動物達の死について書きます。

記憶はありますが、記憶障害の中には動物の多過ぎる死が関係する事も多いので、記載します。

苦手な方は見ないでください。

低波動で重いエネルギーの記憶です。

 下記動画で音を聴きながら、

 もしくは読み終わったあとに聴いてみて下さい。

 波動回復に役立てば幸いです。 

 

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祖父の代は、戦争経験者です。

 

私が小学校の頃

片目がえぐれたおじいさんが、

杖をつきながら、ヨロヨロと散歩していました。

入学当初は、

それが戦争で受けたものだと知らなかったので、

遭遇するのが凄く怖かったです。

しばらく経ってから、

その人が戦争で片目を無くしたこと

家族から「子供達が怖がるから散歩しないで」と何度も言われてると知りました。

分かりやすく怖がっていた私は、

悪い事したなぁと思い、恐怖は消えました。

でもそれを知った頃にはもう、おじいさんを見ることはありませんでした。

 

高校の塾の先生は、

満州から引き上げてきた時、まだ小学生でした。

そのクラスメイトを探し出した人が、

中国で同窓会を企画したから行ってきたんだと、

話してくれた事がありました。

クラスメイトの苗字が中国名に変わってて

その時初めて、日本人じゃなかった事を知って驚き

そうか、そうやったんか

と友達の肩を叩く仕草をした時、

先生は顔をしかめ、感情が出ないようにぐっと堪えたので、

私はそれを見ないように目をそらし

「そうやったんですね〜」と

そんなたいして興味ないそぶりをしました。

 

興味なさそうな私を見て、

先生は我にかえったのか

そうや、

日本の苗字を名乗るようにされてたんや

驚くやろ、と。

そして授業はいつもどうり始まりました。

 

それは授業が始まる前の、簡単な雑談でした。

少人数クラスだったから10人居ないぐらいで、

もう席について授業開始を待っている子もいた。

先生も再会できた事が嬉しくて話してくれた事。

 

日本名を名乗り、日本語を強要された人達がいた事はなんとなく知っていました。

でも日本人の子供達は当時みんな知っていて、

わかった上で一緒に授業を受けていると思っていました。

その子供達の気持ちなんて、

一度も考えたことはありませんでした。

 

歯を食いしばり、感情を抑え込もうとするその顔は、

悲しいとか、悔しいとかそんな単純やなくて

色々な感情が混ざっていました。

下手な言葉をかければ、崩れそうだった。

 

だから何も知らん、聞いとるんかもわからん、

そんな態度で

それがその人の心から過ぎ去るまで、

何もせず、ただ一緒にそばにいる。

 

そして大丈夫そうになったら、

何事も無かったように離れ、元いた場所に戻る。

 

私は戦争体験の共感はできない

 

どんな想いで

あの時代を生き抜いてきたのか

 

もし話してくれる機会があれば、

ただそれを黙って聞き、時間を共有する。

話すことで、少しだけ楽になる事もあるから。

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夏休みの登校日は

長崎から原爆生存者のおじいさんが、

語りべとして来ていたりしていました。

 

初めて戦争教育を受けた後、

先生が

みんなのおじいちゃん、おばあちゃんも経験者やけど、

戦争については聞かないで

話せない人も多いから、

もし、おじいちゃんおばあちゃんが

自分から話してくれる時があれば、

その時、聞けばいい。

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気になった私は家に帰り、

「おじいちゃん戦争行ったん?」

と母に聞きました。

台湾かどっかに行ってたみたいやけど、

おばあちゃんからチラッと聞いただけで、

母も詳細はわからないとのことでした。

 

大きくなって、

母の実家(神奈川県)に行った時、

母方の祖父は、戦争で貰った賞状と武器のようなものを飾っていました。

それとは対照的に、

父方の祖父は、戦争に関するものは一切ありませんでした。

公務員をしていたようですが、

戦後、父が産まれた頃にはもう農家になっていたようです。

 

長い転生の中で、私達は沢山の戦いを経験し、

大切な人を目の前で無くした人もいるでしょう。

でも私は、今回の戦争がどんなものだったかを知らない。

 

そして農家に育ったにもかかわらず、

その厳しさ、日々どれだけの手間がかかっているか、

生業にするという事が分かっていませんでした。

だから作物が壊滅的に食べられても、

隣のハウスにはいっぱいあるから別にいいと思っていました。

 

当時うちは、苺も栽培していました。

ハウスの組み立てもパイプ1本から始まって、

骨組みが出来れば、大きなビーニールを張り、

昼間は気温が上がるので側面のビニールを窓のように上げ、夕方は下げる。

台風がくれば飛ばされないようにビニールを切り、

過ぎればまたビニールを貼り直す。

作物の水やりもあって、家族全員で長期旅行はしない。

できるだけ農薬を使わずに育てようとしても、

ハダニの大量発生などで使わざるおえない。

人が入る程の大きなバケツに大量に農薬を入れ、

それを全てのハウスに撒いていく。

他にも色々育てていたので、本当に大変だったと思います。

 

