ケルンから1時間ほどの場所に、ベートーヴェンの生まれ育ったボンという小さな町があります。
ドイツにいるうちに
いつかは必ず行きたいと思っていた
ベートーヴェンハウス
行ってまいりました。
本日は、その旅行記を綴りたいと思います。
街の中心地の中にひっそりと佇んでいるその家。
こちらが
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
(1770~1827)の生家です。
彼は、ボンの宮廷音楽家のヨハンと宮廷料理人の娘マリアとの間に生まれ、ウイーンに活動の場を移す22歳までをこの場所で過ごしました。
辺りの景色に溶け込んでいるその小さな館は、ここが目的地であると気付かずに通り過ぎてしまったほど。
チケットは向かい側のショップで購入し、荷物などはその地下にあるロッカーに預けて観光するようになっています。
通常個人訪問は大人12ユーロ、子供7ユーロですが、ファミリーチケット購入で全員で24ユーロ。
お得になりました。
ドアを開けて小さな館内へ。
以前は「館内は写真撮影禁止」であったようですが、2024年現在は「フラッシュを焚かなければ撮影OK」に変更されていました。
ところでこの小さな家は、オーディオの貸し出しなどはなく、自分のスマホにアプリ(無料・任意)をインストールしてガイドを受けることができます。
観光地などでは韓国語・中国語はあっても日本語がない場所もありますが、日本語選択があった
世界で影響力が小さくなる日本を感じるようで、そのような観光地へ行くと(今本当に多いの)少しだけ寂しくなるけど、これはとても嬉しかったです。
さて、観光開始。
ドア左手に控えるスタッフの女性に挨拶をして、順路最初の小部屋に入ると、あの有名な肖像画が!
作家はヨーゼフ・シュティーラー
ベートーヴェンはじっとしているのが苦手であったので、この肖像画の制作はモデルの彼にとっては苦行であったそうですが、出来上がった際にはその出来栄えを賞賛したそうな。
"作曲中のベートーヴェンを描いた唯一の作品"といわれるこの作品を間近にして、今すぐに動き出しそうな生き生きとした躍動感を感じました。
そういえば小学生の時に音楽室のベートーヴェンの肖像画が動くとか、モナリザが動くとかあったよね(笑)
先へ進むと、19歳の時にボンの宮廷楽団でベートーヴェンが使用したヴィオラの展示も。
様々な展示を通して、彼の生きていた18世紀後半から19世紀前半の時代を知ることもできます。
ボンの宮廷の眺め。わぁ、華やかー
1階(日本式の2階)へ上がると、ベートーヴェンが作曲活動に使用した小物たちから、その日常を垣間見ることができます。
建物は小さめな作りです。
ベートーヴェンの曲をヘッドフォンで聴けるスペース。
ふかふかソファーで極上の音楽を。ずっと座っていたくなる。
ベートーヴェンは手紙1700通以上、そのほか日記などを残していますが、
本人が「自分の気持ちを言葉にして表すよりも、音符で表現したほうが易い」と公言していたように、饒舌な音楽表現とは対照的に、文章においては言葉足らずで、思ったことをそのまま表現してしまうような無骨さもあったそうです。
ヴェートーベンが最期に使用したペン(1827年頃)
ところで皆さま、ベートーヴェンって視力の矯正をしていたんですって。ご存知でしたか?
実際は近視であったようで、メガネも。
知らなかったー!
あの肖像画にメガネ・・・想像できない?
それから、彼ほどの大音楽家になると、邸宅には使用人もいましたが、彼自身は厳格な雇い主であったため過去に何人も変わっているそうです。
例えば一日のタイムスケジュールも、午前中は作曲活動、そのあとに続く活動など、きちっと決まった通りの生活を好みました。
気性が荒く短期であることで知られているベートーヴェン。使用人が気に入らないことをすると、怒りで物を投げつけることがよくあったそうです!
几帳面な性格であることを如実に表すエピソードとしては、コーヒーハウスではぴったり60粒の豆を使ったスペシャルコーヒーを飲むことが日課だったとのこと。
数を決めるなんて細かいよ!と言いたくなりますが、わたしはコーヒーを飲まないのでその辺りがわかりません。コーヒー好きの皆さま、いかがですか?
