こんにちは、きょうはボロボロと泣きながらのお届けです。

 

長いことあまり涙を流すということがなかったのですが、女性的な周期から心身が不調で、昨夜からボロボロボロボロ泣いています。

 

わたしは、幼少期から神経症的なところがあり、生きづらい子どもでした。

 

それには、生まれつきの性質に加えて、同居していた義理の祖母に虐待されていたこと。両親が仕事で忙しいのに加えて、兄が先天的に深刻な内臓疾患を持っていてその治療に色々なものが費やされていたことなどもあると思います。

 

そして、性質として少々奇異といいますか、感性がわかりやすいものではないことや、若干の発達障害的傾向から、集団に馴染むことが難しく、周囲のひととの繋がりに憧れを感じながらもそれを感じられないことが多かったです。

 

そんななかで、わたし自身の過ちや、間違っていたことももちろんありますが、長年にわたり様々なひとたちに一生の心の傷になるような言葉を投げかけられたり、仕打ちを受けたことがあります。

 

あまり、そういことにその場で怒るということができなくて、勇気を出して「なんであのときあんなことを言ったの」「したの」と問いかけても、「そんな昔のこと」「わたしだって大変だったんだ」「わたしを責める気」などと逆に攻撃をされることが多いです。

 

なるほど、そうい言わせてしまうわたしにも原因があったのかもしれません。

 

ですが、例えば最初の仕事で事実だけを伝えてもどう考えてもセクハラ事案なことを言われ、「そんなことを言わせてしまうわたしに原因があったんだ」と思い、耐え、自分の不快感を我慢し、

 

そういったことが積み重なって、大きな病気となり、10年以上まともな社会生活を送れなくなり、

 

女性として生きるのに得られたかもしれない、結婚や出産といったことが考えることもできないくらい追い詰められ、

 

そこから立ちあがろうと、心理学的な行動療法を実践したり、早起きして運動をしたり、周りのひとを悪く思わないように、前を向いて、腐らないように、

 

そう思って行動して、それでもふっと耳にはいってきた言葉に深く傷つき、倒れてしまう。

 

ひとを責めてもなにも変わらない、過去になにがあってもいま円満にやれているのなら構わない、つまずいたのは誰かのせいかもしれないけれど立ちあがらないのは誰のせいでもない。

 

だけど、そうしたらわたしについた傷は、失われてしまった大切なものを悼む気持ちは、この悲しいという気持ちは、どうなってしまうのでしょうか。

 

わたしは確かにある部分で壊れて、二度と戻りはしないのに、この傷たちは。

 

痛みに、苦しみに、つらさに、ただ息をすることさえが苦痛で死なないでいる時間を延ばすためだけに生きたあの月日は。

 

なんだったのでしょうか。