あらかじめ失われた黄金
生前の評価は没後ほどではなかった、ジャズエイジの時代を、
華やかに彩った、アメリカ文学を代表する作家の一人、
Francis Scott Key Fitzgerald(F・スコット・フィッツジェラルド)様。
1896年9月24日~1940年12月21日。
・・・の生涯の話しが出ると、必ず「悪妻」として登場する?女性。
どっちもどっちな夫婦って気がするんですけどね。
Zelda Sayre Fitzgerald(ゼルダ・セイヤー・フィッツジェラルド)様。
1900年7月24日~1948年3月10日。アラバマ州生まれ。
南部の名家で6人兄弟の末っ子として生まれ、父親は厳格ながらも、
甘やかされて育ち、快活で、目立つことが好きだった少女。
高校を出てすぐに、フィッツジェラルド様とダンスパーティーで知り合う。
このお写真が16歳頃のものということですので、この頃の事?
出会い直後から、フィッツジェラルド様の熱烈な求愛が始まったものの、
ゼルダ様にとっては、取り巻きの一人だったようです。
その、競争率が、より一層、たまらない魅力だったのはよくある話。
ひっついたり離れたりはあったものの、小説が出版されたら、
という条件をクリアした、フィッツジェラルド様とご結婚になられたのが、
1920年4月3日。処女作「楽園のこちら側」の出版3月26日の、
わずか8日後。後にゼルダ様が書かれた小説では、
ご自分が執筆しようとして、重複した箇所は徹底的に排除させたという、
フィッツジェラルド様ですが、「楽園のこちら側」のヒロインは、
ミューズであるゼルダ様そのものであり、ラストシーンのモノローグは、
モデルどころか、ゼルダ様の日記をそのまま拝借しておられます。
芸術家同士がぶつかり合い、お互いの自己顕示欲や、
名誉欲から来る相克、創作の対象とされる苦痛、取り残される孤独感。
結局は、女性が発狂する・・・カミーユ・クローデル様や高村智恵子様を、
「楽園のこちら側」の成功。ニューヨークでの、享楽的な生活。
若い夫婦は注目を集め、人気者となり、アルコールに溺れての、
「ジャズ・エイジ」「アンファン・テリブル」という、時代を体現する象徴に。
「誰もが二人と会いたがった」と言われる、時の人としての日々。
車の屋根の上に坐ったり、噴水に飛び込んだり、
酔態でホテルから出入り差し止めになったり。
そんな中、翌年のバレンタインデーにゼルダ様は妊娠に気が付く。
1921年10月26日、フランシス・スコッティ・フィッツジェラルド様誕生。
翌年、第二子を身ごもられるものの、おそらく中絶されたと思われます。
フィッツジェラルド様の二作目の小説「美しく呪われし者」では、
ヒロインの中絶が、妊娠で体型が崩れることを気にしてとあるものの、
第一稿では、主人公がヒロインに「ほかの女とも話して、
最善の行動を見つけるんだ。ほとんどの人間はどうにかしているものだ」
と言い聞かせます。事実の投影が強い作家でらっしゃるとはいえ、
小説は小説。物事は一面からだけ成り立つものでもなく、
ゼルダ様の気持ち、ご夫妻の決断がどういうものだったかは不明。
とはいえ、この激しく、家庭的とは言えないご夫婦も、
1922年に「美しく呪われし者」発表。
フィッツジェラルド様は戯曲を、ゼルダ様もエッセイや短編小説を発表。
しかし、夫妻の経済状態は思わしくなく、フィッツジェラルド様は、
借金返済のために、猛烈な勢いで短編を書かれたそうですが、
結果、抑鬱状態に。1924年4月、ご夫妻はパリに向かわれます。
コート・ダジュールで「グレート・ギャッツビー」の執筆に向かう夫。
妻は、若きフランス人のパイロットに夢中になり、離婚を申し出、
夫に拒まれ、パイロットも夫妻と離れ、ロマンスの真実は疑惑のまま。
10月「グレート・ギャツビー」完成前の9月、ゼルダ様の、
睡眠役過剰摂取が起きるものの、それが自殺未遂なのかも不明。
小説の完成を祝ってのローマとカプリ島への旅行も、
お二人を幸福な気持ちにはさせてくれなかった。
旅行中、届いた校正を前に、数あるタイトル候補の選択を悩む夫に、
「グレート・ギャツビー」を選んだのは、ゼルダ様だそうです。
そして、この旅行中から、絵を描き始められておられます。
長年、しまい込まれ、破棄されたものも多い絵画作品。
また、ここで想い出してしまう、高村智恵子様。
これだけしか拝見していない絵ですが、狂気の兆しを感じないでもなく、
評論家受けは悪くなかったものの、売れ行きは芳しくなく、
「流行作家が背伸びして書いた文学寄りの作品」と言われた、
「グレート・ギャツビー」。フィッツジェラルド様死後、再評価されるまで、
何と、絶版になっていた期間すらある!
