換、日本中に笑顔を



   

届けることに一生をかけるために退職したのが去年。残りの生涯収入約23千万円を棒に振って、何の収入の保証もない一講演家に。上司や周りの人たちから制止されるのを振り切ってである。笑顔で笑い飛ばす。そして「ありがとう」の感謝の心ひとつで一気に全国のファンを虜にした43才の凄い男である。ぜひ北九州にもお呼びしてご縁を頂きたい。

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先生は感動して、しばらく手紙を握りしめたまま、しばらくそこに立ちつくしていた。結婚式の日、先生は大事にしまっていたあのビンを出してきて、蝋を切り取って蓋を開け、底の方に少しだけ残っていた香水を付けた。式場へ行くと、立派に医者に成長したあの少年がハグをしてくれた。かつての少年の姿が先生の脳裏に蘇り、「よくぞここまで頑張ったね」と祝福の言葉を贈っ




た。彼は先生を抱きしめて嬉しそうにこういった。「あぁ、お母さんのにおいだ」。そして、「お母さんが生きていたら、お母さんに座ってもらう席です」といって、自分の隣の席に先生を座らせた。・・・このようなことが書かれていた。やっぱり涙がにじみ出てくる。人間は人との出会い(縁)によって人生が180度転換することがある。この少年もこの先生との出会い



がなかったら、どんな人生を歩んでいたか予想も付かない。勿論人間には持って生まれた遺伝子という大きな財産があるから、一概に決めつけることはできないが、概ね出会いによって人生が決まっていくことも確かなようだ。私も先の410日に亡くなった恩師小原先生との出会いがなかったら、今の自分はなかったろうと思う。学生時代のたった4




月間の先生と生徒の間柄であったが、先生の最晩年まで親しくお付き合いさせていただけたことは真に以て光栄である。高校の先生の葬儀に一不良少年が弔辞を述べさせていただいたのだから・・・もしも、あの時、担任が違う先生だったら???。そして、逃避行した私に優しく接して下さらなかったら復学はなかったし、高校中退の烙印を押され土間ぐれた人生を歩んでいたことだろう。曲がりなりにも高卒の肩書きを頂けたのだから・・・



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 昨夜、店から帰ってくるとカウンターに段ボールが置かれている。「何かな?」と見ると大分県名産のカボスが10㎏も入っているではないか。真宝の水素水生成器を買って下さったEさんからだ。何ともありがたいことです。早速お電話したら「いろいろお心遣いをいただいているので」とおっしゃる。とんでもないことです。こちらこそありがたいお客様です。




元気で長生きして欲しいお方です。「そのうち北九州に出て行きますからね」とおっしゃって下さった。ありがたいことです。

昨日のつづき・・・先生は香水を逃がさないようにまた蝋を垂らしてきちんと蓋を閉めた。学校が始まってからも、少年は勉強を続け、成績がどんどん伸びていった。そして、その子が6



生になるときには、この先生は転勤が決まった。しばらくして、先生はその少年に手紙を書いた。しかし、なかなか返事が来ないので、もうその少年とは縁が切れてしまったような気がしていた。そんな時一通の手紙が届いた。そしてそこにはこう書かれていた。「先生のお陰で高校に入学できました。奨学金をもらえたからとても良い学校へ行けました」と。それから3年後、今度



はカードが届いた。「父はまだ大変な状態ですが、父から離れて寄宿舎に入って高校を無事卒業することができました。卒業後は○○大学の医学部に進みます」と書いてある。それから10年の月日が流れた。先生は少年のことを忘れかけていた頃に一通のきれいな封書が届いた。それは何と彼の結婚式の招待状であった。「先生のおかげで僕は医者になり、素敵な人と結婚することになりました。ぜひ結婚式に来て下さい」という招待状だったのである。・・・つづく


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少年は長期休暇の間中、学校に出てきて、先生の机の横で勉強をした。分からないところは先生から教えてもらった。ある時、少年が「今日は僕の誕生日なんだ」と言った。初めて先生に心を開いた日でもあった。病気になった母親を懸命で看病していたのに、そのもっとも大事な母親は死んでしまった。おまけに父親はアルコール漬けになっている。(恐らく父親は、頼りに



していた妻に先立たれ、生き甲斐を失ってしまったのだろう。私の父もエリートだっただけに戦後のどさくさに泥にまみれてでも這い上がっていくしぶとい根性がなかったのでアルコールに溺れていった。もしも、私が家内に先立たれたら、このお父さんと同じようになっているかも知れない。人間には一概に非難はできないどこか弱い部分が隠されてい



