聖子の「風」はどこに帰るのか | SEIKO SWITCH ~松田聖子をめぐる旅への覚書~

SEIKO SWITCH ~松田聖子をめぐる旅への覚書~

最も知られていながら、実は最も知られていないJapanese popの「奇跡」、松田聖子の小宇宙を、独断と偏見、そして超深読みで探っていきます。

「選ばれてあることの 恍惚と不安と 二つわれにあり」


これはフランスの詩人ポール・ヴェルレーヌの詩の一節だが、私がこれを知ったのは、太宰治の最初の作品集「晩年」の冒頭に収められている「葉」という短編の前置きとして置かれたものを読んでからだった。


自らを「選ばれた存在」と公に呼べるのは、本当の天才か、ある種の狂人だけだろう。
無論太宰は前者であり、天才の定義のひとつとしてよく言われる「才能が人格を超えてしまった者」にそのままあてはまる。前回の原稿(もう半年前になってしまった!)で述べた如く、普通の人格では三度の自殺未遂とそこからの生還(しかもそのうちの一回は心中未遂で相手だけが死ぬ)という行為は成し得ない。事の善悪は別に、この事実だけですでにある意味「選ばれた存在」なのだ。


そう、天才とは往々にして「不幸」を背負っている。そして、好むと好まざるとに関わらず、天才が「世間」との間にもたらす軋轢が、その不幸を助長していく。
そして、天才が真の意味で世の中の理解を得ることができなければ、それは不幸であると同時に「孤独」でもあるということだ。



聖子ファンのブログは数多く存在するが、その中のひとつに「アマカナタ」さんのブログがある。以前、「松田聖子は歌が上手い」という原稿をアップされて以来、時々拝見しているのだが、読まれた方はわかる通り、実は聖子に関する記述はごく一部で、本筋はありとあらゆる事象について鋭く切り込んでいく優れた時評というニュアンスのブログである。
そのブログで最近、「宮崎駿が松田聖子に影響されて作品を作った」という注目すべき記事がアップされている。聖子ファンにとっても非常に興味深い記事なのだが、ここでは内容には触れない。私がちょっと驚いたのは、まさに私も宮崎駿と聖子をからめた原稿を書こうと思っていたからだ。いわば天才つながりである。


「風の帰る場所」(正・続)という本は、音楽雑誌編集者の渋谷陽一が、1991年の「紅の豚」の公開時から昨夏公開の引退作「風立ちぬ」に至るまでの20年以上にわたって断続的に行ってきた宮崎駿へのインタビューをまとめたもので、実に刺激に満ちた内容だが、これを読むと、この天才アニメ制作者の栄光の裏にある不幸と孤独とが行間から読み取れる。各頁にひとつは考えさせられるフレーズがちりばめられているこの本で、個人的に特に印象深かったのは、「”失われた可能性”という言葉が好きだ」という一節だった。
少し長いが引用してみる。


「”失われた可能性”という言葉が好きなんです。生まれるということは、ひとつの時代、ひとつの場所の、ひとつの人生を否応なく選択することでしょう。今、自分がこうあるということは、もっとたくさんの、あり得たかもしれない自分を失うことなんです。たとえば、海賊船に乗ってて、お姫様を脇に抱えている船長になったかもしれないんです。この宇宙や、他の自分を失うことなんです。失われた可能性としての自分、ありえたかもしれない自分、それは自分に関してだけじゃなく、ありえたかもしれない人々、ありえたかもしれない日本が可能性としてあるんです。
でもそれは、もう取り返しがつかないんです。だからこそ、空想されるその世界のありようは、願いや憧れを強く表すんだと思う」


