かつしか落扇指南所のおさらい会の日、入蔵は休日診療当番で仕事をしていました。

 

休日診療当番の日はいつも以上に混んでしまう場合と、空いている場合があります。

 

コロナ禍の中、あまり混んでしまっても診療所の管理上困ります。

 

しかし、処置にとても手間取った方がいらして一時的に混んでしまいました。

 

入蔵の居住するあたりでは、一時的に強い雨が降っていました。

 

そのような状況下、少しでも早く診てほしい電話をかけてきてくださった次の患者さんに、今、処置に時間がかかる患者さんがいるので、来院時間を遅らせてくださいとお願いするのが難しかったからです。

 

それでも、何とか、重篤な状況にならずに済み、お待ちいただいた患者さんにも「お互い様」と言っていただけたのはとてもうれしい事でした。

 

入蔵は先週某企業に行き、ある歯科健診に必要な事業場の巡視をしてきました。

 

健診のバックグラウンドとして、実際の作業環境、作業方法を知る必要があったためです。

 

工場の階段は傾斜がきついものが多く、当日案内していただいた方々に、ものすごく気を使っていただきました。

 

もしかしたら、入蔵の歩く姿が、相当よろよろとしているように見えたのかもしれません。

 

実際、年齢を考えれば入蔵はまさしく「老人」ですからご心配になるのも無理はありません。

 

でも、労わられれば労わられるほど、しっかりしたところを見せようと思ってしまうのが入蔵の(さが)です。

 

階段を颯爽と歩いて見せようと思ってしまいましたから、かえって転ぶリスクはあがっていたと思います。

 

歯科診療においては、歯を削ったり、通常の(外科的な)観血的処置をする場合などは術者の若さは大きな武器です。

 

でも、長い時間を経て身につく臨床経験がものをいう場面もあるので、一概に若い方が良い、年寄は治療に関する能力が低いとは言えません。

 

休日診療では、初めてお会いする患者さんから、うまく患歯の容態の変化の履歴を聴取して、かかりつけ医の先生のお邪魔にならないように、主訴に対する緊急処置としての最善を尽くすことが必要です。

 

ですから、豊富な臨床経験と、それを十分に生かした対応が望ましいです。

 

休日診療にお見えになったある患者さんは、多分10年前、20年前の入蔵には少し荷が重かったかもしれませんが、いささか臨床経過縁を積んだ入蔵老人は冷静に対処することができました。

 

さて、老人と言っても、入蔵は「老人としては鼻たれ小僧」です。

 

ここで偉そうなことを言っている場合ではありません。

 

入蔵は月に数回、近所の図書館に行きます。

 

図書館では一時期姿を消していた不要な本の交換コーナーが復活しています。

 

入蔵は先日そこで、「ないしょ ないしょ 剣客商売番外編」(池波正太郎著 新潮文庫 平成5年9月30日5刷)という本をいただいてきました。

 

解説を筒井ガンコ堂氏が書いています。

 

筒井氏は師の池波正太郎氏の次の言葉を紹介していらっしゃいます。

 

「人間はある年齢になれば、一日に一回は、死というものを考えた方がいい」という言葉です。

 

「ある年齢」がいくつなのかはわかりません。

 

池波氏が亡くなったのは平成二年(1990年)で、67歳でしたから、「ある年齢」はそれよりは若い時でしょう。

 

「考える」というのはどういう意味でしょうか?

 

「どう考えるべき」なのでしょうか?

 

物心がついていれば、軽くか重くかは別にして、年齢性別にかかわらず、「人」は一日に一度も「死」を考えないでいられるものでしょうか?

 

病んでいようがいまいが考える。

 

人にわざわざ言われなくとも考えてしまう。

 

考えないのはもう「死んでいるときだけ」ではないでしょうか?

 

生きているから「死」を考える。

 

だから「死」を考える時、必然的に「生」についてを考えざるを得ない。

 

自ずから「生死一如」です。

 

生死一如」は「生きていてこそ意味がある言葉」であって、死者へのはなむけの言葉ではないと入蔵は思うのです。。

 

仏教哲学的には意味合いが違うかもしれません。

 

しかし、入蔵はあえて「調べもせずに」こういいます。

 

「生死一如」とは「生と死は同じものだ」「生と死は同じものの裏表だ」「生も死も自ら知らないところに帰結があるのだ」という意味ではなく

 

「生きている我々が生を考える時、常に死を考え、死を考える時、常に生を考える。

 

「生きている我々がそう考えた時、生と死は一つのものである」という意味だと。

 

「考える」と「思う」は意味合いが違うかもしれませんが、人によっては上記の文の「考える」を「思う」にして解釈していただいても良いかと思います。

 

「どうしても死について考えてしまう」のは「どうしても生について考えてしまう事だ」と思いたいのです。

 

年齢のせいだと思うのですが、入蔵は一日に一回どころか年中死について考えます

 

でも、今のところ「死について考える事は、『生ききるために』必要な事」とだと考えているのです。

 

「考えている」というよりそのようにしか「考えられない」のです。

 

池波正太郎氏ほどの人物が、わざわざおっしゃったのですから、入蔵ごときが述べたような単純な意味でのご発言ではないかもしれません。

 

誤解の無いよう記しておきますが、入蔵は池波氏の発言に論評を加えようとしているのではありません。

 

筒井氏が書いてくださった池波正太郎氏のご発言に刺激を受けてこの記事を書いたにすぎません。

 

それも、仏教哲学の素養もないのに。

 

と、休日診療当番、工場の巡視の話から、入蔵が予想もしない展開になってしまいました。

 

申し訳ありません。

 

入蔵は今日、ある展示を観に行ってきました。

 

それについては、明日時間があったら別記事をあげたいと思います。

 

入蔵は、明日も出かけたいところがあるのですが、今から月曜締め切りの原稿を何とか仕上げられる目途がつくまで書けなければそれも無理です。

 

入蔵の住居の近辺は明日は午前中の曇り模様が午後には晴れになる予報のようです。

皆さんの御宅の方はいかがでしょうか?

 

とにかくお互いに感染に留意して、明日も過ごしましょう。

 

では、また(^O^)/