1925年4月、パリに戻り、フィッツジェラルド様は、
アーネスト・ヘミングウェイ様と会い、親しくなられます。
ヘミングウェイ様とゼルダ様は初めから反発し合い、
かつてないほどに悪化した、夫婦仲の原因も、
夫がヘミングウェイ様と同性愛者同士で浮気していると、
ゼルダ様が断じたことから始まったとか。
これまでの数々の謎と同じく、それも事実は解りません。
フィッツジェラルド様は、否定すべく、売春婦を買うことで、
「男らしさ」を証明しようとしたそうで、あくまで、
スキャンダラスな話題が尽きないご夫婦です。
暑苦し~、と思わんでもないですが、
ヘミングウェイ様のゲイ疑惑は根強いですね。
27歳になって、ゼルダ様は今度は、かつて勉強していたバレエへ、
新たな情熱を注がれます。プロのダンサーを目指し、
1日に8時間ものレッスンを己に課したそうです。
時期既に遅しと、妻の願いに、夫は全くの無関心だったとか。
それもそうだ。しかし、度を過ぎたレッスンを止めなかったのか?
いずれにせよ、夫はますますアルコールへ依存。
妻は、1930年4月、遂にサナトリウムへ入院、精神分裂種との診断。
スイスの施設にも入られますが、ゼルダ様のお父様の危篤もあり、
1931年9月、アメリカに帰国。妻の父の死を前に、
夫は単身、ハリウッドへ。父の死後、再び悪化した精神状態に、
ゼルダ様は1932年9月、精神病院での生活に戻ることに。
療養中のゼルダ様が書いた唯一出版された小説「ワルツは私と」。
フィッツジェラルド様が書かれた「夜はやさし」は、重複する部分が多く、
フィッツジェラルド様は激怒され、書き直しが行われています。
それぞれの主題は違っていたようですが、売れ生きの悪さは共通。
ゼルダ様の療養費がかさむ一方、小説が売れない状況で、
フィッツジェラルド様はハリウッドでシナリオライターに。
そして、当時の3大コラムニスト(ゴシップ・ライター)の一人、
シーラ・グレアム様と恋愛関係に。その関係はシーラ様の自伝を基に、
1959年、ヘンリー・キング監督作品「悲愁」として、映画化され、
今に残されています。ちなみに、シーラ様役、デボラ・カー様。
ロンドンの孤児院で育ち、単身渡米して成功を収めたシーラ様。
40年という、コラムニスト生活の根底には、「映画作品」よりも、
「映画スター」を愛した所にあると言われ、スターからも愛された。
↑ は、シーラ様とマリリン・モンロー様。
1938年、シーラ様と喧嘩されたフィッツジェラルド様は、
ゼルダ様と旅をされておられますが、それを最後に、
お二人は会われることなく、1940年12月21日、
フィッツジェラルド様は、それまでにも何度か起こしていた心臓麻痺を、
再び起こして、グレアム様のアパートで死亡されました。
ゼルダ様はそれからも入退院を繰り返されましたが、
電気ショック療法を控えて、病室に閉じ込められていらした夜、
厨房からの出火で病院が炎上。逃げることかなわず亡くなられました。
様々に語られつくされているご夫妻ですが、お二人の没後に、
お嬢様のスコッティ様が書かれてらっしゃる文章が、身内ながらにして、
偏りがない一文のような気がします。
「みんなが狂ってさえなければ、
二人は自分たちをとりまく狂った状況から抜け出したと
(反対の証拠資料がない限り)私は思う。
だから、父の飲酒があのひとを療養所送りにしたという
考えに乗ることはない。あのひとが父に酒を過ごさせたという
スコッティ様は、一族から離れた共同墓地にあった、
ご両親のお墓を、フィッツジェラルド家の墓地に、
埋葬し直されてもされておられます。
そこには「グレート・ギャツビー」の一節が刻まれ、
波乱万丈だったひと組の夫婦を覆っています。
「こうしてぼくたちは、絶えず過去へ過去へと
運び去られながらも、流れにさからう舟のように、
力のかぎり漕ぎ進んでゆく。」(野崎孝訳) ウィキペディアより。