アメリカは地名を支配できるのか ―メルロ=ポンティの「生の知覚」から考えるオンタリオ湖改称問題

 

北米のオンタリオ湖を、「アメリカ湖」へ改称しようとする提案をめぐって、地元やカナダ側から強い反発が起きています。

オンタリオ湖は、アメリカとカナダの国境に位置する湖です。カナダ側にはオンタリオ州が広がり、湖そのものも米国だけのものではありません。

さらに、「オンタリオ」という名称にも歴史があります。先住民であるヒューロン族の言葉に由来し、「美しい水」や「輝く水」といった意味を持つとされています。

こうしたニュースを見ると、単なる地名変更の問題に見えてきます。

しかし、少し別の角度から考えてみると、「そもそも地名とは何なのか」という問題が浮かび上がってきます。

そこで手がかりになるのが、フランスの哲学者モーリス・メルロ=ポンティです。

 

メルロ=ポンティ――場所は「記号」ではなく「生きられた世界」

メルロ=ポンティは、主著『知覚の現象学』において、人間を単なる精神的な存在ではなく、身体を通して世界を生きる存在として捉えました。

私たちは、世界を地図や数字、言葉といった客観的な情報だけで認識しているわけではありません。

実際にその場所に立ち、歩き、暮らし、他者と関わる。

そうした身体を通した経験の積み重ねによって、私たちにとっての「世界」が形づくられていきます。

メルロ=ポンティの考え方からすれば、場所もまた、単なる地図上の座標ではありません。

そこには、人々が暮らしてきた時間や記憶、経験があります。

そして、その場所を呼ぶ「名前」も、単なる記号ではなく、その場所と人間との関係の中で生きられているものだと考えることができます。

そう考えると、地名を国家の所有を示す記号へと還元してしまうことには、少し違和感があります。

「この土地は自分たちのものだから、この名前に変える」。

政治的には、そうした発想が成立する場合もあるでしょう。

しかし、その場所で人々が長い時間をかけて築いてきた身体的、生活的な関係まで、名前を変えることで消すことはできません。

地図上の文字は変えられても、人々が生きてきた場所そのものまで、簡単に置き換えることはできないからです。

 

この視点から「オンタリオ湖」を見ると何が見えるのか

ここで、今回の「アメリカ湖」への改称問題に戻ってみます。

もし地名を単なる政治的な記号として考えるなら、正式名称を変更すれば問題は解決します。

行政が新しい名称を決め、地図を書き換え、公式文書に記載する。

それで「オンタリオ湖」は「アメリカ湖」になった、と考えることができます。

しかし、メルロ=ポンティの「生きられた世界」という視点から見ると、話はそれほど単純ではありません。

その湖の周囲で暮らしてきた人々にとって、そこは単なる国境線上の水域ではありません。

何十年、何百年という時間の中で、生活の一部となっている場所です。

その場所を、人々は日々見て、歩き、利用し、語り、そして「オンタリオ湖」という名前で呼んできた。

そうした経験の積み重ねによって、「オンタリオ湖」という名前は、単なる文字以上のものになっています。

だからこそ、正式名称を変更するだけでは、人々の中に存在する「オンタリオ湖」まで消すことはできないのではないでしょうか。

 

地名を変えても、人々の記憶までは変えられない

ここから、今回の問題について一つの興味深いことが見えてきます。

地名は、権力によって決めることができても、権力だけでは定着させることができない。

いくら正式名称を設定しても、人々が使わなければ、その名前は社会の中では根づきません。

逆に言えば、人々が長年使い続けている名前は、行政が変更したからといって簡単には消えません。

地名には、そうした強さがあります。

それは、地名が単なる制度上の名称ではなく、人々の生活や記憶と結びついているからでしょう。

このことは、方言にも少し似ています。

行政が標準語を定め、学校教育で標準語を教えることはできます。

しかし、人々が日常生活の中で使っている言葉まで、完全に消し去ることは簡単ではありません。

言葉は制度によって規定されるだけではなく、人々の日々の生活の中で使われることで生き続けるからです。

地名も同じなのではないでしょうか。

 

政治的な名前と「生きられた名前」

もちろん、国家や自治体が正式名称を決めること自体を否定する必要はありません。

行政には行政の名称が必要です。

地図や公文書にも統一された名称が必要でしょう。

問題は、正式名称を決めることと、人々がその場所を何と呼ぶのかは、同じ問題ではないということです。

政治は、公式の名前を決めることができます。

しかし、人々の記憶や生活の中にある名前まで、同じように決めることはできません。

メルロ=ポンティの「生の知覚」という視点から見ると、ここに地名というものの面白さがあります。

地名は地図の上に存在するだけではありません。

人々の身体を通した経験の中にも存在しています。

だからこそ、地名を政治的な所有の標識だけとして扱うと、その場所に人々が積み重ねてきた経験を見落としてしまうのです。

 

民主主義社会では、名前を完全には強制できない

そして、この問題はさらに広げて考えることができます。

自由主義や民主主義を掲げる社会では、国家が正式名称を決めることはできても、人々が何と呼ぶのかまで完全に強制することは難しいはずです。

もちろん、法律や行政によって一定の名称を使用させることはできます。

しかし、日常の言葉まで完全に統制することはできません。

人々が使わなければ、その名前は社会の中で定着しない。

人々が使い続ければ、古い名前は生き残る。

つまり、地名には政治権力だけでは決められない領域があります。

それは、その場所を実際に生きている人々の側に残されている領域です。

「オンタリオ湖」を「アメリカ湖」に変えることができるか。

行政上の名称という意味では、変更できるのかもしれません。

しかし、そこに暮らす人々が、その場所を「オンタリオ湖」と呼び続けるなら、その名前は簡単には消えません。

 

地名は、誰かが所有するものなのか

今回のニュースを見ていると、地名をめぐる争いは、単なる名称変更ではないことに気づきます。

そこには、国家が決める「公式の名前」と、人々が生活の中で使う「生きられた名前」の違いがあります。

メルロ=ポンティの「生の知覚」という考え方を通して見ると、地名とは、地図に印刷された文字ではなく、人間がその場所を生きてきた記憶そのものと結びついたものとして見えてきます。

だから、地名を変えることは簡単でも、その場所について人々が持っている記憶まで変えることはできません。

政治的な名称は、政治によって変えられる。

しかし、生きられた名称は、人々の生活の中に残る。

今回の「オンタリオ湖」改称問題は、その違いを考えるきっかけになるのではないでしょうか。

 

あとがき

ニュースでは、地名の変更が「誰が決めるのか」という政治の問題として語られがちです。

けれども、少し視点を変えると、「人は場所をどう生きているのか」という問題にも見えてきます。

名前は、権力が与えるものだけではありません。

人々が呼び、使い、記憶することで生き続けるものでもある。

そう考えると、一つの地名をめぐるニュースも、少し違って見えてきます。