イレグイ号クロニクル Ⅲ

イレグイ号クロニクル Ⅲ

釣りと読書の記録を綴ります。

 

紀州文化の会 「あがらの和歌山 気になる和歌山今昔物語―第四集」読了

この本のことは新聞の記事で知った。「紀州文化の会」というところがシリーズとして出版している本でこれが19冊目になるそうだ。新聞ではその内容も紹介されていて、今回は僕が住んでいる地域が取り上げられているというので借りてみることにした。
ちなみに既刊の分は和歌山市の歴史を、風俗で切り取ったり時代で切り取ったりという編集になっているらしい。

借りた本はB5判サイズのかなり大きい本であった。電車の中で読むにはちょっと恥ずかしくなるサイズだが、まあ、羞恥心が残っているような齢でもないので相変わらず電車の中で読んでいた。300ページもある本だったので立ったままで読んでいると手が疲れるのは困りものであったが・・。

最初に和歌山市を拠点にしている経営者たちのコラムが掲載されていて、本の最後にはスポンサーらしい企業の名前がたくさん掲載されていたのでなんだか業界誌のような作りである。和歌山県知の挨拶で始まるのは県からもお金が出ているということなのだろうか?「紀州文化の会」という団体がどんな団体かは知らないが結構補助金のようなものが出ているのかもしれない。まあ、よほど和歌山に興味がある人でなければ購入はしないだろうというような本みたいだから広告収入と補助金は重要で広告主にはさらに大量に買ってもらわなければならないから冒頭のコラムということになるのだろう。
やはり業界誌的である。

本の構成は各地域を取り上げ、その地名の由来や歴史、変遷などが書かれているのだが、多分複数いるであろう執筆者が自由気ままに書いているようで同じことがダブって書かれているところが多々ある。特に雑賀一族についての記述は和歌山市全体が雑賀一族の領地みたいなものだからいっぱい出てくる。まあ、僕が読みたい部分のひとつではあったのでそれはありがたかったが。
使われている図版はパソコンのモニターの画像をそのままスマホで撮ったもののようで精細度がまちまちで字が読めないものもある。手作り感も万歳である。
また、それぞれの地域の紹介の後にはそこで営業している、もしくはしていた会社の紹介が結構なボリュームで書かれているのだが、これもスポンサー絡みなのかなと思っていたが、ある喫茶店の紹介では商標権の侵害で訴えられというようなネガティブな情報も書かれているし、閉店した店舗からはお金はもらえないしな〜と思っていたが、実はこの情報は地元に住んでいながら地名などまったく気にせず暮らしてきた僕には、あ、あそこなのね・・と気付かせてくれる情報であった。バカにも優しいように編集してくれていたのである。

内容のすべてに興味があるわけではなく、同じようなことが繰り返し書かれているのでそういうとこは読み飛ばしていくことにした。
興味のあるところだけ記録に残しておこうと思う。

和歌山市を俯瞰してみると、紀ノ川の流れが地形や町作りに大きく関わっている。かつての紀ノ川河口は僕の船が係留されている港の辺りであったという話は知っていたがこの本にはそれについても詳しく書かれている。
平安時代の紀ノ川主流は楠見付近から土入川・和歌川を流れ和歌浦へ注いでいたらしい。
西暦1000年代になると主流は水軒川に変わり、大浦へ注ぐようになったという。大浦というのは僕の港のすぐ南にある地域の名前である。
水軒川だけでなく和歌川も紀ノ川の一部であったのである。その頃、水軒の地はどんな様子であったのかというのを想像してみるのだが、この記述からすると、平安時代の始めの頃はまだ水軒は海の底であったのかもしれない。川の砂が堆積して三角州が形成されて水軒川が生まれたのであろうが、河口になったということは両側に河岸ができたということだろうから1000年前に水軒は出来上がったということだろう。そこへ人が住み始めたのはいつぐらいのことであったのか、興味は尽きない。
水軒の“お宮さん”の灯籠が造られたのは年代はわずか270年ほどだということだからそれまではただの砂浜だったのだろうか・・。妄想を巡らせるだけでもおもしろい。
その後、1495年の地震津波によって海岸の砂丘を突破しほぼ現在の流路の位置になった。室町時代に紀ノ川は今の形になったというのも何かで知ったのだが、ひょっとしたら誰かが改修工事をしたのかもしれないと思っていたけれども自然の力でそうなったということだ。

今、僕が住んでいる杭ノ瀬についても触れられているがそれはほんのわずかだ。名前の由来が、かつて入海であったことから、杭を打って水流を制したか、船の停泊場所を示したか、どちらにしても海岸線や河川に近いところであったということだが、海が広がっていたのなら和歌浦湾が大きく入りこんでいたのだろう。僕の家の東の方には小さな金毘羅宮があるがその辺りまで海岸線が続いていたのは間違いない。秋葉山や愛宕山なんかは島であったのだろう。
そして、その周辺を総称して“宮前”というが、その由来は、日前宮がある地域が宮村で、その村の前だから宮前となったらしい。すでに神前という地名があったのでそれに対抗して名付けられたというのだから見栄の張り合いということなのだな・・。たしかに日前宮の前というにはかなり離れている。
どちらにしても日前宮の影響は大きかったらしく、市内のいたるところに所領を持っていたらしい。

水軒の方に戻って、この辺りは宮前同様、全体が雑賀と呼ばれているが、その名の由来も書かれていた。奈良時代、左日鹿野(さひかの)という地名が山部赤人の歌に出てくるのが最初だそうだ。
地名の起源のひとつとして、“障処(さひか)”、“荒処(すさびか)”という、地形の険しいところを指しているとか、さひかの“さひ”を錆と仮定して製鉄に関する地名とする説があるそうで、後の鉄砲隊に繋がっていきそうな由来でもある。

その雑賀衆についてはさらに詳しく書かれている。
これは何かの文献を参考に書かれているのかどうかは知らないが、僕が信じている、浄土真宗を守るために信長、秀吉と戦ったというのではなく、足利義昭の要請で門徒と共闘しただけかもしれないということが書かれている。
また、雑賀一族が全員信長と秀吉と対峙したのかというとそうでもなく、東の方に住んでいた人たちは信長側についていたという。たしかにそんなシチュエーションの小説もあった。
一番の有名人である雑賀孫一も織田側についていて、本能寺の変の直後、土橋氏という人たちに追い出されてしまったというのである。まあ、この頃は信長の紀州攻めの後で一応降伏したあとなので孫一は織田側であってもおかしくはない。むしろ土橋氏のほうがこれに乗じて雑賀郷を乗っ取ってやろうと画策したのかもしれない。
その後の孫一はどうなったかは詳しく書かれていないが、秀吉による二度目の紀州攻めはあったわけで、そこに孫一が登場してくれないと、その子供が朝鮮出兵のあと韓国側に寝返って秀吉軍と戦ったという壮大な物語は完全な作り話になってしまう。

編集は稚拙だけれども、和歌山大好人きである僕にとってはおもしろネタの宝庫であった。
この本のひとつ前に出版された本は、和歌川の西側が取り上げられている。すなわち僕のルーツである西浜が舞台だ。これもちょっと覗いてみたい衝動に駆られているのである。
 

 

黒栁桂子  「めざせ! ムショラン三ツ星 刑務所栄養士、今日も受刑者とクサくないメシ作ります」読了

先月まで放送していたNHKのドラマの原作だ。

 

 

"ムショラン"という言葉は、著者がセミナーコンテストに参加したときに自己紹介で披露したところ非常にウケたので、以来愛用しているものだそうだ。
ドラマの方の主要テーマのひとつが、「人は果たして本当に変わることができるのか」というものであったのだが、ドラマのタイトルとも同じであるこの本のタイトルだけを見ているとそういう人間ドラマというより、塀の中と外のギャップをおもしろおかしく紹介している本のように思え、はたしてどちらが正しいのかとりあえず読んでみようと考えた。
僕は人の性根など死ぬまで変わることがないと考えているし、人は自分の心の中で考えていることしか喋らないと考えている。
犯罪を犯して服役している人たちもそれは同じであろうと思っている。だからそんな内容ならいくらかツッコミを入れてやろうと思っていたのだ。