前回の投稿で話しましたが、

うちの畑の側にはエノミの木というのがあって、

現在はだいぶ切られていますが、

当時は大きく枝を伸ばし、

その実を食べる鳥が沢山来ていました。

 

そして、その木の隣にも苺ハウスがありました。

木にいた鳥が、苺に気づき食べはじめます。

一度味を覚えた動物は何度も戻ってくるので、

ネットを張っても、それを破って入ってきてしまうと言っていました。

そしてネットがあるので、中に入ると簡単には外に出られない、ちょっとした罠のようになっていました。

あれだけ鳥がいて、被害額も相当だったと思います。

 

まだ幼稚園生だったある日、

私は祖父について行って、そのハウスに行きました。

そこには鳥が沢山飛び回っていました。

祖父は動物を捕まえるのが上手く、

入ってすぐに小鳥を捕まえ、逃げないように両手で覆いました。

小鳥の顔だけが見えている状態で私に見せてきたので、私は鳥を触らせてもらえるんだと嬉しくなって、手をのばしました。

すると「こいつが苺を食うんや」と説明が始まって、

「いいか、地面に叩きつけて首の骨を折る」

そう言った瞬間、思いっきり鳥を地面に叩きつけました。

鳥は動かなくなりました。

そして次の鳥、また次の鳥と、

どんどん捕まえ、地面に叩きつけていきました。

私は目の前の光景に、ずっと固まっていました。

(当時は恐怖を感じると動けなくなる子でした)

 

うちは農家だから

幼稚園でどんなに「動物さん可愛いね」なんて言ってても

作物を食べた時点でそれは害獣、処分対象になる。

一度味を覚えた動物は、また戻って来てしまうから、

最終的には殺すしかなくなってしまう。

熊じゃないからニュースにもならないけど、それは昔から当たり前に行われていること。

 

しばらくして我に帰り、

まだ助かるかもしれないと、3羽目の鳥を両手で持ち上げました。

 

手に、かすかな温もりを感じました。

鳥は薄目を開けてやっと息をしていましたが、

もう助からないのは明らかで、私はそっと元の場所に戻しました。

 

そして祖父に向かって

「もうやめて!」と泣きながら叫びました。

でも祖父は「こいつらが食うんじゃ」と、とても怒っていて、聞く耳を全くもたず、鳥を追いかけていきました。

私では止められないと分かり、そのまま逃げるように家に戻りました。

 

その後も祖父は鳥を殺し続け、

鳥の死体を片付けず、放置していました。

それを母が毎回集めて片付けていたらしく、

母から祖父に「やめて」と言っていたようですが、

やめる事はありませんでした。

私は、もうそのハウスに近づかないようにしていました。

 

不思議だったのは、

うちの敷地で死んだ動物は祖父がいつも処分するに、

怒りのためか、その鳥だけは放置していたことです。

 

人は多面体、

優しかった祖父の切り替えスイッチが何かは分からない。

でも時に人は、どうしようもない経験がトラウマとなり、

そのストレスに耐えきれず、どこか別のところで発散する時がある。

それがたまたま、動物だったのかもしれない。

 ______

うちには飼い犬もいました。

それは小学校で日曜学校に行っていた時、

保護者の一人が教会のそばで雨に濡れた犬をみつけたらしく、飼える人を探していました。

そして「今犬飼ってないなら、飼いなよ」と

半ば強引な感じで、勧めてきました。

私は母に電話し、了解を得て家に連れて帰りました。

それまでも、野良犬を何度か飼っていたものの、

だいたい1年もしないうちに、首輪を付け替える時などに逃げていきました。

どうせすぐ逃げるだろうと、ちゃんとした躾はしませんでした。

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ただ、今まで逃げた犬が戻ってこなかったのは、

彼らに見つかって川に流されていただけかもしれませんが

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私は、以前飼っていた犬の散歩で

引きずられて怪我をした経験から、

犬の散歩をすることはありませんでした。

 

小学校5、6年は飼育委員でしたが、

それは友達に一緒にやりたいと言われたからでした。

毎日、動物達を小屋から出し散歩をさせるタイミングで掃除したり、放課後もいろいろ世話をしていました。

でも、飼い犬のことは全く気にかけず、エサもお母さん任せでした。

 

