広島市現代美術館に特別展「Before/After」を観に行った。

桜の頃に観に行こう館内には入ったのだが、それまでにあちこち撮影して疲れているうえに、リニューアルオープンということでお客さんが多くて観る気が失せたのである。新しいもの好きの人たちもあらかた来ただろうし、そろそろ落ち着いた頃だろうと行くことにした。

美術館に向かうと、どんどん人が集まってエントランスに吸い込まれていきビックリ。こんなにお客さんがいるところだった?マイナーな場所が好きなのに、人気が出たら困るなあ(私個人としては)。でも、たまたまお客さんが集まったタイミングで、実際はそんなに混んでいなくて良かったのであるが、以前の閑散さがないのは良い傾向なのだろう。

今年から「モカパス」を申し込む。モカパスは現代美術館の会員証みたいなもので、なんと1年間(と言っても来年の3月末まで)自由に何度でも観覧できるのである。提携美術館でも割引があるし、カフェが10%引きなのだ。どの美術館も観覧料が大幅アップしているし、ここは毎回特別展を観に行くのでお得である。住所氏名などの基本的な項目を記入するのみで、一般は3,300円。最強お得カードだったスタンプカードは廃止のようなので、これからはモカパスでいくことにする。

 

最初はリニューアル前に使っていたものや模型などの展示。
ああそうですか、という感じだが、どう変わったかアピールする必要があるので仕方ないか。

田中功起の作品は何度か見ているが、いつも戸惑ってしまう。

床に置かれた日用品の組み合わせで、テレビ画面にはその日用品を使って音を出したり、動かしたりが延々と流される。日常的な音や形の記録と受け取れば良いのか、組み合わせによる新しい発見なのか、日常に美は隠れているということか。どう受け取るべきなのか戸惑ってしまう。今回は保存にテーマがあるようで、学芸員とのやり取りの映像が流されていた。

次の平田尚也の作品も戸惑ってしまう。

架空世界で彫刻作品を作るということだが、その発想は理解は出来るし、これからの手法なのだと思うが、あまり面白く感じない。頭が古い世代には、「ああ、そうですか。」という感じがする。
彫刻は形の美しさや面白さを感じるものだが、デジタルにはまだ美しさは感じることは出来ない。表面的なキレイさはあるけれど、ゲーム世界のようである。今のゲームはファミコン世代がビックリするほどのリアルなものになっているが、リアル過ぎてリアルではない。過剰にキレイで潔癖で薄汚さがなく、生命を感じない。
デジタル作品に苦手意識を持っているせいもあるだろうし、これから認識が変わっていくのかもしれないが、現時点では肯定的な評価ができない。
 

3Dプリンターで作られたものもあるが、欲しいか訊かれても、いらないと答えるだろう。
前の週に呉市立美術館で今井政之の動物の置物を観て欲しいなと思ったが、あれをデジタルに落とし込んでもおそらく欲しくはないだろう。とは言え、デジタル作品がこれからどんな発展を見せるか、好き嫌いせずにこれからもフォローしていかなくてはならないだろう。

VRゴーグルで鑑賞できるものがある(予約制)。没入感にハマってしまうと抜けられないものかもしれないが、世界を拡張するというより、視野を狭めて見せたいものを観せられているだけのように思ってしまう。実際に体験してみたら違うのかもしれないので、否定的なことばかり言ってスマナイ。

階下に進み、高橋銑《Cast and Rot》が面白い。

彫刻を保存する方法をニンジンに施したとのこと。経年劣化でどのようになるのか分からないが、朽ちていく方向だと思うものの、ミイラのごとく形は残りそうだったりする。いくつも作品があるが、何だかニンジンが人のように思えてきた。これはどこか飾っておきたい気がする。

ほつれたり壊れたところを光る糸で繕って薄いベールで囲う竹村京の作品。壊れたら捨てれば良いのだが、愛着があれば簡単には捨てられない。糸で繕ってベールで覆うことによって、壊れたものが貴重なものに変化する。