ドラマの主人公はイタリアンのシェフからの転身であったが、本当の人は学校の栄養士からの転身だそうだ。30倍の狭き門を突破して法務技官栄養士として採用された。
非常勤の栄養士が多い中、著者は全国で20人ほどしかいない正規の公務員で女性となるとさらに珍しくなる。刑務所の職員は防犯ブザーの代わりに常に笛を携帯していて、それを吹いてしまうと何かトラブルが起こったと勘違いされてわらわらと刑務官が集まってくるというのが刑務所という所らしい。ドラマにはこんなシーンも盛り込まれていた。

本の方はやはり僕が想像していた通り著者が塀の中と外のギャップに戸惑ったり制約がある中で新たなメニュー作りにチャレンジした経験が書かれている。
刑務所での食事はすべて受刑者が懲役として作っている。著者が勤務する刑務所は愛知県にある岡崎医療刑務所というところだ。初犯の受刑者や精神疾患がある受刑者が収容されている比較的小規模な刑務所だそうだ。ちなみに、刑務所や少年院がある場所は発展するといわれているそうだ。周りが発展するたびにその住民から煙たがられて移転を繰り返すというのが刑務所の宿命らしい。和歌山市の刑務所はそうとは思えないが・・。

ドラマに出てきた冷凍コロッケの爆発やイカフライのレモン風味はこの本からの出典である。七夕の日の星型ニンジンが入ったカレーはドラマでは実現したけれども実際は企画だけで終わったようである。
刑務官の監視の方法や都度許可を得てから次の作業に入るという規則やバナナでタバコを作ることができるので刑務所では出さないということ、みりんはお酒と同じだからこれも使えないというエピソード、月に1回、献立を考える会議があるということや、受刑者にアンケートを取って意見が取り入れられるというのもドラマと同じである。提案に対して常に文句を付けて新しいメニューの導入を阻止する上司や、逆に優しい目でそれを後押しする所長は本の方には出てこない。前例のないことはなかなか許可されないというのはドラマでも本の中でも現実でも同じである。

逆に、本の方にだけ出てくるエピソードは、刑務所で炊事工場(通称“炊場”)に立てる人は受刑者の中でもエリートの部類の人たちであるということだ。エリートというのは、模範囚で暴れたり暴力的ではないということなのだが、確かに包丁を使うところにすぐにキレる人が立っていたら危なくて仕方がない。
受刑者にはランクがあって、名札の色でそれが判り、個室に入れたり職種が選べたりと待遇が変わるらしい。
調理したものの試食ができたり労力の負担率が高いので通常の食事量よりも多い食事が出されるし、残業の時は延長作業食としてデザートが出るというので受刑者の憧れの職種なのである。また、唯一、自分の創意工夫を業務に盛り込める仕事場でもある。
しかし、現在では官民共同で作られた労働場所というのができていて、ここもエリートでなければ働くことができず、刑務所間でエリートの取り合いという現象が起こっているそうだ。受刑者も異動というものがあって、希望の職種のある刑務所や資格の取れる刑務所へ移ることができるそうだ。
ドラマでは他の刑務所のご飯のほうが分量が多かったと文句を言う受刑者(この人もそんな異動を経験した人であったそうだ)が出てきたがこれは本当にあったエピソードで、著者はその異動先の刑務所の見学機会があった際、実際に計量してみて同じであったことをその受刑者に伝えたところ、そこまで行って計量してくれたことに感謝されたということもドラマと同じであった。
そのほか、残業時の延長作業食として考案されたドーナツを定番のレシピとするため苦心する話や、そこにいたるストーリーと料理は違うが主人公の栄養士が不在になった時、受刑者たちが奮起して空揚げを作り上げるという話もドラマには取り入れられていた。カップ麺の話は商品名が出てくるからなのか取り上げられてはいなかったが・・。

囚われている人もそれを監視する人も同じ人であるのでそういった交流とそれぞれの努力があるというのはなんだかホッとする。また、作業中の会話は禁止されている中でも作業をしながらつぶやくようにおこなわれることがあるそうだが、そういう交流も人間味がある。刑務官の受刑者に対する接し方もしかりである。この本にも人間ドラマが隠れているのである。
ただ、それはこの刑務所が初犯の犯罪者が収監されているところだから許されることで、本にも書けるのだろう。

刑務官の話といえば、こんな思い出がある。ちょうど今、乗り換え駅になっている三国ヶ丘駅から電車に乗ってきた中学時代の同級生のR君の話だ。
おそらくそれは働き始めて数年後のことだったと思う。僕は当時から人の顔を覚えられない性質だったからR君から声をかけてくれたのだと思う。彼が三国ヶ丘駅から電車に乗ってきたのは彼の仕事場が堺の拘置所だからであったのだが、帰りの車内でその仕事内容を面白おかしく語ってくれた。元々彼は話好きでその話し方も面白い子であった。柔道が得意だったからか、この本に登場する人たち同様、刑務官をしていた。
僕が通っていた中学校は、荒れるというところまでいかないがあまりガラの良い学校ではなかった。噂では同級生の中の二人はヤクザになったと聞いていた。そのうちの一人は何度か家に遊びに行ったことがある間柄であったのだが、R君はそのA君とその拘置所でばったりと出会ったというのである。当然だが刑務官と犯罪者としてである。お互い旧交を温め合ったと語ったかどうか忘れたがこんなこともあるんだというようなことを話していたのだと思う。もうひとつ、当時、一世を風靡してワイドショーを賑わせていた事件の容疑者がやってきたという話もしてくれた。いくらか会話をするチャンスもあるらしく、「Mさ〜ん、本当はやってるんでしょ〜。」なんて聞くと、「いや〜、僕の口からはそんなこと言えないよ〜。」なんていう答えが返ってきたというのである。
この人が拘置所にいたというので働き始めて間がない頃だったと想像できるのだが、東京で捕まった容疑者でも拘置の期間が長い人は全国の拘置所を転々とするのだということも教えてくれた。こういうことは本当は守秘義務の範疇に当たる話しだったのだろうが40年近く前のことでもあるしここに書くことを許してもらおう。彼も定年退職していることだろうし・・。
刑務所関係というのは非日常の場所であり面白話の宝庫であるというのは本当なのである。

しかし、この原作から「人は果たして本当に変わることができるのか」というテーマを導き出してあのようなドラマをよく作り上げたものだと思う。唯一それらしい表現がされているのは『相手を変えたければ、まず自分を変えるべき』という部分であったが、それとて食材の選定についてジャガイモを例にとり、従来からの選定法を変えることで受刑者たちの行動を変えることなく問題を解決するという表現で、受刑者が変われるかというものではない。レシピを中心にして色々な制約と困難を乗り越えて日本で一番美味しい臭いメシを食べることができる刑務所になりました。それによって受刑者たちも少し前向きになりました。という方がこの本の内容に忠実である。
脚本家の腕前か、プロデューサーの想像力かは知らないがあの1行だけでイメージを膨らませたのだとしたら大したものだ。出来上がったドラマが原作と違い過ぎるといって揉めることも多いそうだが、これはこれでいい出来であったと思う。それに、主演の小池栄子の設定と著者の性格のイメージがよく似ているように見えた。

どちらにしても、ドラマも本もおもしろかったのである。


 

 

ケネス・ロゴフ/著 村井章子/訳 『ドル覇権が終わるとき インサイダーが見た国際金融「激動の70年」』読了

定年退職後、ささやかな額の投資で小銭を稼ぐようになったのだが、日経平均は70000円を超えたのはいいとして、6月以降の株価の乱高下には少し驚きと怖さを感じている。3000円も上がったかと思ったら翌日には3000円下がってしまうのだから、いつかは大暴落するのではないかと思うのは僕だけではないだろう。
前々回に読んだ本はこれからが日本のチャンスだと書いてはいたが、それは常にアメリカがカジノの胴元として君臨しているということが前提だと書かれていた。確かに日本の株価はアメリカの株価の変動に追随しているように見える。ならば、日本のチャンスの前にアメリカはどうなんだという疑問と不安が頭をもたげてくる。
この本のタイトルは、この先の結末がバラ色なのか真っ黒なのかは別にして何かの答えを与えてくれそうである。