さて、続いては
交響曲第9番 作品125、第三楽章のスケッチ。
ベートーヴェンはどこにいてもいつでも溢れ湧く音楽の発想を書き留められるように、常にスケッチブックを携えていました。
倹約家の彼は、帳面をまだ書く余裕がある場所のある紙(不要な紙)で作成していたようです。
このため現代の学者たちは、様々な字が入り混じった帳面が、彼による直筆のものであるのかそうでないのか分類するのが大変なのだとか。
ベートーヴェンとしても、まさか200年ほど経った未来の人間が、このような苦労をしていることなど知る由もなかったでしょう。
さて。厳格でとっつきにくい性格と思われがちなベートーヴェン。
そのイメージからは意外!?故郷のボンでもウイーンでも良き友人や支援者に恵まれたようです。
さらには、
恋愛など女性関係もなかなかの華やかさ。
まずこちらは、どなたか不明の女性の肖像。
ベートーヴェンの死後に、机の引き出しから発見されました。
「貴方を、筆舌に尽くせないほど愛しています」
彼が一番愛した女性は教え子のヨゼフィーネ・ブルンスヴィック(こちらの手紙の贈り主)でしたが、身分違いの恋愛は叶うことはありませんでした。とても綺麗な字ですね。
彼女の他、「月光ソナタ」(ピアノソナタ第14番)を捧げたジュリエッタ・グイチャルディ、「エリーゼのために」の「エリーゼ」ではないかといわれるテレーゼ・マルファッティなども知られていますが、いずれの恋も叶うことはありませんでした。
仕事柄高貴な女性と知り合う機会が多かった一方、どの女性も彼にとっては身分違いの女性であり、お互いに愛し合っていてもその壁を越えることは容易ではなかったのです。
さて、上の階へ行きましょう。
2階(日本式の3階)は中でも素晴らしいです。
ヴェートーベンファンにはたまりません。
楽譜などの展示が多く見られます。
こちらは、
交響曲第9番(二短調) 作品125の表題
ウイーンでの初演は、拍手喝采の大成功でした。
この頃には全く耳が聞こえていなかったが、初演では自ら指揮をし、大喝采を浴びたことに気付かなかったという逸話も。
交響曲第6番(ヘ長調) 作品68「田園」
すがすがしい曲ですよね。
この明るく軽やかな出だし、ドイツの青々とした自然が思い描けるのです。こちらへ来てから好きになった曲でもあります。
「この音楽はわれわれを田園に誘い、そこに到着すると、明るい気持ちが広がる」
このように、第一楽章に関してベートーヴェン自身も述べていたそうです。
他にも色々な楽譜や直筆の展示があるのだけれども、残念ながら全ては紹介しきれないのでこの辺としましょう。
輝かしい活躍の一方で、ベートーヴェンは20代後半より難聴に悩まされるようになります。
晩年は、殆ど耳が聞こえない状態で作曲活動を続けました。
彼が42歳の頃に、メトロノームの発明者ヨハン・ネポムク・メルツェルによって製作されました。
初めは難聴による苦しみを隠そうとしたベートーヴェンですが、ごく親しい友人にだけは、このことを伝えています。
やがて症状が進行すると、ピアノ演奏と指揮を諦め、作曲活動のみを行いました。
当時として可能な限りの治療を試みましたが、効果を得ることは叶いませんでした。
聴覚以外にも健康的な問題を抱え、慢性的な頭痛や腹痛、リュウマチなども患っていました。
そして、こちらは死亡日の翌朝に型取りされたと思われるデスマスク(レプリカ)
1827年3月 56歳でした。
その横にある絵画が、ベートーヴェンの葬列を描いた有名なものです。
その最期は、様々な場所から1万人から3万人もの人々が見送りをしたと言われる大きなものとなりました。
「葬列の奥に見えるのはシュヴァルツシュパニエル教会、教会の右側の家並のひとつにベートーヴェンは住んでいた。どの窓からも人が顔を出しているが、2階の人がいない場所が彼の住まいであった」ことを、音声ガイドを通じて初めて知りました。
この絵は知っていたけれど、これは初耳。そのようなことを知れるのも、この場所にきた甲斐があったと言えるでしょう。
フランツ・シュテーバー「ベートーヴェンの葬儀」
葬式のために各人に招待状が送られ、当日は学校も閉鎖される大葬送となりました。
途中、次女が飽きてしまったこともあり(子供には仕方ないですね)、駆け足の見学となりましたが、ここで展示はお終いです。
ここドイツの貴重な歴史的建造物は、戦火に遭ってしまったものも多いなか、この小さな家はそれらを無傷で切り抜け、心ある市民の方々により大切に保存され、今日私たちがその貴重な場所を訪れることができています。
中庭から見上げるベートーヴェンハウス
わたしに関して言えば、ドイツに来てからは自然とベートーヴェンを聴くことが増えたのですが、彼がどのように音楽に向き合っていたのか、どんな人柄だったのかなど、音楽の背景にある作曲家個人のエピソードや、大切にしていた仕事道具などを間近に見ることができ感激しました。
博物館の規模としては小さな3階建ての邸宅ですが、音楽ファンやベートーヴェンの曲を愛する人にとっては、見応えのある場所と言えるでしょう。