はかなげで優しい雰囲気であるが、やや青い光が強すぎる。糸を光らせるのに必要な光量があるのだろうが、疲れ目には見続けるのが辛い。

ヒロシマ賞のシリン・ネシャットの作品《Land of Dreams》。
前室では映像の主人公が撮ったと思わせるポートレートに囲まれる。プリントの質が高く、その人が迫ってくるような写真である。私にはこういう写真は撮れそうにない。
映像作品は2画面が並んで映し出され、別の場面なのに、ふとしたところでリンクしたり不思議な映像である。映画のような高い質感と音楽。字幕を読まなければならないので、どうしてもどちらか片方に視線がいくのだが、不思議とわずらわしさを感じない。2画面で構成するというのは何かに使いたいアイデアである。1回観ただけでは理解できそうにないが、時間があれば何度か見続けたい。
後日の新聞記事によると、美術館が作品を購入したようである。そうなるとまた観る機会があるはずで、良い作品を購入したと思う。また観よう。
 

映像の中に出てくる権威ある立場の人間の横柄さ、傲慢さは人々を苦しめる元凶のように思える。弱い立場の人間は不平を陰で言えても逆らうことはできない。私は権威者になることはないだろうが、年配者として目下の者へこういった態度はしないようにしたい。威張っている人間はカッコ悪いのだ。カッコイイ人間になりたいものである。

 

場所を移動してB展示室へ。毒山凡太郎の防護服を着て歌を歌う少女を魚眼レンズで撮影した映像作品が良かった。私も魚眼レンズの使い手なので分かるが、上手い使い方である。非日常的な歪みのある画面なので、普通の部屋の中なのに、少女の歌が神話的な詩のように感じる。

光の庭は使われることが少ないスペースだが、今回はちゃんと展示してある。
和田礼治郎《禁断の果実》。
ブドウの木が植えられていて、果物がアクリル板で挟まれ宙に浮いているように見え、狭い空間だが、上空へと視線が向かう気持ちの良さがある。
挟まれた果物は変色しているので、腐敗するのに任されるだろう。最初は瑞々しくて美味しそうな果物も腐っていく。会期の最初に見た時と印象は違っているはずである。展示期間中に作品が変化するのも面白いアイデアだと思う。

最後の展示室にあった作品、毒山凡太朗《Long Way Home》。
3.11の原発事故で強制的に家を奪われた少女が、家に戻って草がぼうぼうに生えて様変わりした庭で草を刈っていく。時々舞台女優のごとく思いを発する。避難指示が解除されたとしても元の家に戻るのは難しい。場所は残っているが住むのは難しい。

クリーンエネルギーだとかCO2削減の切り札だとか言ってみたところで、ひとたび重大な事故が起こればその周囲には甚大な被害が及ぶのに、それをクリーンと呼ぶのはどうなのか。除染したといっても完全に除去するのは不可能であり、これからどんな影響があるのか分からないからそこに住むのは躊躇われる。


原発事故を想定して避難計画がどうとかやっているが、現実としてすべての住民が避難することは不可能だし、ひとたび事故が起これば住む地域は奪われる。そこまでのリスクを負ってまで原発を動かさなくてはいけないのか。利権のために深刻な被害を与えた人々(与える可能性のある人々)を無視しているのではないか。
核兵器を持ちたいという、想像力に欠けた人たちが一定数いるようだが、現代の核兵器は強力過ぎて使えない代物である。他の抑止力を探ってはどうか。

作品を観ていろいろと考えを巡らすのも良いと思う。

他にも様々な作品があるのだが、全部について書いていると長すぎるのでこの辺にしておく。


リニューアルオープンして訪れた方々はどんな感想を持ったのだろうか。リニューアル効果が落ち着いて固定客がどれだけ残るだろうか。

 

本展は6/18まで。