今日も指南所の稽古に行きました。

 

8月28日(日)のおさらい会には出られないのですが、その前の日程で、違う落語会に出ることになりそうなので、その噺の稽古をしなければなりません。

 

他のメンバーの稽古を見ること自体が大事な稽古なのですが、入蔵はいつも途中で帰ります。

 

というのはもう何度も書いた通りです。

 

入ったばかりでも、若手は本当に上達が早く、プロの道を選んでも大丈夫そうなメンバーがたくさんいます。

 

指南所で十年以上稽古してきた入蔵ですが、上手とはいいがたいです。

 

しばしば書いてきたように入蔵は全く知らない噺を新しく覚えるという事は無いので、上下(かみしも)、声の高さ、抑揚、細かな所作など、自分で工夫しなければならないことがきちんとできれば良いのですが、それが満足にできません。

 

本当に情けないですが、「伸びしろがある」と考えることにしています。

 

もちろん落語をしてお客さんに笑っていただくのが一番大事ですし、楽しみですが、入蔵は噺の周辺(時代背景、地理的事項等)を調べたりするのが好きなので、そういうことをしているだけで相当程度満足します。

 

史実にこだわりすぎると落語の持っている一番大事な自由度が損なわれるので、良い事かどうかは別です。

 

でも、素人は基本的に自分が楽しむという事を主に考えても良いのではないかと思うのでよしと考えたいです。

 

落語家の高座を、テレビや、映画で、その他メディアで容易に見ることができるようになりました。

 

少しカメラを引いて高座を単純に映した画像の方が落語にはあっていると思うのですが、すでに亡くなった師匠や、ご存命の師匠の若き頃の高座の貴重な記録が、映像美を優先したように見える撮影で、演者の視線や、しぐさ、上下の振り方等が十分に味わえない画像になってしまっていることがしばしばあるのが残念です。

 

もっとも、すべての舞台芸術は演者と観客が舞台空間を共有することを基本として成り立っているので、その空間を外して、舞台を十分に味わうことができないのはむしろ当然と言えるかもしれません。

 

自分が会場に出かけ、会場では演者も観客も深い満足を得ていたという実感があった催しでも、後日それをメディア上の画像で見ると、会場がそれほど盛り上がっていないように見えることもあります。

 

現場でそれを目撃している映像製作スタッフはいろいろ工夫して、臨場感を伝えようと、上述のような撮影上の工夫をしているに違いないのですが、それでも(あるいは「そのせいでかえって」かもしれませんが)現場の空気を正確に伝える事は難しい事なのだと思います。

 

次男が久しぶりに生で室内楽の演奏を聞きに行き「生はやっぱり違った」と入蔵に報告してくれた次の日の土曜日に、入蔵は午前中で仕事を終えて、一人で読売日本交響楽団の土曜マチネーに行きました。

 

上岡敏之さんが指揮するコンサートだからです。

 

入蔵は上岡さんの指揮姿が本当に好きです。

 

上岡さんが振ると入蔵の気のせいかもしれませんが、どのオーケストラでも集中力、やる気が極限にまで高まるような気がするのです。

 

演奏者が本当に楽しんで演奏している雰囲気が伝わってくると言い換えても良いかもしれません。

 

いわゆる「通」の方とは見方、感想が違うかもしれませんが、入蔵はいつもこういった感想を持ちます。

 

いつも終演後幸せな気持ちで帰路に付けるのです。

 

上岡さんは去年まで新日本フィルハーモニー交響楽団の音楽監督でした。

 

入蔵の家から新日本フィルのホームグラウンドの「すみだトリフォニーホール」まではとても近いので、入蔵にとってはとても便利だったのですが、いろいろと事情があったのだと思いますから致し方ありません。

 

読響についても、昨年久しぶりに小林研一郎さん、井上道義さん指揮の演奏会に行って、とても良い演奏を聴かせていただいたので、このコンサートを楽しみにしていました。

 

メンデルスゾーン序曲「ルイ・ブラス」、同じくメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲の後、休憩をはさんでチャイコフスキーの交響曲6番「悲愴」でした。

 

ディミヌエンドで終曲し、そのあとに沈黙が来る曲です。

 

今まで同曲を何度も聞きましたが、昨日の沈黙は今まで経験したことのないものでした。

 

すべての音が消えた後、ほぼ満席と言える東京芸術劇場に訪れたのは、入蔵が自分の目を疑う情景でした。

 

指揮者も、オーケストラも、観客もまさに時間が止まったように誰一人微動だにせず、「しわぶき一つしない」という言葉を具現したような情景が入蔵の目の前に広がりました。

 

劇場中が静止画になったのです。

 

どれほど続いたかはわかりません。

 

何十秒だったか、何分だったかわかりません。

 

でも、誇張でなく、入蔵には「永遠に続く沈黙」のように思えたのです。

 

入蔵が生涯でこれまでも、そして今後も含めて唯一経験する永遠の沈黙だと思います。

 

1999席の座席を満席に近く埋めた観客がこの沈黙の中、一人一人どのようなことを考えていたのか、入蔵にはもちろん想像できません。

 

入蔵が考えていたのは「この沈黙が死というものなのか?」という事です。

 

底知れない沈黙の世界、永久に続く静止画の世界。

 

そこには悲しみも恐怖もありませんでした。

 

生命のあるものには必ず訪れる死。

 

入蔵は本当の「死」というものがどういうものかわかりません。

 

一度死んで生き返った人がいるという話は聞き、そうした人々の体験談に接することはありますが、「生き返る死」が「本当の死」だとは思えません。

 

だから「死」の後に来るものについては正直わからないのです。

 

でも、入蔵は昨日池袋で「死には悲しみも恐怖もない」ことがわかったような気がしました。

 

じゃあ、入蔵が「死んでもいいや」と思ったかというと、もちろんそんなことはありません。

 

むしろ「死には悲しみも恐怖もない」のだから、入蔵は死について過剰に恐れることなく、今後どんな運命が待っていようとも「生ききりたい」と思います。

 

素人落語で馬鹿なことばかり言っている入蔵の言なので説得力がないところが情けないですけど・・・・。

 

では、また(^O^)/