くも膜下出血発症が2018(平成30)年3月16日夜。

破裂中大脳動脈への開頭クリッピング術が2018(平成30)年3月17日14時から約5時間。

あれからもう1年経ったんだな…と。あっという間に過ぎ去っていきました。

その中で、状況に戸惑い、理解し、受け止め、受け容れ…と、時が流れていきました。

もちろん、1年経った今もなお、受け容れきれず消化しきれない状況や思いもありますが、

焦っても良いことはないので、その時が来るまでは未消化の思いたちを眠らせておこうと思っています。

 

当初、主治医からは「一生寝たきり。意識も回復せず事実上植物状態かも。行先も療養型の病院位」と言われていた母も、

今では会話も出来て、自力で問題なくスタスタ歩けて、どこにも目立った麻痺は残らず、食事も自力で摂れるようになっています。

損傷自体が珍しいという海馬も両側損傷してしまったことにより、家族の記憶もろとも全て吹き飛ぶだろうと言われていましたが、

実際には家族の顔と名前も一致し、中学高校時代の友人の方のお顔とお名前も問題なく一致する状態に。

ただし、短期記憶は1分と持たないですし、長期記憶については過去6年分位は吹き飛んでいるらしいということが

今までの会話で分かってきましたけれども(^^;)

でも、それでも良いんです。

当初の絶望的な主治医の見解を、全てといって良いほど覆してくれたのですから。

妹とも度々話しています。「生きてるだけで丸儲け」とはこのことだねと。

発症から1ヶ月半程経過し、そろそろ回復期の病院に転院しなければいけなくなった頃、

母がようやく言葉を発せるようになったのです。

その頃に面会に行った時、母の口から看護師さんに語られた言葉に泣きそうになったのを覚えています。

『(この子は)長女の○○です』と。

言葉を発せている…!家族の記憶がある…!と驚き過ぎて、一瞬フリーズしてしまったのですが(笑)

 

結局その後、家のことや親戚との兼ね合いもあり、

発症・手術から1年経った今でも、母を家に戻すことは叶っていません。

家族として、娘として、母に何をしてあげられたのだろう…。

もっと何かしてあげられることがあったのではないか…。

そんな思いが頭を過ぎることがしばしば。

でも、それはそれで良いのだと思うことにしました。

きっとベストな選択をしていたとしても、必ず一度は頭を過ぎる思いなのだろうから。

 

くも膜下出血に対するリハビリによる機能回復が期待出来るのは、受傷後~1年以内までの間だと回復期の主治医から

説明されました。

半年後までは回復期にいたので毎日3時間程、しっかりリハビリ出来る環境にありましたが、

回復期を退院し、現在のサ高住に移ってからは、リハビリからはすっかり遠のいてしまいました。

もう機能回復は期待出来ないかもしれないけれど、それでもと、自治体の障害者センターが実施している、

高次脳機能障害向けの通所リハビリの見学に近々母を連れていってみることにしました。

 

一番症状が重い時に認定調査に来ていただいた時についた、要介護4の認定も来月で切れてしまいます。

おそらく、今の状態ではついたとしても要介護1あたりだろうなと。

今後、現在のサ高住に置いてもらえるとしても、費用負担が変わってくるでしょうし、

母の言動が、サ高住の運営上問題だと、今以上に思われてしまったならば、

別の行先を探さなければいけなくなるでしょう。

 

先のことは未知数。

それでも、妹をはじめ、周囲の方々の力を大いに借りながら、

その時出来ることをやっていくだけだと、1年経った今改めて思ったのでした。

全ての皆様に最大限の感謝を込めて…。

およそ1週間前。

母の部屋に掃除用具を届けに施設に行ったところ、ケアマネさんに声をかけられた。

 

ケ『お母さんのいらっしゃらない所でお話ししたいことが…』

 

なんだろう…。嫌な予感がする。

 

ケ『実は最近、お母様の問題行動が続いていまして…。今すぐというわけでも、いつというわけでもないのですが、このままだとここを退居してもらわないといけなくなるかもしれません。折角ご縁があってのご入居だったので、安全第一で対応させていただきますが…。』

 

ああ…。嫌な予感が的中してしまった。

ケアマネさんによると、他の利用者さんの車椅子を押し始めてしまったり、トイレ介助を始めてしまったり、他の利用者さんの服用後のお薬袋をゴミだと思って捨ててしまったり…と他者に対する勝手な行動が目立つのだという。

現に、勝手なトイレ介助により、介助された利用者さんが転倒しかけたという。

 

母は受傷前まで保育士として勤務していたこともあって、「人のために」という気質が受傷後の今も残っているのだろう。

母本人はきっと、よかれと思ってやっている行動。

それを、利用者さんや職員の方々に注意されてしまう。

母は『なんでそんな言われ方をしなければならないの。(このやり方で)いいのよ』との態度をとったという。

そりゃあそうだよな…。母の立場に立てば立つ程切なさが増す。

 

施設側のリスク管理や運営を考えると、母の一連の行動は問題。

そんなことをぼんやりと考えると同時に、回復期リハ病院にいた時に度々言われたことをふと思い出す。

 

