昨日、高校の同期の同窓会がありました。

 

卒後45年で350名ほどの同期生のうち130名の出席ですから、大盛況と言ってよいのではないでしょうか?

 

同窓会の理事職を務めている同期生は当日の早い時間に10年ほど上の学年の同窓会にも出席したそうで、その会は50名ほどの出席だったそうです。同期生の数はほぼおなじだそうですから、それも、大盛況でしょう。

 

同じテーブルの諸君はまだ現役で活躍中です。

 

入蔵は死ぬまで働かなくてはならない生活状況ですが、仕事の性質上、現実には無理です。

 

辞め時を「自分で考える自由」より「考えざるを得ない不自由さ」の方が上回ってくるような気がします。

 

このブログを続けていくうちに、どこかの時点で入蔵の決意をお知らせする時が来ると思います。

 

結局、同期生は、入蔵が会話をした範囲では皆しっかりとしたビジョンを持ち、きっちり準備をしている(あるいは済ませている)ようです。

 

今さら後悔しても遅い入蔵は、仕方ありませんから、できることをできるようにしていきます。

 

どなたがおっしゃっていたか定かではありませんが、若者はXやInstagram等を主にお使いになって、年配者はFacebookを主に使っているそうです。

 

同期生の一部とはFacebookで交流しているので、日々の生活の様子がわかっている(ような気がする)のですが、やはり直接会って言葉を交わすのとは違います。

 

正直、このブログの読者の皆さんの中にはビジネスの世界でも、学問の世界その他の世界でも私の同期生の名前を聞いたことのある方もかなりいらっしゃるとは思います。

 

しかし、少なくとも入蔵の接した限りでは、皆、バカな事をしていた高等学校の生徒に戻って、バカな事をしても許された日々を思い起こし、心の鎧を脱いで穏やかな時間を過ごしているようにみえました。

 

旧交を温めるとはこういう事かと思いました。

 

年を取るのも悪くはないと思いました。

 

以前も書きましたが、入蔵は幼少期、小学生、中学生、大学生の時の記憶は、比較的はっきりしているのですが、なぜか高校時代の記憶は少なく、あいまいです。

 

でも、記憶に乏しい高校生活で、現在の入蔵の人生観の基礎ができたような気がするのです。

 

矛盾していますよね。

 

でも、そう思うのです。

 

ちゃんとしたものは書けないと思いますが、この矛盾した状況を作り出した高校生活を乏しい記憶をつないで何とか小説化したいです。

 

ドキュメンタリーは書けないので、小説の形で主観的に表現したいのです(というか、それしかできない)。

 

そういった手法で、亡妻との関係、両親のことも小説として表現したいです。

 

今の生活環境でいつ完成できるかわかりませんが、とにかくトライしていきます。

 

出来ても、できなくても構わないというのが、素人の特権だと思うので、素人の特権を十分生かして創作として楽しみたいと思います。

 

さてさて、話の方向を見失ってしまいました。

 

このくらいでやめておきます。

 

節約のために(!)エアコンを使っていない入蔵の家の居間兼ダイニングは28.5度です。

 

皆さんのいらっしゃるところはいかがですか?

 

とにかく、お体にお気をつけてお過ごしください。

 

では、また(^O^)/