著者はハーバード大学の教授でありIMFでの勤務経験もあるマクロ経済学の権威である。この本は、著者が見てきた世界各国の金融・為替政策をマクロ経済学の視点から評価するというものだ。
タイトルにある、“ドル覇権”は今後終焉するのかしないのかということはなかなか出て来ない。確かにその通りで、サブタイトルに書かれているように、この本は、「インサイダーがみたインサイダーが見た国際金融」なのだ。未来の予測はオマケ程度なのである。
しかし、人は過去から学ぶともいうから過去の出来事も知らねばならないのである。

一応、大学ではマクロ経済学というものも勉強していたのだが、当時からそれがまったく理解できていなかったので、普通なら退屈で仕方なさそうということに加えて僕が知りたいと思うことには答えてくれそうにない本なのだが、金融政策の話だけではなく著者のちょっとした裏話で脱線させてくれるからか、それを上手く訳している翻訳家の腕前なのか、なぜだかそこそこ楽しく読めてしまう。
惜しむらくはあの時、もっと勉強しておけばよかったと40年以上の歳月の後に悔やむのである。
だから、本文については感想を書こうにも知識が付いていかないので何も書けない。
ただ、ひとつわかったことは、為替相場や政策金利というのは市場の調整機能による、いわゆる神の見えざる手によって決まっていくのではなく、たくさんの人の知識と努力によって最適に向かうように調整されているのだということだ。
そして、頭のいいヤツはその隙間に付け込んで大儲けを企むのである。
どちらかというと、頭のいいヤツの組に入ってみたいと思うのだが、そんな頭脳は持ち合わせていないのでそれを横で眺めながらおこぼれに預かるしかない。
だから、たくさんの人の知識と努力で、大暴落だけは避けてくださいと祈るしかない。

ドルは今でも世界の基軸通貨であることは間違いない。中国の元はその座を奪おうと虎視淡々と狙っているようだが、斎藤ジュンも書いていた通りそれは実現するとしても相当先の話のようである。
この本の原題は、「Our Dollar, Your Problem」という。この言葉は、1971年、ニクソン大統領が金とドルの交換を打ち切り、多くの国でインフレが高進し、物価を安定させるすべが見えなかったとき、当時の財務長官ジョン・コナリーが言った、「ドルはわれわれの通貨だが、(ドルの変動)はあなた方の問題だ」から取られている。これが基軸通貨としての強さを物語っていて、アメリカはいつまでも胴元なのだということを約束している。確かに世界の景気はアメリカ次第だ。トランプ大統領はそれを意のままにもて遊んでいるように思える。

結局のところ、運を天に任せてビクビクしながら投資を続けていくしかなさそうである。おそらく、そんなに世の中甘くはないのだろうが、ほとんどの投資家は人間の行動に深く根付いた習慣を変えることはできなくて、『グローバル金融危機がおきたそばから、「今回は違う」というストーリーが次から次へとこしらえだされ、今日では経済学者はインフレ発生のしくみをよく理解しているから、インフレはもはや懸念すべき問題ではない。』と考えている。目下のところ、僕はそれを信じるしかないのである。

しかし、アメリカの債務残高をみると、この先10年以内に、ドルは世界の基軸通貨の座から降りることになるだろうと著者は考えている。その理由は、現在のアメリカの債務残高はGDP比で120%を超えていて、その利率が今後上がっていくようなことがあればアメリカの財政は破綻してしまうかもしれないからだ。それでいうと、日本のその比率は200%を超えているらしく、それでも株価は上がっているのだからアメリカはまだまだ耐えられそうにも思える。しかし、問題は利率だ。国債の利率が上がるということはその国は信用されなくなってきたということと同義である。
アメリカ国債の10年物の利率は現在4%弱で、1980年代の12%台に比べるとはるかに低いがその傾向は高くなる方向に向かっているそうだ。(日本は高くなってきたとはいえ3%に届いていない。)この利率はインフレ傾向が強くなると高くなるそうだがアメリカのイラン攻撃以来世界的なインフレが続いている。FRBはついこの前まで政策金利は利下げすると言っていたが今では利上げのほうに傾いているという。
戦争という特殊な事情があるにせよ著者の予測の通りになっている。なんといっても、著者は2008年のリーマンショックを言い当てたというのであるからマクロ経済学が解らなくても説得力がある。そうなってしまってもやはりドルは私たちの問題であって、アメリカは安泰なのだろうか・・。それは僕にはわからない・・。

僕は自分の人生の幕切れは70歳だと思いこんでいるので、なんとか10年、アメリカが元気でいてくれればおそらく僕は逃げ切れたということになる。
しかし、著者のいう“10年”というのが微妙過ぎる。この本の執筆時点で10年だというからもうその刻限は8年を切っている。僕の人生は間違いなく運のない方向に向かう傾向がある。例えば、電車の中で、僕の隣に座る人はかなりの確率で体臭と口臭が臭く、僕の座席の目の前に立つ人はかなりの確率でベラベラしゃべるか、スマホに爪を立てカタカタ音を立てる・・。
できれば、「今回は違う」という人たちが正しくあってほしいものだが、よほど注意深く観察していても結局すっからかんとなってしまそうだ・・。。
この本がそれを救ってくれる救世主であったのかどうかは8年後に判るのである・・。


 

 

場所:水軒沖

条件:中潮8:12満潮

釣果:サゴシ 1匹

 

住金一文字で飲ませ釣りが始まったらしく一度行ってみたいとも思うのだが、おそらく僕の腕前ではまともに魚を釣り上げることはできそうにない。それに加えて、庭のバジルがものすごく大きくなってきたのでこれを使わねばならない。毎年、こんなに大きくはならないのだが叔母さんにもらった合成肥料を時々撒いてやっていたらものすごく大きくなった。

 

 

大きくなりすぎて自分の体を支えきれなくなったらしく、3日ほど前の風で倒れてしまった。まさしくハーバー・ボッシュ法の威力のすごさだ。地球の人口を倍増させただけではなくウチのバジルも2倍にしてしまった。会社に行かねばならないので庭に置きっぱなしになっている脚立で支えて休日を待った。

バジルを使った料理の定番はトマトソースだが、これに合うのはやっぱりサバだろう。というふたつの理由でチョクリ釣りに出ることにした。天気もいまいちで、午前8時には雨が降ってくるという予報だったので勝負が早いチョクリ釣りはちょうどいいのである。

 

その前に今年もそろそろカブトムシの季節に突入したはずなのでいつものポイントに行ってみた。今年で4年目。過去3年の状況を顧みるとどうも隔年で多かったり少なかったりするようだ。その法則でいくと今年は裏の年に当たる。確かに、木を見に行ってみると、カナブンしかいない。

 

 

やはりこの法則は当たっているようだ。僕が欲しいわけではないが、待ってくれている人がいるので残念である。来週見に行っていなければ今年の調査は終了である・・。

 

そんなことをしていたら出港は午前4時半を回っていた。

 

 

双子島沖を目指し、水深40メートルを超えたところから仕掛けを下ろし始めるが魚探の反応もアタリもない。もうすぐ午前6時、このままではボウズになってしまう。

 

 

ここで粘っても埒が明かないだろうと考え、菊新丸さんがいつも浮かんでいる等深線がグッと折れ曲がった場所へ移動することにした。

ここも反応がない。そういえば、LINEでメッセ―ジが入ってくるシラス屋はシラスがいないので出漁を週1回にすると送ってきていた。餌がないのでアジもサバもどこかに行ってしまったということだろう。ああ、トマトソースはパスタを和えるにしか使えなさそうだと思っていたらふいにアタリが出た。