「失われた可能性」というこの言葉を聖子にあてはめるとき、どうしても分岐点である1985年を想起せざるを得ない。もしあの時聖子が結婚していなければ、という想像は、私ならずとも多くの聖子ファンが考えたことだろう。
今でもよく憶えているのだが、神田正輝との結婚直前、おそらく1985年5月半ばごろ、そのとき購読していた某大新聞にCBSソニーの一面広告が載った。「松田聖子が結婚します!」と書かれたその紙面中央には、聖子の大きなアップの写真。ファンへの感謝の意味を込めた広告の、しかしその一角に、6月にリリースされる初の英語曲(つまり全米デビュー曲)「DANCING SHOES」の広告もしっかりと載っていた。
当時は純粋に音楽的な聖子ファンだった私は、「ああ、聖子は引退するわけじゃないんだな」とぼんやり思った。と同時に、「聖子ちゃん、あなたは本当に幸せなのかい?」と紙面に向かって問いかけたことを思い出す。


この当時の一連の聖子をめぐる「騒動」は、特にそういう分野に興味のない人間の耳にもゴシップという形で入ってきたが、私にはそういうことはどうでもよかった。ただ聖子の歌とその音楽のファンとして、「もったいない」という気持ちがあったのは確かだ。少なくとも結婚~活動休止によって、この80年代を席巻した大きなムーブメントが立ち止ってしまうことは間違いなかったからだ。それはどう考えても、日本のポピュラーミュージックシーンにとって損失だと思えた。
そして、何よりも歌うことの喜びを表出させていた聖子が、休止とはいえ歌うことから離れてしまうことが、本当に彼女にとっていいことなのだろうかという疑問が頭を去らなかった。この広告自体が、祝祭というよりもむしろ、聖子の「未練」を表しているような気がしてならなかったのだ。
今にして思えば、それは「音楽活動」への未練だけだったのだろうか。



先に、「天才とは才能が人格を超えてしまった者」という定義を書いた。
しかし、宮崎駿も聖子も、人格的には破綻のない個人である。アニメーションと音楽という、それぞれの分野に入っていくときにだけ、各々の天才性は発揮されるのであって、少なくとも太宰のような破滅的な志向は表出しない。
だがもし、その分野における天才性を正しく理解されなかったら、どうなるだろうか。
今でこそ、80年代の聖子のパフォーマンスは天才的なものとして高く評価されているが、その当時、それは時代の理解を超えていた。聖子がどれほど突出したアイドルであったか、その本質を認識できていた人は少数派だっただろう。
それでも、国民的アイドルとして絶大な人気を誇った聖子は、自分が表現したいものと自分に求められているもののふたつをステージで止揚すべく、その天才的パフォーマンスを十全に発揮していた。その意味では彼女は幸せだったと言えるだろう。
だが、ステージを離れて「蒲池法子」になったとき、彼女は恐ろしく孤独ではなかったろうか。


以前に「貴種流離譚としての松田聖子物語」という原稿を書いたとき、この聖子の孤独というテーマが浮かんできた。それは原稿をアップした後も私の脳裏に留まり続けていた。このテーマをどう発展させようか悩んでいたとき、ひょんなことからひとつのブログを見つけた。
「田原俊彦ファンのともも☆のブログ~熱く激しくしなやかに~」は、田原俊彦ファン暦35年というコアなファン・ともも☆さんが開設しているブログで、その名の通り、聖子のファンブログではない。ただ、自ら「4%の聖子ファン」と名乗り、テーマにも「聖子ちゃんファンらしき行動」という一項があるように、聖子ファンにも一読の価値のあるブログだ。それは、田原俊彦という稀代のアイドルと常に対で語られてきた聖子への「愛憎」が交錯するレポとしても出色の出来である。原理的田原ファンとして、最大の敵役だった聖子を、いかにともも☆さんが許容していったか、そして未だに許容し切れないか、その葛藤を達者な筆で綴った一連の原稿は、あまりにも面白いので、つい時間を忘れて読み耽ってしまう。
ブログは、聖子についての単独の原稿のほかに、田原と聖子がからんだ原稿もかなりな分量にのぼるが、その中に、1984年11月18日にオンエアされたラジオ番組「田原俊彦・ひとつぶの青春」のトークを丸々書き起こすという快挙(暴挙?)なシリーズがある。
コアな聖子ファンならご存知の通り、「ひとつぶの青春」は江崎グリコの提供で当時のFM東京からオンエアされていた番組で、田原が担当する前、1982年10月から1983年3月までの半年間は聖子がパーソナリティを担当していた。
この1984年11月18日は、田原が担当していた番組に聖子が初めてゲスト出演するという回で、結局この二人がラジオで共演したのは、後にも先にもこの一回きりだったのだが、ブログでは、この番組を録音していたともも☆さんが、その内容を一言一句漏らさず文字で再現されている。
私はこれを読んで、本当にいろんなことが腑に落ちた気がした。そしてたまらなく切なくなった。
書き起こしは8回に及ぶ某大な量なのだが、その中でも私にとって核心であると思えた第7回の書き起こし部分を全文引用させていただく。