る。そのときになってみないと潜在的なものは出てこないだけである) 「いじめられるより無視される方が辛い」と言われるが、そんな中で先生に声を掛けられ、少年は自分が受け入れられたと思ったから、「僕の誕生日」と言ったのであろう。夕方、先生は小さな花束とケーキを持って少年の家を訪ねた。汚い狭い部屋に一人ポツンと座っている少年は、先生の姿を見て



子供らしい笑顔を見せた。しばらくして先生が帰ろうとしたら、少年は部屋の奥からなにやら小さな瓶を持ってきた。「これ先生にあげます」と言って差し出した瓶は、ふちを蝋で固めてあった。先生はそれをもらって帰り、フタを開けて見ると、中は香水だった。母親が使っていた香水だったのである。きっと彼にとって唯一の宝物であったに違いない。・・・つづく



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耀君が生まれて約一ヶ月半になるが、元気に育ってくれている。すやすやとよく眠っていてしっかりした顔つきになっていて、「この子は胆が据わっている顔をしているね」と家内と話した。きっとお父さん似だろう。男は顔じゃないからね、堂々とした大物になれよ。詩はんは、しきりと絵を描いている。手先が器用でいろんなお人形さんを作ったり、編み物を



して遊んでいる。バアバと近くのスーパーにお買い物についていって、遠慮しながら絵本を買ってもらって嬉しそうだ。うちの子たちもそうだったが、おねだりをしないのがいいね。子供の頃から自分でいろんな物を工夫して作る習慣はとても大事である。

10日のつづき・・・10才と言えばやっぱり親父が亡くなった年である。あの頃は惨めだった



ね。親父は親父で具合が悪く働けないから気分は最低だっただろう。「母ちゃん、帳面買ってちょうだい」といったら、「新聞紙の余白にでも書いておけ・・」と怒鳴られる。勿論新聞など購読する金などあるはずはなく、古新聞のことだ。10円のお金が勿体ない。否ないのである。男のメンツでそう怒鳴ったのだろう。大男からそう怒鳴られると抵抗すらできない。「クソ親父・・」と心の底で叫んでいた。それが、H23年「♪昭和の時代」(曲・歌は針尾



清さん)の誕生になろうとは誰が想像し得ただろうか???・・・だからこの鈴木先生の記述を読んでいて涙が溢れてくるのである。先生は少年にこういった。「先生は休みの間、学校に来る日が多いから、もし家にいるのが大変だったらここに来て勉強する?」と。そうすると、彼の目がぱっと輝いたという。少年は休暇の間中、学校に出てきて、・・・続く

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 みやざき中央新聞の編集長・水谷勤人さんが、以前講演されたときに、「遺言状には私的遺言状と公的遺言状があるというお話をされたことがある。私的遺言状とは、所謂財産分与などの相続に関することがほとんどである。それに比べ、公的遺言状は、要するに「自分史」である。亡くなった後も、誰かがそれを読んでくれたり、ビデオなどを観てその人



を偲んでくれる。また「ああ、そうだったのか」と子供たちが苦難に遭遇したときに大きなヒントとなる、「そんな遺言状がこれから大事になってくる」、と言った内容だった。だから「誰でも何かの形で残しておく必要がある」ともおっしゃった。「戦争に取られ若くして天国へ逝ってしまったご主人へのラブレター」など感動の事例も披露されていた。 私も自分



を作るべく針尾さんにお願いして準備を進めているところであるが、昨日、私の二番目の息子、きいたかし君に忙しいところ無理を言って夫人の朋子さんに朗読をしてもらった。私の勘違いで今日とばかり思い込んでいたのが昨日だったようで、昨日はW徳永展の作品撤収日でごった返している中、たった一回だけのリハーサルで見事に仕上げてくれた。「



なさんがいる中でも大丈夫ですか」ハイ、大丈夫ですよ」と笑顔で応えてくれ本番へ。その前に針尾さんが「昭和の時代」を熱唱。盛り上がってきました。朋子さん、さすが元テレビ局のアナウンサー、間のとり方などピカイチだ。話の内容の方が劣っているので気の毒だった。徳永龍門先生が、「」の作品をお二人にプレゼントされとても喜んでくれた。昇り龍、今度こそ、圧倒的勝利で再度国政復帰を祈念してのこと。心遣いがありがたいね。

78910日のありがとうございます100078001370017400回。Café昭和の時代



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 みやざき中央新聞97日号に鈴木秀子さんの連載記事が出ていて、読み進につれ、「あれ?、どこかで読んだ氣がするぞ」と思っているうちに、「ああ、やっぱり。この記事は『致知』にでていたあの記事だ」と確信した。彼女は度々致知出版に登場する。もう随分前のお話しだが、やっぱり感動する記事はちゃんと覚えているもんだ。この方は、昭和7年生まれだ