『お母さんの「人のために」という気質を活かしていければ』

 

今のサ高住さんでも、母に対して色々な手伝いを振っていただいていて、とても良くしていただいているが、それも限界にきているのかもしれない。

 

本当にこういう事態が起こるたびに思う。

施設に預けられたら終わりではない。むしろ始まりなのだと。

これは全件母からの着信の数。それも1日の。

※あくまでも多い日の数だけれども。

 

発症前、母はスマートフォンを使用していた。

母には友人知人が多かったため、利用料金の面だけを考えてすぐに解約してしまうのは得策とは言えないと考え保留していた。

回復した時のリハビリの道具になるかもしれないとも考えて…。

とはいえ、オプションを解約してもなお、利用せず放置していただけであるにも関わらず利用料金が月に1万円超かかっていたため、格安SIMを提供している会社さんに乗り換えることに。

現在のサービス付き高齢者住宅に移った頃(2018年10月頃)、MNP転出手続きを済ませ、新しいスマートフォンを母のもとに置いてきてみたのだった。

(らくらくホンのように、必要最低限のトップ画面にカスタマイズ出来るアプリを入れた上で)

 

母は『スマホ使ったことないから使い方分からないよ』(記憶が飛んでいる)と話すのだが、いざスマホを触らせてみると、手指が使い方を覚えているのか、某黄緑のメッセージアプリを開き始めたのだった。

 

そこからしばらくは母から何の連絡もなかったのだが、年末あたりになって突然、電話が来始めるようになった。

電話とメッセージアプリが使えるようになったことそのものは、とてもすごいことだと思う。

ただ、その電話が時間帯と回数問わず、ひっきりなしにかかってくるようになってしまったのだ。

それこそ、夜中の2時3時あたりにかかってくるのは当たり前。

こちらが着信音で起こされてしまい寝不足になってしまうため、就寝時はマナーモードに。(アラームが鳴らなくなってしまうのは困るので、サイレントモードにはしなかったが…。)

 

母は今日が何月何日か何曜日何時何分かが分からない。

確認すれば把握出来るが、それをしようとしない。

※回復期リハの時は、日付と曜日とその日の予定とその時間を自由に貼り替えられる小さなノートを首から下げていたが、サ高住に移ってからすっかりやらなくなってしまった。ノートが重いのだという。

ならばと、100均の材料で、日付と曜日を変えられるツールを作り卓上に設置したのだが、こちらの日々の声かけなくしては全く変える様子もなく。声かけをしても「変えたよ!」(実際には正しい日付と曜日に変わっていない)の一点張り。

だから、今が相手に電話をかけても良い時間帯なのかどうかも分からないというわけだ。

ただ、本能のままに、「暇だから」「眠れないから」と電話をかけてくる。

その結果が着信履歴73件である。

 

妹のもとにも祖父のもとにも電話が入っているとのことで、「これは困ったな」と総員の意見が一致。

『8時〜22時までの間は電話OK。それ以外の時間は電話NG』と、決めたルールを大きく書いて、母の部屋の卓上に置いて来た。

しかし、結果として何の効果もなかった。

そのルールを確認する習慣と日付曜日時間の感覚がないからである。

あとは、遂行機能障害と社会的行動障害により、行動や衝動を制御することも難しくなってしまったから。

 

仕事から帰る途中で改めてスマホを確認した時に、この着信履歴(=伝言メモの数)を目の当たりにすると、仕方がないと思う一方でげんなりしてしまう自分がいるのもまた事実。この前は、必要な伝言を確認するまでに20分かかってしまった。

『◯◯でーす。電話くださーい。待ってまーす。』(仕事中約3分おきに同内容)

『夕飯食べたから寝まーす』(夕飯後数分おきに同内容)

大体がこの2パターン。伝言が聞こえた瞬間に削除ボタンを押す単純作業を繰り返す羽目に。

さて、家族としてどのように働きかけ、声かけをし、補助ツールを作ったら良いものか。考えあぐねてしまう。

18時過ぎ。

母の入居しているサービス付き高齢者住宅(サ高住)の職員さんから電話が入った。

 

『お母様が16時30分頃に散歩に出かけると言って外出して以来戻って来ていない。

警察にも連絡を入れて探してもらうことになった。』

 

いつかはあると思っていたこの手の連絡。

予想していたよりも早い段階で起こってしまったなあ…と天を仰ぎため息一つ。

厳密には認知症とは異なるのだけれど、それでも記憶障害で短期記憶はもたないし、

長期記憶で残っているのも、土地勘のあるかつての自分の実家なのだろうから、ここは母にとってはまるっきり新天地なのだ。

サ高住への帰り道が分からなくなってしまうのも当たり前なのだけれど…。

 

