信じるということ、祈るということは、なにかがかえってくるから行うものではないと思うんですよ。
たとえば霊能力のある友人などは、神社仏閣でその流派が定義する修行を行っていなくても神仏にアクセスできるといいます。
逆に神社仏閣でご奉仕していても、神仏のちからをまざまざと感じたことないかたもたくさんいるのでしょう。
じゃあ日々修行をし、ご奉仕をしていることに、なんの意味があるのか。
そんな疑問がありました。
でも日々仏壇のお水をかえ、お花の手入れをし、手をあわせているうちに、信じるということ、祈るということはなにかがかえってくるから行うというのとは本質的に違うのではないかと思うようになりました。
ご利益があるから拝む。というのは、理にかなっているようでいて、ではご利益がなければ神仏を尊重しなくて良いのか?ということにもなりはしないでしょうか?
逆にご利益があるのであれば、自分の生活や幸福を壊すまで神仏にご奉仕しなければならない、ということにもなりはしないでしょうか?
感じられなかったとしても、ただ神仏があることを信じて手をあわせる。
自身が祈ることができる存在があることのありがたさに頭を垂れる。
そういうことが、祈るという行為なのかもしれないと思います。
わたしは大学院で生態学を学びました。
生物多様性の保全というのを啓蒙するのに、多くのひとの目を楽しませる美しい植物、かっこいいかわいい動物を旗印とすることが多いです。
でなければ、その動植物がなくなることで人間生活にどういった影響がでるかを説明することもあります。
だけど人間にとって醜くて取るに足らない動植物なら絶滅してもいっこうに構わないという姿勢は、正しくないと思います。
わたしは、誰かに「自分にとってあなたはなんの利益ももたらさず、いなくなったところで影響もないからいなくなっても構わないし、自分の利益を優先して結果としてあなたが生きられなくなってもしかたないよね」とされるのは嫌だし、抵抗します。
生物が存在する、なにかがそこにある、というのは、他者の意向によって脅かされてよいものでないと思っています。
在るというのは、誰かのために在る、ということではありません。
神仏もまた、人間にご利益をもたらすため在るわけでないと、わたしは考えます。
だからこそありがたいのでないだろうか?とも。
そんなことを思う、早朝でした。