聖:ん。だけど、でも、根本的に言うとね
俊:ふん


聖:あの、あなたはすごく・・・やっぱり男性の中ではね
俊:ふん


聖:やさしいー人だと思いますよ・・・。
俊:・・・何、急に改まっちゃって。


聖:いやいやいやいや、あの、ほら
俊:ほんとに・・・


聖:そういうところが、いいのよ。いいのよって(笑)
俊:なにがいいのよだ!ほんとにー(笑)


聖:男性っていうのは、こう、あたしやっぱりうるさくていいと思うのね。
新聞取ってとかさ、お茶って
俊:ん~


聖:女性はそれが当たり前なんだから
俊:そうだなっ!


聖:でも、根本的にやっぱりやさしいっていうのは・・・ん
俊:ん


聖:あなたはそういうところがいいのよねーやっぱり
俊:・・・そうかなー


聖:ん~
俊:そんなつもりないんだけどね別に・・・


聖:でもうるさいわよ
俊:まぁちょっと神経質かもしんないな、ん~


聖:女性の幸せってやっぱり愛する人と一緒に居てー
俊:んー


聖:結婚して子供生んで
俊:ん


聖:それがやっぱり女性の幸せだと思うのよ。
俊:んー


聖:あたしはね。だからやっぱり、いずれは私も結婚するでしょうけれどもー
俊:んー


聖:やっぱりだんな様が安心して働けるようなね
俊:んー


聖:そういう家庭を作っていたいしー
俊:んー


聖:やっぱり相手の人には、あなたみたいにこう威張ってて欲しいし♪
俊:んー


聖:んーそういう気はするな。
俊:威張ってて欲しい?(ちょっと嬉しそうにしてます)


聖:うん
俊:亭主関白が好きなの?


聖:そう!その方がいいと思う。
俊:ん~。今んとこ考えてないの?


聖:結婚ですか!?いやそらやっぱり年頃ですから考えますけどねーでも
俊:だって、やっぱりもぉ世間一般、22なったらなもぉ、なっ。


聖:女性の場合はね。22、3っつったら、ま、だけど、まだ今仕事してるから
あんまり具体的にはね、考えないけど、あなたは?
俊:オレ?


聖:まだ考えないの?全然?
俊:やっぱりボクはね、まだ変わってないね、30歳ぐらいで結婚したいってのは。
オレはまだまだー


聖:でもねほら理想の女性っているじゃないよ
俊:え?


聖:理想の女性っているじゃない?例えば、これだけは最低条件さ、
あの、ボクの相手の人にはこれだけはやっぱりあって欲しいとかさ、
そういう最低条件みたいなものって何?
俊:それはねー何かなー


聖:こう、素直でいて欲しいとかさ
俊:んーそれはもぉ当然だね。


聖:あー
俊:ボクが黙っててもさ、こう、何考えてるか


聖:わかっちゃうような?
俊:わかるような


聖:そういう関係っていいよね~~
俊:ん~


聖:あたしもそういう人がいいな
俊:やっぱり男っていうのはね、


聖:うん
俊:仕事だよこれは。


聖:そぉ?
俊:オマエにも良く言うけどさ。


聖:ん
俊:男は仕事!1に仕事、2に貯金、


聖:やーーーだ!そういう、やめて!!!
俊:3、4が無くて(笑)


聖:お願いだからそういう考え方って!!!
俊:カッカッカッカッカッカッカッ


聖:でもやっぱり女性って
俊:(笑)ぐふっ


聖:あのアレよ
俊:え?


