今朝方、読み終わった本です。
前にブログに書いた、「大きらいなやつがいる君のためのリベンジマニュアル」で紹介された本です。
これね~、話すの難しい!!
これから読もうというひとには一切ネタバレなしで読んでほしいです!!
でも、わたしは読み終わってなんだか悔しかったです。悔しい理由を話すとネタバレになっちゃうんですけど!!
物語の中盤ぐらいまで自分を重ねて読んでいたんですけど、終盤になってひとつのことを思い出していました。
わたしは19歳の春に、同い年の友だちだった女の子を殺人というかたちで失っています。
そのことに関しては、もう長いこと何度も何度もいったり来たり考えて、何度も何度も泣いて憎んで諦めて、なにも消化できてないような気もするし、もう終わったことのような気もします。
スピリチュアルではよく、「どんなときでも常に守られている」「安心していい」といったことが語られます。
じゃあ、死んでしまったあの子は?
ご両親に、姉妹に、友人に愛されていたあの子だって守られていたはずなのに、なんであんな目にあって死んでしまわなければならなかったの?
そういう風に思ってしまうこともあります。
いま、その当時のことを思い出そうとすると、ひとつの景色ばかり浮かんでくるのです。
19歳の春、年度はじまりでひとりぐらしをはじめたばかりのわたしは新聞で離れて過ごしていた友だちの死を知って、その数週間後のゴールデンウィークに実家に帰っていました。
精神的なショックが大きいだろうから帰ってきなさいと両親に言われたのですが、帰ってみて聞いたのは、友だちとほぼ同時期に母方の伯父が自殺していたということでした。
そのゴールデンウイーク、実家でどう過ごしていたかはあまり思い出せないです。
ただ、母とふたり、飼っていた犬の散歩に出ました。
北の地の、光を透かす葉を持つ木々の、それも若葉の頃です。
朝の光は明るく、林床には枯れ草を突き破る芽吹きがあり、連れている金色の犬はいかにも嬉しそうにたんぽぽで遊んでいる。
そんなきらきらしたなかを、友だちを亡くしたわたしと、兄を亡くした母が、ぼんやりと歩いていました。
どんなひどいことが起こったとしても、世界は美しい。
感じながらも、受けいれることのできなかった思いです。
いま亡くした友だちについて思うことは、悲惨な事件の被害者でいないでいてほしいということです。
授業をサボってもう底の方にしか液が残ってないお気に入りのマニキュアを塗って、家族で行った海外旅行でブランド財布を買って「そんな高いもの!って怒られちゃった、でも欲しかったんだもん」と口を尖らせて、トイレの手洗い場で鏡越しにわたしに笑って手を振ってくれた。
そんな普通の幸せがいっぱいあった、愛された女の子でいてほしい。
そんな風に思っています。
本当は生きていてほしい。彼女が死んだことは間違ってるといまでも思う。彼女が生きたことにだけ意味があって、死んだことにはなんの意味も見いだしたくない。
そんな風にも思います。
やはりまだ整理はついていないなあ、と思うのですが、今回の読書のなかで振り返ることができました。