入蔵が、去年の特定健診で、それまでずっと継続していた「身長をごまかすために微妙に踵を浮かせたり頭を前に傾けたり、後ろに傾けたりする」のをやめたところ、身長が一昨年と同じ数値であったのは以前に書いた通りです。
さて、入蔵は大学で授業をするためにこれとは別に大学でも学校保健安全法に基づく健診を受けています。
両方受けると、その内容に差異はあるものの(あるからこそ?)、年に二回健康チェックが受けられます。
この両者を受診する行為の是非は別として、今年も大学での健診を受診しました。
特定健診では身長計の数値を肉眼で読み取り、計測値としています。
大学での学校健診では身長・体重計を用いた計測値が同時にデジタル表示されます。
身長計の計測方法は特定健診と基本的には変わりがないのですが、数値がデジタル表示という事だけで何となく「正しそう」と思ってしまうところが、入蔵の愚かしいところです。
生化学的な数値には関心が向くのですが、去年の学校健診では身長体重の欄の数値をよく見ませんでした。
入蔵は無意識に見ることを避けていたのかもしれません。
そういう訳で、特定健診で身長をごまかすのをやめた入蔵は今年は学校健診この欄をしっかり見ました。
そして驚愕しました。
なんと入蔵の身長は・・・・150.1㎝と表示されていたのです。
去年11月に受けた特定健診の数値より、なんと4㎝以上低いのです。
(ここをお読みになっている読者の皆様の中には「はぁ? だから何?」とお思いの方もいらっしゃると思います。というかほとんどの方がそう思ったかもしれません)。
一瞬何かの間違いかと思いましたが、今年のデータの隣に印字してある去年のデータと1㎜も違っていませんでした。
数値的には残念ですが、とにかく背が縮んでいないのは確かなようです。
入蔵が驚愕したのは自分の身長の低さについてではなく測定方法の仕方で結果がこんなに違うのだという点です。
ご自分の身長について真剣にお悩みの方がたくさんいらっしゃることを入蔵は承知しています。
いわゆる容姿という観点からでなく職業上の要件の観点からのお悩みは本当に深刻であろうと思います。
入蔵は高いところ(入蔵にとって)のものをとるときに踏み台を出したりしまったりする以外にあまり困らない人生を歩んできたので、身長自体については、若い頃から真剣に悩んだことはありません。これで家族の中で一番小さいというようなことがあれば別だったでしょうが、家族一同ミニな入蔵は何とも思わずに過ごしてしまいました。
恋人や、配偶者に身長の条件がある方は多いようです。
入蔵は聞いたことはありませんが、亡妻も入蔵の身長を「残念」に思っていたかもしれません。
人の心の中はうかがい知れませんが、少なくとも入蔵の父母姉弟、妻子(妻については謎なので推量大)は入蔵の身長について拘泥していないと思います。
特に友人においてはその友人関係を取り結ぶ際に、入蔵の身長を考慮したとはとても思えません。
友人関係においては、たいてい「一緒にいて楽しい」とか、「なんだかたまに会って話がしたくなる」とか言ったようなことが、その関係を継続する重要な要素ではないでしょうか。
入蔵の経験上、友人関係、知人関係を継続するにあたっては、容姿そのものが最重要の要素の一つであることは「まれ」というより「ない」です。
逆に言えば容姿そのものが最重要の要素の一つになるような関係には継続性がなかったという事です。
人間の容姿は加齢とともに衰えるという厳然たる事実があるのですから、それを最重要の要素と考えたら「継続性のある関係は保てない」のは必然だと言えるでしょう。
きれいな人は、残念ながらたいてい「昔はきれいだった人」になります、「背が高くてイケメン」の人は、もしかしたら「体が大きくて介護が大変」な人になるかもしれません。
その時、「一緒にいて楽しい」「気持ちが休まる」等の要素があれば、それがたとえ「一緒にいて楽しかった」や「気持ちが休まった」という過去形になっても良好な関係性を保つ原動力になるような気がします。
「昔はきれいだった」「背が高くてかっこよかった」も良いと思いますが、
「昔はきれいだったし、一緒にいて楽しかった」、「背が高くてかっこよかったし、一緒にいると気持ちが休まった」なら、その人が不幸にして「性格が変容してしまった」、あるいは「介護が大変」になっても、「関係性を維持することが苦痛ではない」「あるいはその苦痛が相当程度緩和される」ことになるのではないでしょうか?
「一緒にいて楽しい」「気持ちが休まる」等の要素がいつしか「愛」に昇華するなら、そこに「容姿」という要素は「直接的」には関与してきません。
言い古され、陳腐化しているかもしれませんが、身長を一つの例として
「悩んでも仕方のないことで、悩むのはやめにしましょう!」悩む価値がないから
と入蔵は言いたいです。
では、また(^O^)/