聖:かま、構ってもらいたいもんなのよ
俊:構ってるじゃないかっ!だからいつも


聖:ウソ、いい、あんまりほったらかしにされちゃうとさ
俊:え?


聖:さみしくなっちゃうのよ
俊:そんなほったらかしてないだろ、オレ?


聖:いや、ほったらかしてんじゃない(笑)
俊:しょーがないだろ、そんな逢う機会ないんだから


聖:すぅー、ごめん。
俊:でも、たった1度の人生


聖:うん~
俊:ね


聖:でも、出逢えて良かったと思うよ
俊:そうだよな・・・


聖:ん・・・


この書き起こし一回分だけでも、ツッコミどころは山ほどあるのだが、いまはそのために引用したわけではない。また、本当はここに至るまでのやりとりも引き写したい衝動はあるのだが、興味のある方はご自分で確認していただくのが一番だろう。


この、一見他愛ないやり取りの中で、聖子は確かに何かを伝えようとした。取りようによってはプロポーズしているとも思えるその言葉の中に、聖子の悲鳴が聞こえるのは私だけだろうか。聖子が訴えているその対象は、半分は田原であって、もう半分は田原を媒介として、その後ろにある何者かに向けられているのだと思える。状況的に見れば、この2ヶ月後に破局宣言をする郷ひろみに向けて発していると考えるのが妥当だろう。


今回の原稿のために、あまり気乗りはしなかったのだが、聖子と郷に関わる当時の記述を調べてみた。信憑性はわからないが、1981年3月にすでに結婚を意識しているとおぼしき発言が郷から出ている。そして4年後の実現まで二人で頑張るという発言も。
1981年3月と言えば聖子がデビューして丸一年も経過していない。曲で言えば「チェリーブラッサム」の頃で、正に最初の聖子ブームが起こっていたころである。これが真実であれば、1984年秋はその「4年後」が真近に迫った時期だ。ゴールに近づいていたこの時期のこのラジオでの発言は何を意味するのか。あるいはこのとき、すでに郷と聖子には危機が訪れていたのだろうか。


このあたりのことは、そういうネタに詳しい人物には周知のことかもしれないし、詳しく調べればもっといろいろなことが(真贋を含め)ネットに撒き散らされているのかもしれない。だが私にはそれ自体はあまり意味のないことだ。ここで確認したかったのは、時系列にこの聖子~郷~田原、そしてほどなく突然登場する神田という4人を並べたとき、11月18日の聖子の発言がどういう光彩を帯びて私たちに迫ってくるかという、その一点である。


ラジオでの聖子の発言が素の聖子に近いものであるなら、そこには恋愛のリアリティが欠けている。その発言は「夢見る少女~お嫁さん」のステロタイプだが、現実は彼女を夢見る少女のままではいさせてくれはしない。現実の恋愛と向き合ったとき、理想と現実のギャップは必ず発生する。それを乗り越え、融和していくプロセスそのものが恋愛というものだろうと思うのだが、「夢見る少女」=「王子様としての対象」として郷との恋愛をスタートさせた聖子にとって、それはある種つらい経験だったのではないか。


郷も神田も、聖子がデビューする前から各々の分野で実績を持った人たちだった。それに比べて、田原は聖子と同じ時期にデビューし、同じ番組のレギュラーとしてほとんど毎日のように会い、一緒に仕事をした。「夏の扉」の歌詞を借りれば、「未来の夢であるキャンバスを二人で描いてきた」のだ。そこにいて、同じ時間を共有した者だけが持つことのできる連帯感、それが二人にはあった。


あの伝説のCFでの「手つなぎシーン」に代表される、二人のビッグアイドルをめぐるエピソードは、各々の膨大な数のファンの少しの共感と、その数十倍の怒りと嫉妬を買ったことだろう。それでもこの二人からは、「まわりからどのように捉えられようとも、自分たちの関係を大切にするのだ」という意思が感じられた。二人には、隠し立てしたり繕ったりする必要はなかったのかもしれない。たとえそれが、結果としてどれほど大きな波紋を呼ぼうとも。


