「共感脳」という
ミラーニューロン発見後の、ミラーニューロンや脳について書いている本の一部を抜粋させて頂きます。


『主語と動詞と目的語が1つの文章をつくるには、6つの異なる順序が理論上は可能ですが、圧倒的に多くの言語が、主語を最初にし、目的語と動詞がその後に続きます。これはまるで、人間の動作が、目的物に向かって自分の身体を動かす前に、私たち(主語)の中の意図としてはじまることとよく似ています。』




ここを読んでて
日本語と英語やヨーロッパ言語の差異に意識がいきました。


例えば日本語で、以下の文の場合
「私は花を見ています。」
「私はコップを動かします。」


英語だと
「私は→見る→花を」
「私は→動かす→コップを」の語順になるわけです。



これを実際に
この順番で動作してみると、

英語の場合
「私」に意識が向いている時間
滞在している時間が長く
「私」と、「花やコップ」の間には明確な線引きがされているようです。



映画だと
ある一場面からある一場面へ、
場面のカットがハッキリと切り替わる感じです。





一方日本語は、
「私」に滞在している意識や時間が短く弱く、
「花やコップ」に視点や意識が移動し、動詞の所では「私」と「花やコップ」の共同作業のようになっています。



映画だと
私とモノが両方映る全体の映像シーン
カットの切り替えはありません。






もう1つ、英語の場合
自分の後ろに誰かいて
そこから自分を見ているようでもあります。

彼女は→見ている→花を
彼女は→動かす→コップを




日本語の場合
「私」と「花やコップ」を両方見れるところ
間の位置から見ているようでもあります。

彼女は→花を→見ています。
彼女は→コップを→動かします。


「私」と「花やコップ」が並列なんですよね。




この辺りが日本人の自然に対する共感や感性、
針や木まで供養するような感覚を生んでいるのかも知れません。




それらの差異が
1つ1つのシーンに顕著に現れている映画において、英語と同じ語順圏で日本映画への共感はあまり見込めないかもしれません。



一方、感性はそのままに
カット割りのある漫画や、そこから生まれるアニメなんかは、割と伝わりやすいのかな?
とも思いました。















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