おお、菊新丸さんはやはりいい場所を選んでいる。しかし、この魚はアジサバではなさそうだ。かなり引く。久々の釣行になると段取りをすべて忘れてしまっていて、クーラーボックスを差し込んだ荷台には固定用のゴムを巻くのを忘れて家を出てくるし、ナイフや鈎外しを出しておくのを忘れて港を出ていて、この時点ではタモを出しておくのも忘れていた。竿を置いておいてタモを取りに前のデッキに出て再度やり取りを開始すると、魚がゴミに変身してしまったか、魚の引きが感じられず重みだけしかない。なんだなんだとリールを巻いていると上がってきたのは幹糸にからまったサゴシであった。絡まったおかげで枝素を噛み切られずに済んだようだ。

 

サバではないがこれもトマトソースで料理できそうだ。

これ以上やっても魚は釣れそうにないので午前6時半に終了することにした。

 

家に帰ってバジルを折れたところから切り取りトマトソースを作る。塩をして小麦粉を振りかけたサゴシを焼いて周りにトマトソースを配置し、同じく肥料のおかげで大きくなっているネギを散らして完成。トマトソースには市場で買った謎の調味料と醤油を添加してみたのだが、これがかなりマッチしてコクが増している。これは定番料理になりそうだが、謎の調味料は常に手に入るわけではないのであと数回しか作れないのが残念に思う味わいであった。

負け戦は負け戦だがこの味で了としておこう・・。

 

 

場所:双子島沖

条件:大潮4:09満潮

釣果:ボウズ

 

ここ2週間、週末ごとに天気が悪い。一昨日の金曜日はふたつの台風が刺激した梅雨前線のおかげで5時間かけての出勤となった。昨日も朝から雨模様で、このままだと小船にはひと月近く乗らないことになってしまう。

少しは動かしておかないと性能維持が危ぶまれると思い無理をして船を出すことにした。

 

「タコは梅雨の雨を吸って大きくなる。」という、僕には無縁のことわざがある。少なくとも世間はタコのシーズンなので何年も釣っていないタコを狙いに行ってみた。

住金一文字の周りが本命場所なのだろうが、台風通過後のうねりが怖いので双子島の沖に行くことにした。ここは昔、父親がよくタコを釣っていたところなのでまったく望みがないということではない。

 

とはいえほとんど期待はしていないので朝は限りなくゆっくり出てきた。

 

 

今日は営業しているだろうと思っていた渡船屋は休業していて、不安が募る。またゴミが大量に出ているのだろうか・・。まあ、小船なら簡単に回避できるとバイクから降りると少し沖の方では川鵜が何やら大物をゲットしている。無人の港ならではの光景だ。獲物が大き過ぎるのか、一口では飲み干せないようで咥えたまま沖の方へ遠ざかって行った。

 

 

家で画像を拡大してみると獲物はアナゴのようであった。それはきっと飲み込み辛かったであろう。見たところ、ゴマアナコのようなのだが、復活してきているのならまたカゴを仕掛けてみたいものだ。

 

港内はかなりの濁りだが双子島まで来ると水は澄んでいる。

 

 

潮の流れも穏やかで仕掛けは流れ過ぎず底を取れている。形而上的には釣れそうな雰囲気だが形而下では誘い方が間違っているようである。そんなに簡単に釣れる訳がないのである。

そうこうしているうちに想定外の雨が降ってきたのでこれ幸いと撤収することにした。

アオサギにとってもこの雨は想定外だったようで、ねぐらに帰ることもできなかったか護岸の凹みで雨宿りをしている。

 

 

典型的な梅雨空である。

 

 

斎藤由香 「猛女とよばれた淑女―祖母・齋藤輝子の生き方―」読了

2028年上期の朝ドラのタイトルとヒロインが発表された。そのひとつ前の朝ドラについてはまだ発表がなされていないので、NHKの力の入れようが並々ならないということがうかがえる。
それはその通りで、脚本は宮藤官九郎、ヒロインは河合優実だというのだから当然だ。タイトルは「ほんのモキチ」という。
これはもう、「あまちゃん」の再来となるのかもしれない。まあ、「あまちゃん」のドラマ界における位置づけというのは不動のものであるから、たとえ宮藤官九郎と河合優実のコンビでもその地位を揺るがすことはできないので中興の祖ということにしておこう。
しかし、NHKは早くも河合優実を繰り出してきた。「あんぱん」のあの伝説のシーンを観たとき、この人は間違いなくいつかは朝ドラのヒロインに叙せられるだろうとは思っていたが、その時がこんなに早くやってくるとは思わなかった。すでに河合優実は引く手あまたの女優さんだから、目垢が付く前と、池松壮亮に盗られてしまう前に起用しなければとNHKが焦ったということだろう。河合優実を観られるのなら焦りでも勇み足でもなんでも構わない。

そして、そのヒロインのモデルになった人がこの本の主人公である。その人は斎藤茂吉の妻であり、北杜夫の母親である斎藤輝子という名前だ。だから「ほんのモキチ」なのだ。ネットで調べていちばん最初にヒットした本がこの本であった。
このドラマのキャッチフレーズが「朝ドラ史上最も不仲な夫婦を描く」というように、斎藤茂吉夫婦というのは相当仲が悪く常に夫婦喧嘩をしているというような夫婦であったらしい。よくそんなネタを探してきたものだと思ったが、斎藤輝子という人も実は相当有名な人であったらしい。詳しくは最後に記録しておく年譜に譲るが、4500坪の大病院のお嬢様に生まれ、幼少期からお嬢様というよりお姫様のような生活を送ってきた人だそうだ。茂吉を跡取りとして養子に迎えたあと、婚約した時はわずか9歳であったらしい。
茂吉が亡くなった後は64歳という高齢にも関わらず海外旅行に出かけ、以後亡くなる直前まで108カ国を旅したそうだ。
朝ドラのヒロインは必ず職業を持っていて、実家が裕福であっても必ず没落してそこからはい上がって幸せな晩年を送るというもの(少なくとも僕が観てきた朝ドラはそうであった。)だが、死ぬまで職業に就かずさらに生涯裕福に過ごしたヒロインというのも初めてのことではないだろうか。
性格はお姫様らしく、気に食わないことははっきり言うし、他人が自分のことをどんなに見ているかということなど気にはしない。かたや、斎藤茂吉のほうは山形の農家の三男で、小学校卒業後の進学ももままならないほど貧しい家庭の出で、加えて文学者らしく変わった性格でもあり、周りのことを気にせず、自分の好きなことだけに熱中して気に入らないことがあれば平気で妻を殴るというような人であったらしい。出自から大違いで、お互いまったく譲り合うことがないのだから衝突するのは当たり前で、どちらが悪いということはともかく、女性の側が“悪妻”と言われてしまうのが当時の世情であった。
この本に出てくる、輝子と茂吉の人となりをよく表した文章をいくつか抜き取るとこういうものが出てくる。
『親にもぶたれたことのない五体に、ふた言目というよりは、ひと言目に手が飛ぶでしょう。その時は実に悔しかったですよ。悪妻にならなければ、わたくしは生きてゆけなかったのよ。わたくしもワンマンだったし、あっちもワンマンだから、ぶつかりあうのはあたりまえでしょう。そのうえ離婚ができないんだから、悪妻になるよりしようがないの。』(輝子)
『海外でいただくインスタント・ラーメンが美味しいって話をテレビでしたら自宅にラーメンがたくさん届いたのよ。わたくし、得しちゃったのよ。』(輝子)
『男尊女卑の時代にあれだけ堂々と自己を主張した女性も珍しいね。』(北杜夫)
『我が家では私に対して“です”という言葉を禁じます。“ございます”と言うように。』(輝子:茂太の嫁、美智子に対して)
『とにかく輝子というのは天真爛漫で自由奔放。他人が自分をどう思うか、全く考えることなく、超マイペースで本当に困っちゃうんだよね。こちらは振り回さっれぱなしでね。美智子の胃潰瘍もすべておふくろのせいですよ。』(斎藤茂太:茂吉の長男)
『第二次大戦後、男どもが悄然としてる中でいきいきと活動していた。』
『輝子はお世辞が大嫌いだった。』
『茂吉は歌の創作に苦悶する。その異様な姿に辟易した輝子は茂吉と衝突し、茂吉は輝子を殴った。』
なかなか生々しくて凄まじくて面白い。そしてなぜだか憎めない・・。
そんな唯我独尊のような人だが違う一面も持ち合わせていた。
晩年、茂吉が寝たきりなったときに、輝子は一緒に部屋に寝泊まりし、来客の対応から、寝巻きの取り換え、清拭から下の世話にいたるまで、甲斐甲斐しく病人の世話をし、茂吉が死を予感して訪れた浅草観音で一緒に食べた言問団子を、亡くなる直前の輝子も望んで食べたいと言ったというようなことや、関東大震災で4500坪の病院が被災した時には陣頭指揮を取って病院と患者を守ったというようなことがあったそうだ。
自分よりも弱い立場に陥った相手には惜しみなく救いの手を差し伸べた人でもあったらしいし、茂吉に対しても尊敬の念や愛情を持っていたのだと思う。
僕の奥さんなんか、僕がピンチに陥っても絶対に助けてはくれないだろう。だから、寝たきりになっても介護をしてもらおうなどという期待は9年前には捨てている。
今ではお互い、どんな顔をして笑うのかということを忘れているのではないだろうか。
そう思うと茂吉と輝子の夫婦のほうがはるかに仲がよかったのだとも思う。