聖子と田原、その関係は、人が人とかかわりを持つときに芽生える、おおよそすべての要素が入り交じっている。友情・同士愛・信頼感・兄妹的ニュアンス・共感の上にある反発・そして純粋な恋愛感情…。それらが重なりあっていたからこそ、この二人の関係は言葉で掬い取り切れないものであり、それがまた、様々な憶測やそれに連なる悪意を生んできたのだと思う。


聖子にとって、自分の中にある「少女性」は大きな宝石、守っていたい砦だったと私には思える。それが現実の恋愛の中で次第に削り取られていったとき、そこに立ち位置としての「もうひとりの王子」=「少女性を維持させてくれる存在」としての田原は、非常に大きかったのではないだろうか。郷や神田の前では背のびをしていなければならない自分、そういう自分を離れ、等身大で接することのできる存在、それが田原だった。田原は、聖子の中にある「孤独」に、最も寄り添うことのできる他者だったのだ。


思えば、久留米の女子高から堀越に転入し、そのまま芸能界にデビューした聖子は、いわゆる「普通の恋愛」の経験を持たぬまま、かつてブラウン管の中の憧れであった人とそのまま恋に落ちるというスーパーシンデレラストーリーの実践者でもあった。初めてのまともな恋の相手が、70年代を駆け抜けた代表的アイドルであり、最も身近にいたのが、80年代を代表する稀代のアイドルであったというこのめぐり合わせ。そして当の本人も、おそらく自身ですら思いもよらなかったスーパーアイドルへと登り詰めていく…。このような状況の中で、ひとりの女性としての平衡感覚を保っていくことがいかに困難か、私にもそれなりの想像はつく。


郷との破局からわずか一ヵ月後、聖子が神田との婚約を発表したとき、大方の人は首を傾げたはずだ。
「人間はこんなにも早く、気持ちを切り替えられるものなのか?」
だが、私は何となくわかる気がした。なぜなら人間とは、負った痛手が深ければ深いほど、それをすばやく修復しようとする生き物だからだ。この急転直下の婚約劇は、それほどに深く聖子が郷との関係に傷ついたことを物語っているように思えてならなかった。


聖子は、ファンという名の膨大な数の視線を一身に受けながら、自分を見てくれるたった一人の人をいつも求めていたのだろうか。「本当の私を見て!」と。



聖子と宮崎駿には、「風」というもうひとつの共通項がある。ご存知の通り、宮崎の引退作のタイトルは「風立ちぬ」であったし、それまでの作品にもいつも風が吹いていた。「風の谷のナウシカ」では、主人公ナウシカが風使いの乗り物「メーヴェ」に乗って滑空するシーンが多く出てくるし、「となりのトトロ」や「魔女の宅急便」でも、風が重要な意味を持つ。
翻って、聖子の歌にもいつも風があった。以前に書いた「「転換点としての『野ばらのエチュード』」という原稿でも触れたが、この曲までのシングルA面11曲中8曲に「風」が登場する。そしてこの『野ばらのエチュード』を最後に、第一期のラストシングルとなる「ボーイの季節」まで、一切「風」は出てこなくなるのだ。私には、聖子の歌における「風」が、「無垢なもの(イノセント)」の象徴のように感じられる。そして、聖子の持つ「風」は、未だに帰る場所を探し求めているような気がするのだ。


「結婚して子供を産み、亭主が安心して働ける家庭を築く、それが女の幸せ」。ラジオでそう語った聖子。それから30年の聖子の歩みを私たちは知っている。今となってはこの発言が本当に本意だったのか、知る由もない。
だが、少なくとも聖子が、自分の中に住む「少女」を守り続けようとしたことだけは確かなことだと思う。
そして、その理想がある意味で崩れ去ったとき、聖子は全く別の方向、すなわち「松田聖子」として生き続けることを選択したのではなかったろうか。
そして、私たちは今でも過去形でない「松田聖子」について語ることができるのだ。それが私たちにとって無上の幸せであることは言うまでもない。