失敗した元英国首相の経験は誰のものか ミンツバーグの創発戦略論から考える知識継承の危機

英国のキア・スターマー前首相が、下院議員を辞職する意向を明らかにしました。
党内の支持を失い、首相を辞任してからわずか6週間後の決断です。
一国の首相を務めた人物が、その後、国際機関や民間財団、NGOなどに活動の場を移し、外交や人道支援に関わっていくケースは珍しくありません。
スターマー氏にも、政治の世界を離れた後、グローバルな場で影響力を発揮していく意図があるのだと思います。
ただ、ここで少し別の角度から考えてみたいことがあります。
首相としての経験、とりわけ「失敗した経験」は、いったい誰のものなのでしょうか。

ミンツバーグ――戦略は、現場から生まれる
この問題を考えるうえで参考になるのが、カナダの経営学者ヘンリー・ミンツバーグの考え方です。
ミンツバーグは、戦略を経営者が机上で計画し、それを組織が実行するだけのものとは捉えません。
現場での実践や試行錯誤、そこから得られる洞察や学習の積み重ねによって、戦略は「創発的」に生まれると考えます。
つまり、戦略には、最初から完成した計画として存在するものだけではなく、実際にやってみた結果から後になって見えてくるものがあります。
この視点から考えると、リーダーが経験した失敗にも別の意味が見えてきます。
一国の首相として、何を試みたのか。
どこで判断を誤ったのか。
党内では何が起きていたのか。
なぜ支持を失ったのか。
そして、実際の政治の現場で何を学んだのか。
これらは、単なる「失敗談」ではありません。⚡⚡
一つの組織を率いた人物が、実践を通じて獲得した知識でもあります。⚡⚡

スターマー氏の失敗は、誰の経験なのか
だからこそ、スターマー氏の首相退任を、単なる政治家個人のキャリア上の挫折として見るのは少しもったいないように思います。
一国のトップに立ち、組織を動かし、党内の調整を行い、政策を実行し、その結果として支持を失った。
これだけの経験を持つ人物は、それほど多くありません。
しかも、成功した経験だけではありません。
失敗したからこそ見えたこともあるはずです。
ミンツバーグの考え方に沿えば、こうした経験そのものが、次の戦略を生み出すための材料になります。
そう考えるなら、首相退任や議員辞職という挫折を、単に「終わったキャリア」として扱うのではなく、政治の世界で何が起きたのかを本人が分析し、構造化していくことには意味があります。⚡⚡
そして、その経験を次の組織で活かしていく。
それが、失敗を単なる失敗で終わらせない一つの方法ではないでしょうか。

ただし、経験はそのままでは「知識」にならない
もっとも、これは簡単なことではありません。
過去の経験を持っているからといって、それがそのまま新しい組織で価値を持つわけではないからです。
特に、以前の立場を前面に出しすぎれば、
「私は首相だった」
「政治の世界ではこうだった」
という過去の経験を振りかざしているように受け取られる可能性があります。
新しい組織からすれば、それは必ずしも歓迎されるものではありません。
むしろ、過去の経験が大きければ大きいほど、扱いにくい存在になることもあります。⚡⚡
だから重要なのは、経験そのものではなく、経験から何を抽出できるかなのだと思います。⚡⚡
何が起きたのか。
なぜ起きたのか。
どの判断が機能し、どの判断が機能しなかったのか。
その経験から、次の場でも使えるものは何なのか。
こうした形にまで整理しておく必要があります。

過去の組織にも、新しい組織にも「使われない経験」はある
これは政治家に限った話ではありません。
新しい組織に移った人が、以前の会社で得た経験を語っても、必ずしも歓迎されるとは限りません。
「前の会社ではこうしていました」
「以前の組織ではこうでした」
と言われても、新しい組織には新しい事情があります。
だから、経験者の知識が必要とされないこともあるでしょう。
政治の世界でも同じです。
引退した政治家が、現役の政治家に対して過去の経験から意見を述べても、必ずしも歓迎されるとは限りません。
場合によっては、煙たがられることさえあります。⚡⚡
その意味では、過去の経験は、持っているだけでは価値になりません。⚡⚡
必要なときに使える状態にしておくことが重要です。⚡⚡

使われない武器を、それでも磨いておく
だから私は、過去の経験を「分析・構造化しておく」ことには意味があると思います。
もしかすると、新しい組織では誰も聞いてくれないかもしれません。
政治の世界からも、意見を求められないかもしれません。
それでもいい。
使われない武器を磨いておくように、これまでの経験を整理しておく。⚡⚡
そして、いざ必要になったときに取り出せるようにしておく。
過去の経験を、そのまま「肩書」として持ち歩くのではありません。
経験を、再利用できる知識に変えておく。
そこに、失敗したリーダーの経験を次につなげる意味があるのではないでしょうか。
スターマー氏にも、今回の政治的な挫折を単なるキャリア上の失敗として終わらせるのではなく、政治の世界で何が起きたのかを分析し、次の場所で活かしてほしいと思います。
そして、それだけではありません。
政治の世界から離れたとしても、その経験を間接的に政治の世界へ返していくこともできるはずです。
直接口を出すのではなく、必要とされたときに経験を提供する。
そのために、自分の経験を磨き続ける。
それもまた、一つの知識継承の形なのだと思います。

あとがき
ニュースでは、政治家の辞任は「失敗」や「敗北」として語られがちです。
しかし、ミンツバーグの「創発」という視点から見ると、失敗した現場にも、次の戦略につながる知識が残っています。
問題は、その経験があるかどうかではありません。
その経験を、次に使える形まで整理できるかどうか。
失敗したリーダーの経験は、本人だけのものではありません。
ただし、それを他者が使える知識に変えるには、まず本人自身が、自分の経験を構造化する必要があるのだと思います。