宮藤官九郎の脚本となると、こういうエピソードが喜劇に置き換わって出てくるのだろうがそれは楽しみである。河合優実はコメディも得意なのである。

と、輝子の物語は面白いのだが、書いている人の力量が低すぎる。
著者は斎藤茂吉の孫なのだが、読み始める前に略歴を見てみたら以前に、こんなくだらない本も珍しいと思った本の著者であった。あまりにもくだらなかったので記憶からも消えていた。
北杜夫やその兄の斎藤茂太も母親について書いた本を出版しているそうなので放送が始まってからそれらを読んでみようと思っている。

斎藤輝子の生涯もこの本から抜書きしてまとめようと思ったのだが、その経歴が前後左右に飛び散っているので面倒くさくなって今回もウィキペディアのお世話になった。何かの連載だったそうなのでそれも仕方がないとは思うけれども・・。

1895年12月11日に斎藤紀一郎(斎藤紀一)・ひさ夫妻の次女として東京浅草東三筋町に生まれる。戸籍名「てる子」であるが、「輝子」を多用した。姉で紀一の長女である「いく子」が3歳で死去したため、輝子が斎藤家を継ぐこととされた。なお、父紀一は大病院の経営者となっており、自宅には乳母や女中、下働きの書生らがいるなど何不自由なく育った。

1896年(明治29年)8月、守谷茂吉(斎藤茂吉)が上京し、斎藤紀一宅に寄寓した。なお、茂吉は9月に東京府開成尋常中学校に斎藤姓で入学した。茂吉は15歳、輝子は1歳。

1905年(明治38年)7月1日、茂吉が斎藤紀一の婿養子として入籍し、茂吉と内縁関係となる。茂吉は22歳、輝子は9歳。

1913年(大正2年)に女子学習院を卒業。なお、当時の女子学習院は皇族や華族出身者が半数近くを占めるお嬢様学校であり、クラスメートには近衛千代子、二荒拡子、徳川千枝子などがいる。入学時は乃木希典大将が院長であった。輝子は人力車で通学することが多かった。また、この頃父紀一が出羽ヶ嶽文治郎の面倒を見始めた。

1914年(大正3年)4月、18歳で斎藤茂吉と正式に結婚する。なお、青山脳病院珊瑚室に約20人が集まり内輪での結婚式とした。(※婚姻届の提出を失念しており、大正5年3月の長男茂太の生誕時に提出)。

茂吉との間に4子をもうける(大正5年に茂太・大正14年に百子・昭和2年に宗吉・昭和4年に晶子)。

1918年(大正7年)6月、長崎に移り住む(前年暮れより茂吉は長崎医学専門学校に教授として赴任していた)。同年10月帰京した。

1919年(大正8年)1月、再度茂吉から長崎に呼び戻される。同年5月、茂吉と喧嘩し帰京。なお、その後仲直りし、輝子は東京と長崎を行ったり来たりの生活をする。

1921年(大正10年)9月6日、茂吉が長崎から帰京する。なお、同年11月に茂吉は海外留学のため神戸港を出港しフランスへと向かった。

1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生。紀一の病院で、赤レンガの塀が道路に倒れ、屋根瓦は全て落ちた。茂吉は海外留学していたため、留守を預かる責任者は27歳の輝子だった。市中に暴徒も現れるなか、暗闇の病院内を一人で巡回した。

1924年(大正13年)7月、輝子は「私もヨーロッパに渡りたい」と自ら希望し、若い女性が一人で海外に行くなど許されなかった時代に両親を説得して渡欧。留学中の茂吉と合流し、各地を遊歴した。茂吉とともに年末に船に乗り、1925年1月に神戸港に到着、帰国となった。なお、帰国途中の12月28日、経営する青山脳病院が全焼した。

輝子は、演劇会や音楽会、映画などに出かけ、夜遅くに帰宅することも多く、父紀一や茂吉からたびたび叱責された。

1928年(昭和3年)11月、父斎藤紀一が死去。

1933年(昭和8年)11月、銀座ダンスホール事件に関連して新聞に輝子らのことが掲載された。以後約12年間、茂吉と別居生活を送ることとなる。輝子は弟である斎藤西洋の家に居候した。また、輝子は女子学習院の同窓会組織である常磐会から除名された。

1934年(昭和9年)に茂吉は永井ふさ子と出会い仲を深めるが、輝子と離婚はしなかった。

1945年(昭和20年)まで茂吉と別居生活を送っていたが、6月10日から茂吉の疎開先(山形県南村山郡堀田村金瓶)を次女晶子とともに訪れ、一緒に生活した。

1946年(昭和21年)2月12日、疎開先の上山から帰京し茂太と合流(茂吉は1月30日に金瓶から大石田町に移り住んでいた)。9月に世田谷代田に自宅を購入した。昭和20年5月25日の東京空襲で全焼した自宅や青山の病院の復興に尽力した。

1947年(昭和22年)11月3日、茂吉が大石田から帰京し、世田谷区代田の自宅に住んだ。

1950年(昭和25年)10月、新宿大京町に新築の家と病院が完成し移り住んだ。11月に茂吉も新居に移った。

1951年(昭和26年)7月初旬、破傷風にかかる。同年11月3日に茂吉が文化勲章を受章し、茂吉と茂太とともに皇居を訪れた。

1953年(昭和28年)2月25日、夫茂吉が死去。

1960年(昭和35年)9月に中近東、イタリア、ドイツ、オランダ、イギリス、フランスに行き、北極回りで帰国した。なお、海外渡航は自由化されていなかったため、「外国の精神病院の視察をする」という名目で渡航承諾を得て、ヨーロッパの美術館巡りなどを楽しんだ。

79歳で南極旅行の最年長記録に並んだ[3]ほか、エベレスト登山(標高4300m付近まで)など極地を含む世界各地を遊歴。海外旅行は108か国におよび、旅行家とも言われた。85歳でジンバブエに訪れている。

1984年(昭和59年)12月16日に死去した。享年89歳。


「ダンスホール事件」では、新聞のゴシップとなり、女子学習院の同窓会から除名されたが、一言も弁明することがなかったことや、輝子の気風の良さを表す、戦時中にダイヤモンドを大量に供出したが済んだことは仕方がないと過去にはこだわらなかったというエピソードは間違いなくドラマの中で取り上げられるだろう。
そのほか、年譜の中にもドラマのネタになりそうなエピソードがたくさんある。
逆にこの本の中に出てくる著者の思い出話は茂吉が亡くなった後のものばかりなのであまり使われることはなさそうだ。