20時30分過ぎ。

サ高住の職員さんから再度電話が入った。

サ高住の代表取締役が通りかかったコインランドリーの中で、暖をとっていた母を発見したとのこと。

…とりあえず無事に見つかって良かった…。

ただ、サ高住の職員さんをはじめとする多くの皆様にご迷惑をおかけしてしまったなと。

認知症の高齢者の徘徊対策として、靴に入れるタイプのGPSとかあったりするけれど、いよいよ母にも導入すべきだろうか…。

妹と2人で本気で悩んでしまった。

 

みまもりの目がある場所にいたとしてもこのような状況になってしまう。

「自宅では尚のこと面倒をみられないね…」

「なんならその自宅も売却されてしまう予定※だから、そもそも母の帰る場所がなくなるんだけれどね…」そんな会話を妹とぽつりぽつりと。

※母が倒れて約2ヶ月後、同居の祖父も肺炎球菌性髄膜炎で倒れ、高次脳機能障害を負いました。それに伴い独居が困難になったため、祖父の税金や相続対策を早々にしてしまいたいからなのか、叔母が祖父母宅の売却を強硬に進める形となった経緯があります。

どこかに預けたら終わりではなく、自力で面倒をみる場合と比較して負担が軽減するだけだということを再認識した出来事だった。

2018年(平成30年)3月16日19時頃、私の携帯電話に母の勤務先の保育園から連絡あり。

お相手は園長先生。

 

『お母さんが園内の階段で座り込んでいたところを同僚の先生が発見してくださり、

今救急車の到着を待っている状態。

こちらからの呼びかけに対し、「ウーウー」と唸っている状態で

正常な受け答えが出来ていない。ろれつが回っていないようだ。

また救急車に乗って搬送先が決まったら連絡しますね。』とのこと。

 

数分後、再度園長先生から来電。

『救急車が到着し、ようやく搬送先が決まった。(数件空きがなく断られていたそう。)

◯◯病院です。私が同乗していきます。』とのこと。

同居の祖父(母方の祖父なので、母の父親にあたる)に、母の救急搬送と行き先の病院を

知らせ、詳しい状況が分かったら連絡をする旨を伝え、急いで母の搬送先に駆けつけた。

 

母の搬送先の病院へ向かっている最中に救急隊の方から来電。

『お母さんの既往とか、最近おかしな状態が見られたことはありませんでしたか』

との質問だった。

「インスリンや服薬はしていないが、2型糖尿病。高血圧は服薬中。

 尿路結石は何回かやっていたはず。

 あと知っているのはうつ病・パニック障害・盲腸くらい。

 おかしな状態と言えば、1ヶ月程前に、仕事から帰宅し着席した直後に突然、

 身体が前のめりになりろれつが回らなくなった時があった。

 数日後に近所の脳神経クリニ ックで頭部の画像を撮ってもらったようだが、

 何の所見もなかったようだと母本人が話していた。

 日頃の激務やストレスによる一時的なものだったのかも。」との内容を手短に伝えた。

 

病院の救急口から入り、園長先生と合流。

母は処置室で処置と詳細な検査をしてもらっている最中とのこと。

救急車の中では救急隊の方からの問いかけに対し、答えられていた時期があった様子。

吐き気があったようで、倒れる直前に食べた夜食のおにぎりを嘔吐したとのこと。

 

看護師さんが必要書類(同意書等)への記入を求めてきたため応じながら、

園長先生とともに検査結果や病名が告げられるのを待った。

 ※母の勤務先の保育園では翌日が卒園式であったにもかかわらず、

 園長先生は日付が変わった後も最後の最後まで一緒に話をきいてくださったのだった。

 

処置してくださった先生から告げられた病名は『くも膜下出血』。

想像していたよりも大きな病名で、一瞬頭が真っ白になった。

 

当然、このまま入院になること。再出血があれば次は命の保証はないこと。

再出血を防ぐために破裂した大動脈瘤の根本をクリップでとめる手術をすることになること。

そんなことが次々と説明されるのを耳にしながらも、現実味が全く持てず、

半ばパニックに陥りながらも、自分がしっかりしなくて何とすると自分を奮い立たせた。

 

まずは同居の祖父に連絡。次に母の妹である叔母に連絡。

そして、迷いに迷って、別居中で明日保育園の卒園式を控えている

(しかも卒園児のクラス担任である)妹に連絡をした。

事の重大さとあまりにも急すぎる話に誰もが絶句した。

妹も理事長にかけあって、卒園式が終わり次第すぐに病院に駆けつけられるようにすると

言ってくれた。

 

入院書類に署名捺印をしていった。

安全上のことを踏まえて、ベッド上拘束や抜管等を防ぐためのミトン着用等への同意もした。

事が一刻を争うだけでに、母に内心謝りながらも。

 

面会と大動脈瘤クリッピング手術をするための同意書記入のために、

翌日10時30分に再度病院に行くこととなり、この日は一旦帰宅することとなった。

 

「また明日も来るからね。仕事終わりで疲れていただろうに急なことで大変だったね。

ゆっくり休んでね。おやすみなさい。」

特別にSCU(脳卒中集中治療室)への入室が許可された、母の勤務先の園長先生とともに

鎮静剤で眠っている母に一声かけてから帰路についた。

気が付けば、日付が翌日に変わっていた。