重要なのは愛すること
今日、一緒に食事をした友人が、ロミー様のお写真に、
「ロミー・シュナイダーが笑っていると辛い」と言いました。
かくも、「不幸」と連動しているとも言える、ロミー様の印象。
女優さんなのだから、「素顔」を知る必要はないのですが、
実際はどのようなお方でらしたのか。
先般、嬉しいことに、何と、日本人の著書で出版された、
佐々木秀一様の「Romy Schneider ロミー
映画に愛された女_女優ロミー・シュナイダーの生涯」と、
ロミー様ご自身の日記(瀬川裕司様、訳)の中から、
色々な方のロミー様に関するお話し、
記録された、ご自身のお言葉を、抜粋させて頂きます。
「できるかぎり、仕事も続けていきたい。じっと止まっていてはならない。
先へ進まないといけないのだ。
一瞬立ち止まって考えるのは構わないが、
すぐにまた歩きださなければならない。(略)
年配の女性の役も引き受けるつもりだ。
大事なのは、どんな役かという事だ。
老女役でも、それがよいものなら喜んで受けるつもりである。
もし女優としてだめになる日が来れば、
私ははかり知れない孤独に襲われることになるのだろうか」_ロミー様
「ロミーはプレスや一般大衆にしてみれば、
成熟し開花した女性だろうが、実のところは全くそうじゃない。
そうではないし、今後も永久にそうじゃないだろう。
あれは生きながら皮を剥がされた人体標本さ」
「彼女の第三の生は、共犯者の生だ。私たちはそれを共有し、
また大切にしている。私たちは何かを交感することができる二重奏者で、
彼女と一緒だとカップルを構成しているという感じがしないんだ。
私たちは互いに、相手に変身することすらできる。
その証拠に、私たちは全部しまいまで話したためしがない」
「ロミーとは生命力、それも動物的な生命力そのものである。
その表情は急激に変化し、この上なく獰猛な攻撃性から、
最も繊細な優しさに移行する。ロミーは日常性を越えた女優であり、
そのスケールは太陽級である」
「撮影では手を焼いたこともあったけど、それも最終的には
作品の肥やしになった。ロミーとモンタンには強い対抗心があったんだ。
両方とも目いっぱいの注目を要求してくるから、
二人の関係はぎくしゃくしていた。
でも対立場面の撮影になると、がぜん二人は絶好調になる。
まるで奇跡みたいに。(略)
カメラを前に罵り合うのが嬉しくてたまらないみたいだったよ」
「ロミーは生来、非現実的な部分をもった人で、
どこか捉えどころがない。
子供っぽいところがあり、それを自分でも保持したがっている。
だからその顔を見ると、深刻な苦悩に裏打ちされる形で
永遠の若さが残っている。ロミーは凡庸なものには興味がない」
(1961年、オーソン・ウェルズ監督作品「審判」に出演して)
「オーソン・ウェルズは監督として私の中から
新しい物を引き出してくれた。私は最初から最後まで
ノーメイクで通した。そのせいで必要以上に醜く見えてしまうことも
覚悟の上だった。おかげでスクリーンに映し出された自分を見ても、
最初はしばらく自分だとわからなかったほどだ_だが、
それは女優としての私にとって、深い満足感と、
自分が歩んできた道が正しかったという確信を与えてくれた。
私はレニーそのものだった。私は正しく演じたのだ!」_ロミー様
「私たちの関係は、とても美しく、とても純粋なものだった。
ロミー・シュナイダーは私と同年輩、
それまでの私が知っている女たちは、
十歳は年上だった。今度は話が違う。
これは、私の初めての熱愛だった。二十歳の恋。
その後の恋愛なんて、事情が全然違ってくる」_アラン・ドロン様
「私の存在感のあり方を変えたのは三人。アラン、ヴィスコンティ、
「『仕事中』のヒロインの「プーペ」という名は、ヴィスコンティが若い日に
破談した婚約者、オーストリアの公爵令嬢イルマの愛称である。
ヴィスコンティの末妹ウベルタによれば、1934年冬の、
生涯唯一のこの大恋愛のあとも、ヴィスコンティは
『ずっと彼女を慕いつづけて』いたらしいが、
この女性は、『体つきが、ロミー・シュナイダーにとても似て』いたという」
「ヴィスコンティは『仕事中』の撮影台本の余白に、
ロミーのスケッチを描き残している。表情の異なった顔が四種、
ロミーの特徴的な額や眉間が強調された落書きである。
ヴィスコンティはいったい、何を考えていたのだろうか」
_同
「ロミーのような存在になら、人は長いこと注意を集中できる。
編集でカットする必要も欲求もなかった。
「自分を国際派スターだと思っているかって?(略)
かのローレンやヘップバーンのような人こそがその名に値するのだ。
なぜなら、アメリカで成功しないことには
「スター」とは言えないからである。
ドロンとは今はどうかって?
