キヨシが令和に帰る直前、佐高に会いに行く。


 佐高は「キヨシが転校しちゃうならますます学校に行く理由がなくなった」とつぶやく。 


それを聞いたキヨシが 

「学校行けよ。学校なんて嫌な奴はどこにでも居ると学ぶところ


自分以外はみんな頭悪いって確認するところだけど


合わない奴らが多い中で一人か二人でも友達ができるかもしれない。


合わない奴らは卒業したら会わなくてよくなるけど友達とは卒業してもずっと付き合える。


この先、合わない奴らは避けられて気の合う奴らとはつながれる世の中になるから学校行けよ」

という内容だった(うろ覚えなので間違っていたらすみません)。


 つまりキヨシは2024年のSNSを想定してこういう言葉をかけたんだと思う。 


 一見良い言葉に見える。


けど2024年の日本にも不登校の児童生徒はたくさんいる。


むしろ1986年より遥かに多い。 


 佐高が不登校(引きこもり?)になった原因や経緯は描かれてないので何とも言えないけど、「気の合う奴らとだけ付き合える世の中」が不登校を解決することはない。


 キヨシの言葉は令和で不登校だった中学生の言葉というよりも、平成か令和の教師が言いそうな言葉だなと思った。悪い意味で。 


 「こういう事を言えば不登校を解決できる」という魔法の言葉に見える(実際はそんなことない)

サカエの推測では佐高は発達障害かもしれない、だった。 


私は発達障害で学校には嫌々行っていたけど、「まだ見ぬ友達に会いに行ける」という期待をさせて学校に行かせようとする(悪い言い方になってすみません)のは嫌だなと思った。 


まあキヨシにそんなつもりはなかったと思うけど。 


 中学に限って言えば幸い、卒業後も付き合いが続いた友達もいた。


 しかし、今付き合いのある友達は誰もいない。 


 友達関係って儚いものだから。


 純子も受験して大学に行くと決めてからスケバン友達と縁を切った。 


 私の友達にああいう反社会的なタイプはいなかったけど、進む道や興味関心が異なって友達と疎遠になる、という経験はしている。


 だから友達なんて儚い存在なんだよ。 


 何ていうか、友達つまり他人という儚い存在に期待して行くようなところではないんだよ、学校って。


 制作者はそんなつもりなかったかもしれないけど、友達という存在を餌にして不登校を解決させようとするのはやめてほしいです

(これは制作者ではなく親や教師に言いたいし理解してもらいたい)。


 最終回を迎える前、このドラマの不登校の描き方が悪いものになるんじゃないかと懸念して記事を書いた。 


 記事の内容とドラマの展開は全く異なるけど、悪い予感は当たってしまったのかな。 


 私の想像ほど悪くはなかったし、昭和に戻った市郎はむしろ不登校に否定的ではなくなったけど。 


 まあ、佐高は元々不登校を脱却したかったのかな、と大人になった彼の言葉を聞いてて思った。 


キヨシはそんな佐高の背中を押せたのかもしれない。 


 2024年の不登校の視聴者が観たらグサって来た人もいたかもしれない。

(私は不登校の経験はないけどむしろこのタイプ) 


 でも佐高が背中を押されてから励まされて、本当は行けるようになりたかった学校に行けたのなら、キヨシの言葉は悪くなかったのかな? 


 答えは出ない。