がいつも若々しく心に浸みるお話しをされている。東大卒業後、イタリアやフランスに留学、スタンフォード大学などで教鞭を執った後、聖心女子大学教授を経て国際コミュニオン学会名誉顧問など幅広く活躍されている。さてさて本題に入るとして、スタンフォード大学で教鞭を執っているときの同僚から聞いたお話である。スラム街に育った少年とそ



の先生の話である。その女性の先生は、少年が小学4年生のときの担任だった。いつもきたない格好をして、居眠りばかりしていて、どうしても好きになれなかった。ある日、「この子さえいなかったら・・・」と思いながら、学籍簿を繰っていた。その子は、一年生の時は「優秀で素直な子。学校の誇り」と記されていた。ビックリしながら二年生の欄を見た。「お母さ



んが病気になり毎日が大変なようだが、めげずによく勉強している」とある。そして3年生の学籍簿には「母親死亡。父親アルコール中毒に」とある。それを読んだこの先生は、「10才の男の子がどんな思いで毎日を過ごしているのか?その背景など想像もしなかった自分の感受性の足りなさを思い知らされた」という。10才と言えば、もっとも感受性が高く、その頃からが一番記憶に残る年齢のようである。私の10才は西鉄が大逆転優勝した年である。


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 昨日は午後から田川の宮崎さんの自宅へ川﨑君と伺った。真宝の水素水生成器をお買い求め下さったのでその取扱説明に。そして、新築祝い兼ねて(と言っても一年を経過してしまっているが・・)。平屋建ての立派なお家で、機能性に満ち、明るく開放感に包まれている。庭も広く植栽のセンスも素晴らしい。奥様がケーキやコーヒーなどを出して下さり、



歓談のうちにあっという間に時間が過ぎ去った。帰りには無農薬栽培されている畑にも連れて行って下さり、たくさんのお野菜を頂いた。それにしても、道に詳しい川﨑君に「まだかねぇ??」と聞くくらい車で走っても結構遠いなぁと感じた。初回から毎回のように来て下さるすずめの楽幸、終了が8時ちょっと過ぎる。それから自宅へ向かって車を飛ばす。



片道33キロもあるという。いやあ、本当につくづく感心した。「よく来て下さるよねぇ・・ありがたいね」と。私より二つ年上である。しかも肝臓ガンで4度も手術をされている。恐るべし、何というパワーであろうか。普通だったらお付き合いで一二回来たら遠のいていく。そりゃあそうだろう。それを苦ともせずガソリン代も掛かろうに、わざわざうたごえのために。手を会わせたくなる程ありがたい存在である。本当に頭の下がる思いです。



昨日のつづき・・どうせ雨に濡れるのに、そこまで気遣う。まさにプロ中のプロ職人である。この真心が多くのリピーターの心を惹きつけてやまないのだろう。ここに厳しい時代を生き抜くヒントが隠されている。との比田井さんのレポートである。塗装職人のお父さん、鳶職人のお父さん、そして、この靴磨き職人のお父さん、皆、背中を堂々と見せつけて黙って勝負してきたから、息子たちが自信を持って後を継いでいこうと決心させたのであろう。 完



3089号 

 昨日、Café昭和の時代から帰ると、本業の方のお客様が北海道や仙台などへ行ったからとお土産の他に私が好きそうな写真などを持ってきてくれていた。良く知っているよね、私の趣味を・・北海道神宮には「さざれ石」の巌が安置されているという。事務所などに「さざれ石」の写真を飾っているので見ているのだろうね。毎朝、「君が代」斉唱時にこの写真



も必ず見ながらやっているのを見透かされているようだ。(話したこともないのに・・・)また、森繁久弥さんの「知床旅情」。石碑には森繁さんが揮毫された書が彫り込まれていて、その写真も収めてくれている。北海道旅行の途中から仙台へ。そして商売の神様と仰がれている「仙台四郎」さんの飾り物を買い求め、とんぼ返りで北海道へ。仙台四郎さんの置物は



Café昭和の時代の入り口に鎮座しているので、何度か来られたときに記憶されていたのであろう。それにしても、私が喜ぶであろうものをちゃんと記録していて、持ち帰ってきてくれる心根が嬉しいね。ありがたいですね。こうして39年間年中無休で働いていても、居ながらにして、どなたかが各地や世界の情報やお土産や写真などを届けて下さるから、一番贅沢なのはこの私かもしれない・・・



昨日の続き・・・それはその言葉では説明できないほどの熟練度を要す。革の種類、質、状態、温度などによって違ってくるからだ。右足の靴がピカピカに磨き上がった。ふとみると、布が被さっている。「雨に濡れるといけないから・・・」という。小雨が降っていて傘を差して磨いてもらっているときだったのである。終わればどうせ雨に濡れるのに、・・・・