終わってしまった恋よりも寒々しいものはない」
(葬儀にて)
「共演が噂されていたジェラール・ドパルデューも姿を見せた。
何者かへの怒りにかられた巨漢俳優は、
廊下の壁に何度か頭を叩きつけた。建物はそのたびに揺れた」
1980年、9月28日パリ・オペラ座「ルードヴィッヒ」復元完全版上映時。
「ヴィスコンティは私にとって、大きな力そのものでした。
私は彼に夢中でしたが、当時の私はヴィスコンティもかれなりに
私を愛していたことを理解していませんでした。ヴィスコンティは
周知のとおり同性愛者でしたが、私はその点にこだわって、
好きだと言うのを遠慮していました。今では遅すぎますね」_ロミー様
「ロミーが崩れ落ちそうになっているのに私は気づきました。
神経がぴりぴりしすぎて、参ってしまっている。
だから私は彼女の手を取り、階下のトイレに駆け込んで
閉じこもりました。彼女は私の肩にもたれて泣いた。ずっと長いこと。
それから彼女が化粧を直すのを手伝いました。
ホールに戻ると、彼女は気丈に堂々と振舞った_ルキノのために」
「ようやく私は、エリザベートという人物に、
自分と無縁ではない特質を発見しているところだ。
だけど、臨もうが臨むまいが、払拭するのに
あれほど苦労したシシーの痕跡が、
その全ての重みをもって相変わらず私にのしかかってくる。
わがエリザベートを真実のものたらしめんとする私の演技に」_ロミー様
「パート・イシュルで『ルードヴィッヒ』の撮影の開始。
私は初めてこの女性をきちんと演ずることができそうだ・・・。
このシシーという人物を史実のとおりに正しく描くのは
ヴィスコンティが最初である。
スムーズに撮影を終わらせて、三週間ぐらい愛馬ローラに乗って
このあたりを駈けまわりたい!」_1972年1月23日ロミー様
「『ルードヴィッヒ』はロミー・シュナイダーの勝利である。
彼女をどれほど賞賛しても、賞賛し足りない」
_「ズュートドイチェ・ツァィトゥング」紙
「君は、私が思い描いたとおりのエリザベートだよ、ロミーナ」
デビューされて間もない16歳頃の、日記の一節。
「何もかもが夢だったみたいだった。今、私はケルンの家にいる。
楽しい事は何だって終わってしまうのも早い。
旅行だって、映画だってそうだ。
はっと気づくと目がさめてしまっていて、
何もかももとどおりになっているのだ。ただ、記録だけは残る。
そしてしばしば、そうした記憶こそが人生でもっとも美しいものと
なっているのではないだろうか」
なんと早熟な少女。その少女が駆け抜けた人生が「残した記録」
彼女が想像だにしなかった、女優としての未来、個人としての未来。
友人の言葉が哀しく響きます。同時に、フィルムに刻まれた、
数々の素晴らしい、演技。
今は、静かに眠るロミー様。万感の思いを込めて、感謝を。