そして、オープニングは間違いなく、実際出演したことがあるという「徹子の部屋」のシーンから始まるだろう(始まってほしい)。もちろん黒柳徹子役は満島ひかりだ。そしてナレーションはこの本の著者でもある輝子の孫役をする誰かになるだろう(文才は別にしてせっかく読んだ本なのでそうなってほしい)。
どちらにしても今から楽しみで仕方がない。余命半年の宣告を受けるとしても2028年の4月以降にしてもらわなければと切に願うのである・・。



 

 

齋藤ジン 「世界秩序が変わるとき 新自由主義からのゲームチェンジ」読了

かなり売れている本らしい。そのとおりで確かにおもしろい本だ。著者はアメリカで活躍する、ヘッジファンドをはじめとするプロの資産運用者に助言をするコンサルタント会社の共同経営者だそうだ。トランスジェンダーを公言している人でもある。

本のカバーの裏には、こんな文章が書かれている。『日本は今、数十年に一度の千載一遇のチャンスを迎えている。東西冷戦後の世界秩序を支えてきた「新自由主義」が崩壊し、勝者と敗者がひっくり返る“ゲームチェンジ”が起きている。』
この本の初版は2024年12月に出版されているので、原稿はそれより数ヶ月前に書かれているはずだが、2026年の今、著者の予言のとおり株価で見てみれば日本は再びかつての強さを取り戻しつつあるように見える。そしてまた、防衛装備品の輸出や先端技術の開発や投信の面でもヨーロッパや東南アジアの国々から注目を集めている。
果たしてそれは本当に日本が勝ち組に返り咲きつつある兆しなのかどうかということが書かれている。そして、この本を読めば、この先、何を買えば小遣い稼ぎを続けていけるかということがわかるかもしれないと思いながら予約の順番を待っていた。
 
世界は今、新自由主義の時代から大きく転換しようとしている。そこに日本が再浮上するチャンスがあるという。
新自由主義(ネオリベラリズム)とは、政府による市場への介入を最小限に抑え、自由競争こそが経済の効率化と発展をもたらすとする経済思想・政治理念である。1970年代以降、米英を中心に主流となり、世界的な潮流となったものだ。 
少し近代史のおさらいをしておくと、1930年代までの世界は自由放任主義が世界の主流であった。世界恐慌を経験した世界は不況から脱出するため政府主導で景気浮揚策を講じる。アメリカではニューディール政策、日本では市場拡大のための満州侵略がおこなわれた。
この、「大きな政府」という政策は第二次世界大戦を挟み1970年代まで続く。この時期におこったスタグフレーションをきっかけにして政府は極力経済政策には関与せず市場に任せるという「小さな政府」に転換する。規制緩和による自由競争の復活である。イギリスではサッチャー首相、アメリカではレーガン大統領が1980年代におこなった政策がそれに当たる。日本では少し遅れて小泉総理がおこなった郵政民営化がそれに当たる。
「大きな政府」の時代、日本は空前の好景気の時代を過ごすのだが、これには冷戦構造が関係している。アメリカは冷戦構造の中、地政学的な理由で日本をソ連との間の盾として利用すべく戦後復興を急がせた。
貿易面、安全保障面で大きな優遇措置を受ける中、日本人の勤勉さも加わったのが高度経済成長であった。
しかし、冷戦構造が終わりを迎えると、今度は経済的なライバルとして日本を見るようになる。プラザ合意による円高誘導や半導体の輸出規制などにより日本では円高不況が始まる。僕はちょうどその時に社会人になった。
日本銀行はその打開策として公定歩合を引き下げたが、それがパブル景気を生み出す。そして1991年、バブル経済が崩壊し暗黒の30年が始まり今にいたる。
僕のサラリーマン生活はまさにこの期間であり、この本にはその間のベア率の推移のグラフが掲載されているが、ほぼゼロで推移しているのを見ると確かに苦しい生活を強いられてきたよな〜と納得する。
著者は僕とほぼ同じ年齢らしく、バブル時代、日本の都市銀行に入社したあと、行内の慣行と生ぬるさに愛想を尽かしアメリカに渡ったという。どんどん負け組になってゆく会社にしがみつくしか生きる道がなかった僕とは大違いである。
著者は、日本の失われた30年を外側から見てきたことによりこの本に書かれているような、日本が再び勝ち組に踊り出るチャンスが来たことが分かるという。

新自由主義が終わりを迎えることになったきっかけは、2008年のリーマンショックである。自由競争による格差の拡大と市場の自己調整能力への信頼が揺らいだことによる。そして、コロナウイルスによるパンデミックもさらにそれを加速させた。アベノミクスも高市総理の責任ある積極財政も新自由主義からの転換である。
今回のアメリカによるイラン攻撃もある意味、それが正しかったとは思わないが、政府(というか、アメリカ次第ということだが・・。)の意向次第で世界の経済はどんな状態にでも変えられると言う事を示したと考えてもいいだろう。 

そして、地政学的な変化と日本の労働環境の変化がこの転換点において日本にチャンスをもたらすと著者は考えている。
地政学的な変化とは中国の台頭のことを言っている。ソ連が解体し冷戦が終わったあと中国は世界の工場として成長を続けたが、それがアメリカに対する新たな地政学リスクとなってきた。台湾問題や東南アジアへの進出は確かに脅威だ。中国は超高齢化を迎える人口動態やエネルギー資源を海外に依存していること、先端技術開発がアメリカに対してかなり遅れていることなどから大きな脅威とはならないと予想されるがそれでも世界第二の経済大国として世界の覇権を狙っている。
著者の予測では、中国の現実と理想のギャップから来年、2027年には台湾有事が勃発するかもしれないとのことだが、アメリカとしては冷戦時代と同じく、日本を盾にしてそれらを回避したいと考えている。だから、冷戦時代のように日本に再び体力を付けさせねばならないと考えているのである。この本の出版時点ではまだ、高市総理は誕生していなかったけれども、高市総理の台湾有事発言はまさしくそれを言い当てている。高市総理の勇み足だったというよりも念頭にはそういうことがあったからの発言であり、国民民主の長妻さんもそういう懸念があったからの質問であったとしたなら、著者の予測は正しかったのだ。
もうひとつは日本の労働環境の変化だ。失われた30年は、言い換えれば労働者の雇用を守るための30年でもあった。世界では労働力の流動性というのは当たり前だが、日本では終身雇用が高度経済成長を支えたという神話があったので労働者の生産性を落としてでも雇用を守ったのである。だから、僕のような働かないおじさんもクビにならずにすんだのであるが、僕がそういう環境から抜けてしまったように、30年の間にゾンビ社員は消滅し、逆に人手不足という状況が生まれ、労働者の価値が高くなってきた。これを、「ルイスの転換点」という。ゾンビ社員を一掃するためにこの30年があったのだというのはなんとも皮肉であるが自分の来し方を振り返るとまさにその通りではある・・。
ここ数年のような新卒社員が売り手市場となっていることがそれを示している。
今後、労働者の希少性が高まる中、日銀が徐々に金融政策を正常化することによって、市場メカニズムを通じて労働者の雇用の適正化をさらに推し進めることになる。日本企業を全体としてみると貯蓄超過なので、穏やかな金利の引き上げによって経済全体がおかしくなる可能性は著しく低い。一方、金利が経済に戻ることで、自然淘汰として、金利が払える企業、賃金が払える企業が希少資源である労働力を確保していくので経済の足腰が強くなる。これもまさに今週、政策金利の引上げがなされたばかりだ。
これらはすべて、日本にとっては新自由主義から大きな政府への転換がもたらす恩恵なのであり、「市場が一番よく知っている」から「政治家が一番よく知っている」という前提の経済政策が進められてゆくということだ。
さらに、諸外国にはない、日本における政財官のウエットな関係は、新しいルールのもとでは武器になるのである。高度経済成長期に護送船団方式や奉加帳方式のなれ合いで経済を回してきたことが奏功し始めるというのである。
そして、日経平均はとうとう70000円の大台に乗ってきた。実感はともかく、数字の上では著者の言う通りに日本経済は盛り返している。出版から2年足らずの期間、ゾンビ社員の一掃を含めてここまでは著者の予測はすべて当たっている。
反面、ここまで急激に株価が高くなるとバブルの時のようにいつかは崩壊するのではないかと怖くなるのだが、著者の言葉を信じるとこれはまだほんの入り口に過ぎないということになる。
著者の言う事を信じるかどうかは結局、自分で決めねばならないのだが・・。

