紀州文化の会 「あがらの和歌山 気になる和歌山今昔物語―第四集」読了
この本のことは新聞の記事で知った。「紀州文化の会」というところがシリーズとして出版している本でこれが19冊目になるそうだ。新聞ではその内容も紹介されていて、今回は僕が住んでいる地域が取り上げられているというので借りてみることにした。
ちなみに既刊の分は和歌山市の歴史を、風俗で切り取ったり時代で切り取ったりという編集になっているらしい。
借りた本はB5判サイズのかなり大きい本であった。電車の中で読むにはちょっと恥ずかしくなるサイズだが、まあ、羞恥心が残っているような齢でもないので相変わらず電車の中で読んでいた。300ページもある本だったので立ったままで読んでいると手が疲れるのは困りものであったが・・。
最初に和歌山市を拠点にしている経営者たちのコラムが掲載されていて、本の最後にはスポンサーらしい企業の名前がたくさん掲載されていたのでなんだか業界誌のような作りである。和歌山県知の挨拶で始まるのは県からもお金が出ているということなのだろうか?「紀州文化の会」という団体がどんな団体かは知らないが結構補助金のようなものが出ているのかもしれない。まあ、よほど和歌山に興味がある人でなければ購入はしないだろうというような本みたいだから広告収入と補助金は重要で広告主にはさらに大量に買ってもらわなければならないから冒頭のコラムということになるのだろう。
やはり業界誌的である。
本の構成は各地域を取り上げ、その地名の由来や歴史、変遷などが書かれているのだが、多分複数いるであろう執筆者が自由気ままに書いているようで同じことがダブって書かれているところが多々ある。特に雑賀一族についての記述は和歌山市全体が雑賀一族の領地みたいなものだからいっぱい出てくる。まあ、僕が読みたい部分のひとつではあったのでそれはありがたかったが。
使われている図版はパソコンのモニターの画像をそのままスマホで撮ったもののようで精細度がまちまちで字が読めないものもある。手作り感も万歳である。
また、それぞれの地域の紹介の後にはそこで営業している、もしくはしていた会社の紹介が結構なボリュームで書かれているのだが、これもスポンサー絡みなのかなと思っていたが、ある喫茶店の紹介では商標権の侵害で訴えられというようなネガティブな情報も書かれているし、閉店した店舗からはお金はもらえないしな〜と思っていたが、実はこの情報は地元に住んでいながら地名などまったく気にせず暮らしてきた僕には、あ、あそこなのね・・と気付かせてくれる情報であった。バカにも優しいように編集してくれていたのである。
内容のすべてに興味があるわけではなく、同じようなことが繰り返し書かれているのでそういうとこは読み飛ばしていくことにした。
興味のあるところだけ記録に残しておこうと思う。
和歌山市を俯瞰してみると、紀ノ川の流れが地形や町作りに大きく関わっている。かつての紀ノ川河口は僕の船が係留されている港の辺りであったという話は知っていたがこの本にはそれについても詳しく書かれている。
平安時代の紀ノ川主流は楠見付近から土入川・和歌川を流れ和歌浦へ注いでいたらしい。
西暦1000年代になると主流は水軒川に変わり、大浦へ注ぐようになったという。大浦というのは僕の港のすぐ南にある地域の名前である。
水軒川だけでなく和歌川も紀ノ川の一部であったのである。その頃、水軒の地はどんな様子であったのかというのを想像してみるのだが、この記述からすると、平安時代の始めの頃はまだ水軒は海の底であったのかもしれない。川の砂が堆積して三角州が形成されて水軒川が生まれたのであろうが、河口になったということは両側に河岸ができたということだろうから1000年前に水軒は出来上がったということだろう。そこへ人が住み始めたのはいつぐらいのことであったのか、興味は尽きない。
水軒の“お宮さん”の灯籠が造られたのは年代はわずか270年ほどだということだからそれまではただの砂浜だったのだろうか・・。妄想を巡らせるだけでもおもしろい。
その後、1495年の地震津波によって海岸の砂丘を突破しほぼ現在の流路の位置になった。室町時代に紀ノ川は今の形になったというのも何かで知ったのだが、ひょっとしたら誰かが改修工事をしたのかもしれないと思っていたけれども自然の力でそうなったということだ。
今、僕が住んでいる杭ノ瀬についても触れられているがそれはほんのわずかだ。名前の由来が、かつて入海であったことから、杭を打って水流を制したか、船の停泊場所を示したか、どちらにしても海岸線や河川に近いところであったということだが、海が広がっていたのなら和歌浦湾が大きく入りこんでいたのだろう。僕の家の東の方には小さな金毘羅宮があるがその辺りまで海岸線が続いていたのは間違いない。秋葉山や愛宕山なんかは島であったのだろう。
そして、その周辺を総称して“宮前”というが、その由来は、日前宮がある地域が宮村で、その村の前だから宮前となったらしい。すでに神前という地名があったのでそれに対抗して名付けられたというのだから見栄の張り合いということなのだな・・。たしかに日前宮の前というにはかなり離れている。
どちらにしても日前宮の影響は大きかったらしく、市内のいたるところに所領を持っていたらしい。
水軒の方に戻って、この辺りは宮前同様、全体が雑賀と呼ばれているが、その名の由来も書かれていた。奈良時代、左日鹿野(さひかの)という地名が山部赤人の歌に出てくるのが最初だそうだ。
地名の起源のひとつとして、“障処(さひか)”、“荒処(すさびか)”という、地形の険しいところを指しているとか、さひかの“さひ”を錆と仮定して製鉄に関する地名とする説があるそうで、後の鉄砲隊に繋がっていきそうな由来でもある。
その雑賀衆についてはさらに詳しく書かれている。
これは何かの文献を参考に書かれているのかどうかは知らないが、僕が信じている、浄土真宗を守るために信長、秀吉と戦ったというのではなく、足利義昭の要請で門徒と共闘しただけかもしれないということが書かれている。
また、雑賀一族が全員信長と秀吉と対峙したのかというとそうでもなく、東の方に住んでいた人たちは信長側についていたという。たしかにそんなシチュエーションの小説もあった。
一番の有名人である雑賀孫一も織田側についていて、本能寺の変の直後、土橋氏という人たちに追い出されてしまったというのである。まあ、この頃は信長の紀州攻めの後で一応降伏したあとなので孫一は織田側であってもおかしくはない。むしろ土橋氏のほうがこれに乗じて雑賀郷を乗っ取ってやろうと画策したのかもしれない。
その後の孫一はどうなったかは詳しく書かれていないが、秀吉による二度目の紀州攻めはあったわけで、そこに孫一が登場してくれないと、その子供が朝鮮出兵のあと韓国側に寝返って秀吉軍と戦ったという壮大な物語は完全な作り話になってしまう。
編集は稚拙だけれども、和歌山大好人きである僕にとってはおもしろネタの宝庫であった。
この本のひとつ前に出版された本は、和歌川の西側が取り上げられている。すなわち僕のルーツである西浜が舞台だ。これもちょっと覗いてみたい衝動に駆られているのである。


