あまりに散歩につれて行かないので、

小学校高学年か、中学入ってぐらいの時に、

祖父が運動も兼ねて散歩に連れて行くようになりました。

でも躾をしていないから、犬は自由に走ろうとする。

すると祖父は、思いっきり長い棒で犬を殴ります。

痛めつけられた犬の叫び声が、周辺に響きわたります。

中学校から帰る途中、遠くで犬の叫び声が聞こえたので、

まさかと思うと、祖父が散歩していました。

それだけ遠くまで声は聞こえていました。

でも私は散歩に行くことも、殴るのを止めることもしませんでした。

 

その犬は、昔ニワトリ小屋だったところに繋がれていました。

今思えばその場所は、お米の乾燥機の排気口で、

乾燥機は大きな音をたて24時間稼働&排気し続けるので、

稼働中はきつかっただろうと思います。

 

ある晴れた日、

二階からおりて一階の母屋に入ろうとした時、

ふと右をみると犬が寝ていました。

いつもと寝方が違ったのか、なぜか無性に気になって、そのまま小屋まで行きました。

 

そして私はいつか見た白い犬のように、

その側に立ち、またその死骸をじっと眺めました。

口を少し開け息絶えていて、

見ればすぐ死んでいるとわかるものでした。

 

ーーーー

何でまた最後に私なのかは不明です。

連れて帰ったのが私だったからか

それとも

殴られているのをいつも見て見ぬフリして、

止める事もなく、感情のスイッチを切り

考える事を放棄していた私を恨んだか。

ただ、助けて欲しかったのか。

 

(※QHHTで過去世を見た時、

私は男性で、長い杖を持ち

死んだ魂を送る術を使っていました。

もしかしたら、そういう役割というか魂の特性みたいなものが、今世でも発揮されているのかも知れませんが)

 

 

ミサの後、日曜学校がある子供達だけが残るから

あの時間はもう、ほとんど人が帰ってしまっていて

他に飼い主は見つからなそうでした。

だから単純に、助けようと思っただけ

でも命を飼う事がどういうものか

全くわかっていませんでした。

 

何度も戻ってきたこの犬は、

ひどい環境と知りながら

黙ってまた自ら首輪を付けられていました。

 

大切にされないとわかっていたのに

自らここに居ることを選んだ

 

自由を求め、何度も逃げ出し

その度に一人では生きられないと諦め

戻ってきた

ここに居れば、エサだけはでるし、

外には虐待を楽しむ、もっと酷いのもいる

 

私は、もう動物の死に慣れていたし

とり憑かれたり、留まらせないように

死骸を見ても絶対に同情したり、感情を強くださず

できるだけ無の状態になるようにしていました。

だから謝る事もないし、

涙はもちろん、悲しむことさえない。

全ては仕方ない事、今回はむしろ遅かったぐらいだ。

私は助ける事はできないし、しない。

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私はいつも通り

祖父に犬が死んでいると伝えました。

死体をすぐ埋めれなかったのか、

穴を掘るのに時間がかかったのか、

単純に祖父の優しさか

犬にブルーシートがかけられていました。

 

前回、地元に帰った時に母が、

家のすぐ前の畑にその犬を祖父が埋めたらしいが、

場所がわからない。と父に話していました。

祖父は絶対に目印を立てません。

本当に綺麗に埋めます。

私も場所は全く聞いていなかったので、

そんな近くに埋めていた事に驚きました。

 

祖父は晩年、

痴呆がひどく夜間に徘徊するようになりました。

家の中でも迷子になり、

障子を破っていたので父が声をかけると

「わしは今、竹やぶの中にいたんじゃ」と話していたそうです。

そして夜中の2時に「すいませーん」と

近所の家の前で大声を上げたりしていたそうです。

 

最後に見たのは施設に入っているときでした。

エレベーターが開くと、逃走防止にエレベーターの入り口を塞ぐように会議室の長テーブルが置かれ、それを手で押して

エレベーターから出るようになっていました。

そこに入居している老人だと、それは動かせない重さという事でした。

ベッドにはセンサーが付いていて、夜徘徊するとわかるようになっていました。

ちょうど食事時なので、終わるまで遠くから見ていました。

まるで幼稚園の食事風景のようでした。

隣のおばあちゃんは、一人で嬉しそうに話していて、

祖父は、隣を見ないものの、はにかむように笑っている感じで静かに食べていました。

かろうじて母の事だけ覚えている程度でした。

父が小さい頃に死んだひいおじいちゃんを、今も生きてるように話したり、一番下の叔父さんの嫁になってくれないかと私に言ったりもしました。

お別れの時、祖父は私の手をずっと嬉しそうに握っていました。「もう行かないと」と言っても、私の手を離さず引っ張るそれは、今思えば私の息子がするものと同じでした。

「また来るけん」私はそう言って手を離し、車椅子から離れました。

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それが最後でした。

私達は、葬儀には出ていません。

葬儀はすぐやるから帰ってくるなと、

母に前々から言われていました。

姉も反論せず、誰も帰省しませんでした。

 

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