こういった大胆な予測を立てられたのは著者がトランスジェンダーであるからこそであると自身が語っている。
既存の価値観や慣習に囚われていたら本当の流れは見えないというのだが、そういったことを交えて進められる論は読んでいてもおもしろい。

実生活にはあまり参考にならない古代や中世の歴史は大河ドラマと歴史探偵と英雄たちの選択に任せて、こういう近代史を学校で学ばせるべきである。
そういう意味で、期待以上の内容であった。

 

 

荻野恭子 「世界の粉物とスパイス料理 荻野恭子のシルクロード・食のぐるり旅」読了

新聞の書評欄か何かでタイトルを知ったのだが、まずは、この本の値段を見て驚いた。300ページオールカラーでたったの税込み2200円だ。本の値段というのは一体どうやって決まるのだろうと不思議になってくる。著者が学者でなかったり有名
人でなかったりすると安く設定せざるを得ないのだろうか?それとも逆に、コスト回収が容易なほど販売数が多いと踏んでいるのか…?もしくはレシピ集というのは元々価格が安いものなのだろうか?しかし、レシピ集といっても、ユーラシア大陸のシルクロード沿いで食べられている家庭料理というかなり特殊なカテゴリーだからこれを読んで片っ端から作ってゆくにはかなりハードルが高そうだ。価格の謎を残したままページを開いてゆく。
次に驚かされるのは著者の行動力だ。
1975年から取材の旅を始めて中国から地中海まで、冒頭に年譜が書かれていたがどれだけの回数渡航してどれだけの国を巡ったのか数えることも面倒になるほどである。本の最後の部分には70ヵ国以上を巡ったと書かれていた。
著者がこれほどまでにシルクロードの粉物料理に魅せられた理由は、1964年の東京オリンピック開催時に、世界から出場した選手たちの民族衣装を見たことと、中学生の時に食べたロシア料理がきっかけだったそうだ。それ以来、お金を貯めてはこれらの国々に出かけて行ったという。スパイスについては粉ものの料理を追いかけている間に密接に関わっているのがスパイスだということがわかってきたので調べ始めたそうだ。
著者は現在71歳だそうだ。僕よりも10歳ほど年上ということになる。僕も1970年の大阪万博の時、はじめてインド人を見て感動したが、彼らの生活を見に外国へ行こうとは微塵も思わなかった・・。

ロシアにも餃子があるというのはテレビのバラエティ番組で見たことがある。ペリメーニというらしいが、この本を読んでいて気付かされることは、粉物については国が変わっても基本的な製法にそれほどの違いはないということだ。
ユーラシア大陸の内陸部は米が作れないからこの辺りが原産の麦が主食になっているのだが、それを消化がいいように粉に引き、それを平たく延ばしてそのまま焼けばナンやピタパンになる。平たいパンはお皿の代わりにもなっていたそうだ。こういった料理は発酵具合と名前が違えどもほとんどどの国にもある。発酵具合も家庭料理なら適当だ。
もっと薄く延ばして中に具を詰めれば餃子になる。これもロシアに限らず色々な国にある。具のほうはそれぞれの国で手に入る食材とスパイス、ハーブが異なるのと宗教の違いで色々変わるがそれ以外は茹でてタレを付けて食べるかスープの具にするかもしくは揚げるかの違いだけである。基本形は同じである。

日本に暮らしていると、“粉物”というとたこ焼きとお好み焼きで、あとはうどんと蕎麦だが、小麦粉を緩く溶いて具と混ぜてから焼くという料理はこの本には出て来ない。練り加減も発酵具合も気にしなくていいから楽につくれると思うが、これはきっと、小麦を主食にしない民族独特の食べ方なのだろう。

料理法が共通しているというのは、シルクロードを通して食文化が伝播したという証左であるが、そうやって、ある意味、根っこは同じであるにも関わらず国々は諍いを繰り返している。
ウクライナもロシアもイスラエルもイランもアメリカも、餃子を食べて平和を語ればいいのである。(まあ、アメリカ人に餃子は似合わないと思うが・・)
イランは世界のサフランの7割を生産している国だそうだ。今回の戦争ではスペインも大分迷惑を被っているに違いない。

この本のレシピの特徴は、1食で食べきる量として使う小麦粉を150グラムで統一し、現地でよく使う中力粉に当たるものが手に入りにくいので薄力粉と強力粉を75グラムずつ使っていることだ。
これを水で練るかミルクや卵で練るか、イースト菌を入れるか入れないかどれくらいの時間寝かせるかですべての粉物料理のベースが出来上がる。
あまりにも単純なので本当にこれで大丈夫かと思えてくる。
ピザの生地は昔よく練っていて、それなりに食べられるものが出来上がっていたが、餃子の皮については何度やっても王将の餃子のようなものは出来上がらなかった。
そこにはきっと経験と技術が物を言う秘策があるのであろう。
小麦粉の扱いが難し過ぎるということと、多数あるスパイスを取り揃え必要に応じて使い分けるというのはやはり難しい。
料理を作るというのは、やっぱりことさら難しいというのがよく分かる一冊であった。



 

 

山本昌宏/監修 「ニュートン先生の対数講義」読了

 

図書館の新刊書の書架を物色していた時、この本を見つけた。

対数というのは僕の数学に対する向学心を玉砕したもののひとつだ。他にも行列、数列、確率といっぱいあるので対数だけが戦犯というわけではない。すべてが敵であったのだ。

そして、「明日は受験だ。何の準備もしていないのにどうしよう・・」といまだに出てくる悪夢の元凶でもあるのだ。

ほかにもややこしい数学はあったけれども、微分や積分はもとから文系には手に負えないものであったので学校としてもほんのさわりの部分しか学習させなかったので逆に優しい存在であった。

 

この本の表紙を見てみるとなんだかバカな人にも優しそうな感じがしたのでこれを読めば積年の恨みを晴らせるかと思ったが、たかだか2時間足らずで読み終えてしまえる本では敵討ちにもならなかった。

 

対数というのは指数とは表裏の関係になっているのだそうだ。そして、対数は、1594年ごろ、スコットランドの数学者、ジョン・ネイピアによって考えられたもので、当時の、いわゆる大航海時代、海上での船の位置を割り出すために天体観測を元に複雑で膨大な計算を行う必要があったものを簡単に計算するために考案されたものであったそうだ。

ちなみに、指数というのはピタゴラスの定理が紀元前に考えられたように古くから知られていたが、a3というような表記法を考案したのは17世紀、デカルトである。

 

のちに常用対数に進化してゆく対数表を使い、複雑な掛け算を足し算に変換するという画期的な計算方法は、天文学者の寿命を2倍にしたとも言われているらしい。

ここまで読んで、対数というのは関数のひとつであると思いこんでいたのだが、これは数式、もしくは数値のひとつであったということがわかった。これは僕の大きな勘違いでありミスであった。塾で講師をしていた頃、関数の分からないやつは関数と数式の区別ができないんだなどと偉そうなことを言っていたが僕自身がそうであったのである。

そして、対数とは掛け算を足し算に変換するものなのであるということを認識しながら問題に挑んでいたのだろうか、先生はそんなことを教えてくれていたのだろうかと昔のことを思い出していた。まったく記憶は残っていないのだが、もし、そういうことを教えてくれていたら、もしくは理解していたら、もう少し点数を取ることができたのにと悔やまれる。

