創始者の名前や、やり方から命名した数多ある〇〇法。
我々の業界なら〇〇療法など。
で、見識の広い先生で、保険診療にこだわらず〇〇療法もやってますみたいなのとか、筋トレ業界なら私は専門家だから〇〇法も〇〇法も〇〇法も知っているみたいに勉強してる感出すために使ってるのかな?みたいなのがある。
しかし、何故その〇〇法をやるのかみたいに何故を追求していくと、そんな〇〇法なんてどうでも良くて、こういう成果を得るためにこれをしましょうみたいなのが当然になって、それが結果〇〇法だったりするわけです。
それが道理が分かるってことで、本当の理解、胆識であり活学と言うのだと思う。
要するにこの世の理を理解したという哲学を得たわけです。
逆に〇〇法知ってますって言ったって、その〇〇法を始めた人が何故始めたのかという本質を理解していない上っ面の理解なら、〇〇法やってみたけど効果無かったみたいな、結局ポイントがずれたりしてる場合も多いと思う。
脱臼整復法なんてのも多々あるわけですが、結局愛護的に元の位置に戻すってのが本質なので、それを考えずに〇〇法で整復できなかったみたいな話になりかねない。
逆に〇〇法なんて知らなくても、知っている人よりも愛護的に元に位置に戻せれば、この人の方が良い整復をしているわけです。
そういう〇〇法マニアみたいな人によく、先生のやり方ではこうなんですよね?みたいに聞かれることがある。
こういうのは単なるHow toマニアで物事の本質を理解してないし、哲学が無い人って思ってしまう。
こういうHow toマニアで本質を理解できない人って、(受験)勉強できる人に多いのかな?という印象がある。
逆に勉強しなかった人の方が、結構本質を理解している哲学のある人が多い気がするんですね。