もっというなら、ギターのネックについているフレットは先端に向かって1.06倍ずつ幅が広がっていて、弦の長さが1.06倍になるごとに半音ずつ下がってゆく仕組みになっていて、これは、弦の長さが2倍になると1オクターブ下がるという決まりを12の音階に分けているから(1.0612≒2)で、均等に分けられないのは”何倍”で音階が変わるという法則があるからというようなことを導入部分として教えてくれていればもっと興味を持って学べたかもしれない。まあ、結局はよくわからないまま終わっていたのだろうが・・。

他にも、これらは何かの本で読んだことがあるが、貝の渦巻きや台風の渦も対数で計算でき、「対数らせん」と呼ばれていたり、地震の規模を表すマグニチュードも対数であるというようなことや、指数は絶対的な数値だが、対数はどちらかというと基準の数値のどれだけの倍数になっているかという相対的な数値になっているというような、こういったトリビアをしっかり教えてくれていたらやはりもっと点数を取れたのではないだろうかと悔やむのである。

 

 

 

預金の利息計算からはネイピア数(e)というスイスの数学者ヤコブ・ベイヌールが発見した定数もある。これも対数というものの成果である。

 

そもそも対数とは、掛け算する数と掛け算を繰り返した結果がわかっているとき、その繰り返しの掛け算の回数を表すもので、「log真数」と書く。底を何回繰り返したら真数になるかという数字を表もので、log28=3というようになる。

常用対数を使って131×219×563×608という計算をAIに実際にしもらうとこんな感じになる。

この問題は、実際にこの本の中に出てくる例題なのだが、答えを見ながらでも自分でやってみる自信がないのでAIにやってもらうのである・・。

N=131×219×563×608からスタート

常用対数を取ると

Log10N=log10131+log10219+log10563+log10608

① 各数の常用対数(小数第4位まで)は、

log10131=2.1173

log10219=2.3404

log10563=2.7501

log10608=2.7839

② 足し合わせる

log10N=2.1173+2.3404+2.7501+2.7839

log10N=9.9917

0.9917=log109.81なので

9.9917=log109.81+9

=log109.81+log10109

=log10(9.81×109

両方の対数を外すと

N=9.81×109

=9810000000

と、見事に足し算になっているのである。

 

対数にはゼロがない。それが“相対的”という、比較すべき対象が常にあるという考えにつながるのだろうが、宇宙の始まり、すなわちゼロ地点がない、もしくはわからないということにつながっているのかもしれないと思うと、人間が考え出した数値であるにもかかわらず、世界の理を言い当てているというのはこれまたすごいと思うのである。

やっぱりこの計算法を考えたジョン・ネイピアという人は天才である。

 

 

場所:加太沖

条件:中潮 3:00満潮 9:52干潮

潮流:6:47転流 10:45下り2.8ノット最強

釣果:マアジ8匹 マサバ1匹 真鯛1匹 ハマチ1匹

 

船の速度が落ちきる前に遠くへ行っておこうと思い、初島にするか加太にするか考えていたのだが、庭のプランターに植えているネギがいい感じに育ってきたのでこれはやっぱりナメロウだろうとオニアジを狙って加太へ向かうことにした。

 

 

昼間はどんどん暑くなってきているが早朝はまだまだ涼しい。綿のワークシャツのみでは少し寒い。

6時47分が転流時刻なのでゆっくり出港すればいいので、その前に今日もクヌギの木を見に行った。先週はコクワガタを見つけたが、今日は何もなし。温暖化とはいえ、やはり7月に入らないとカブトムシは出てこないのだろう。あのヒラタクワガタはいったい何だったのだろう・・。

 

結局、出港は午前4時43分になったがこれでも今日は早すぎる。

 

 

先週からのゴミがまだ残っているかもしれず、ゆっくり加太に向かわねばならないのだからちょうどいい。道中、禁断の仕掛け2号を流しながら行こうと思ったけれど、今日は下り潮狙いなので針路をコイヅキ方面に向けなければならない。そうすると住金一文字への道のりは相当遠回りになってしまう。燃料代が高騰しているこのおり、それは燃料がもったいないので禁断の仕掛けをあきらめ一路コイヅキへ向かう。

 

流木を警戒しながら1時間ほどをかけて第2テッパンポイントへ。

 

 

 

サビキ仕掛けを下ろしてみると予想どおりまだ上り潮は残っている。しかし、釣れているのかいないのか、帝国軍はおろか同盟軍もほとんどいない。

 

 

そのとおり、しばらくここでやってみるがアタリはない。

それならばコイヅキに近い友が島の南面の潮が当たるところがいいのではないかと移動してみることにした。

 

 

その予想は当たったようで、ここで真鯛が1匹ヒット。なんだかもぞもぞ、サビキにまとわりついているような不思議なアタり方であった。そのほか何度かアタリがあったのだが、取り込めたのは小さなマアジだけであった。多分、それらもアジだったのだろうが活性が低いのかことごとくバレてしまった。それでもアタリが多かったのでここでハマチを1匹確保できた。

潮が下りに転じたタイミングでコイヅキへ移動。いろいろな場所を転々とするがアタリはない。

小さなマアジとはいえ25センチはあるのでなめろうにするにはこれが1匹あれば十分なのだが、ここまできてこのサイズかと思うと残念だ。それに、この釣果では叔父さんの家にどれを持っていこうかと悩んでしまう。なんとか1匹でもいいからオニアジといえるサイズを釣りたいのだが、少し諦め気味になってしまっている。

 

潮はどんどん早くなってくるので少しずつ沖の方へ移動していく。ここで大きなアタリ。大きすぎる。多分メジロクラスのハマチだ。ここではかなりの小魚の反応があり、時々サビキにカタクチイワシが掛かってきていたのでそれに喰いついてきたのかもしれない。道糸がどんどん引き出されて55メートルまで出てしまったとき、これ以上は出せないとドラグを締めるとその反動でバレてしまった。仕掛けを引き上げてみると、糸が切れたのではなく、クッションゴムが切れてしまっていた。

 

 

輪にした部分が切れていたので劣化をしていたのだろうが、こんなところが切れてしまうとは思わなかった。逃がした獲物は相当大きかったのだろう。そして、35号のオモリがもったいない・・。

これともう一匹、目の前でサゴシを逃がすという失態があった。タモ入れまでもう少しというところで逃げていってしまったのだが、オモリを落とさなかったことだけが救いである。獲り込めていればいいおかずになったのだが・・。

 

その後、アタリが遠のいた午前8時40分過ぎ、ここは冷静に考えて潮の当たりがいいと思われるかけ上がりいいのではないかと考えて岬の突端の少し沖に移動してみた。

そして、この読みはバッチリ当たった。その後はしばらく、ひと流し1匹のペースでアタリが出る。すべてが40センチ以上あるりっぱなオニアジだ。

 

 

ひと流しでもっと釣れればいいのだが、その頃の潮流は潮流表の数値を軽く超えるほどの流れになっていた。狙うかけ上がりは1か所、水深60メートルから40メートルほどの区間をあっという間に通過してしまう。

潮流はさらに早くなり3ノットを超えてきた。底はなんとかとれるが糸ふけがすごいのでアタリがわからない。普通、アジのアタリはかなり鮮明に出るが、今日のアタリはほんのわずかしか感じられない。糸ふけが邪魔をしてモゾモゾっと感じるだけだ。少し巻き上げてやっと魚が喰っているとわかる。

もう、これ以上速くなるときっと根掛かりしてしまうと考えて午前10時半に終了とした。

 

帰り道、サゴシらしきボイルが見えたので禁断の仕掛け1号を流してみると1匹ヒット。目の前まで引き寄せることはできたがこれも目の前で反転して逃げていってしまった。最近はどうもサゴシに縁がない・・。とくに禁断の仕掛けはこれで4回連続バラシが続いている。使っている鈎が悪いのだろうか・・。今まではそれなりに釣り上げることができていたのだが・・。

サゴシとメジロは逃したものの、久々の好釣果といっていいほどの魚を持ち帰ることができたのである。