
秋葉剛史 「形而上学とは何か」読了
“形而上”という言葉はこのブログでもよく使っているが実際のところはよくわかっていない。多分、現実の世界を超えた所にある世界を統べるための法則のようなもので、具体的にいうと、エヴァンゲリオンに出てくるゼーレが決めたものみたいなものだろうと思っているのだが、そんなオタク的なものでもないだろうとも思っている。
この本のタイトルを見たとき、読もうか止めておこうかとけっこう悩んでしまった。多分、読んでも何が書いてあるのかがわからないだろうと思ったからだ。しかし、心のどこかでは哲学の基礎をなすものだという形而上学のことを知りたいとも思っているので解らなくてもいいのだという思いでページをめくり始めた。
確かに書かれていることの半分以上はやっぱり何を言っているのかがわからないが形而上学のアウトラインくらいはおぼろげながら見えたような気がした。
まず、形而上学とは、『私たち人の基本的な存在性格に関わる諸問題「この世界全体の見取り図を、その中で私たち自身の位置付けを含めて描き出すこと」を目指す分野』であるという。この辺は僕が認識していることは正しいようだ。これはある意味世界を作って回してゆくためのOSであるということだろうか・・。そして、読み終えて思ったのだが、日本仏教が釈迦の教えをいろいろ解釈してたくさんの宗派ができたように、形而上学が元になって様々な哲学者の考えが生まれてきたようにも見える。形而上学の場合、アリストテレスの時代から同時発生的に生まれてきたのかもしれないが・・。とにかく、哲学の基本中の基本であるのには間違いがない。
そして、この本では形而上学が考える主要なテーマとして6つの秩序というものを取り上げている。
①時間空間的な秩序
②因果的な秩序
③類似性の秩序
④部分と全体の秩序
⑤様相的な秩序
⑥カテゴリー的秩序
この本は各章でそれぞれの秩序とはどういうものなのかを解説してくれているのだが、とりあえずはそれぞれこういう理由で基本的なものと考えられているのだということをまとめてゆこうと思う。
第一章は性質と類似性について書かれている。
『この世界の事物は様々な性質をもち、それぞれの性質に応じて互いに類似したり区別されたりする。』という考えがこの世界の見取り図のひとつである。
それぞれの事物が持つ共通の性質というのは、ある時点で生成したり消滅したりすることのない、いわば永久不滅の何かがあるように見える。こういう考えを「不変実在論(もしくは実在論)」という。ただ、同時にいろいろな場所に同じものが存在するというこの考えは時空世界を超越した存在があるというように見える(これはプラトンが「イデア」について語っていたことから「プラトン的実在論」「超越的実在論」と呼ばれている。)。なかなかロマンがあってSF的だが少々オカルト的でもある。
第三章は因果について書かれている。
『ある出来後が生じるときにはふつう、それを引き起こした別の出来事、つまり「原因」が存在し、一つ目の出来事はその「結果」として生じる』という因果と結果という関係がある。これは性質と類似性とはまた違った意味で「秩序立った全体」になることに貢献している。
ここで、まことにやっかいなとこに、僕が高校1年の数学の授業以来、いまだに理解できない必要十分条件という言葉が出てくる。「二つの出来事の間に因果関係が成り立つときにはいつも成り立っていて(必要条件)、またそれが成り立っていれば因果関係も成り立つようになるような(十分条件)」というのが必要十分条件なのだが、これを読んだ時点でこの章はぼくには理解ができないとあきらめた・・。
因果の本質というのは「反事実条件説」というもので証明できるという。これは、「出来事aは出来事bの原因である⇔もしaが起こらなかったならばbも起こらなかっただろう」というものだが、これは僕もよくやっている、おはぎを買うと魚が釣れるという因果関係を完全に否定するものである。そう考えると、確かに因果というものはこの世界の秩序といっていいのかもしれない。
第四章は「もの」と「こと」の秩序について書かれている。
当然だが、よの中は、「実体」というもので構成されている。これは、アリストテレスに起源を持つ「実体主義」という立場である。しかし一方で、物ベースの世界観に異を唱える試みはずっと続けられてきた。この実在世界の基本単位は「物」ではなく「こと」すなわち、出来事やプロセスや事態などの存在者(哲学では何であれ一般に「存在するもの」のことを指す)であるというのである。これも言われてみたら確かにそんな気がする。自分という存在が今あるというのは様々な「こと」の経験をふまえてのものであるはずだから実体の外側には色々な「こと」がくっ付いて出来上がっているということは間違いない。
第五章は時間と様相について書かれている。
ある事物には、この世界には何らかの仕方で、現在のものごとだけでなく、過去や未来のものごとに関する事実が属しており、また、現実のものごとだけでなく、現実でありえたものごとに関する事実も属している。これは、第四章の考えをさらに拡大したもののようだ。ひとつのマグカップを考えてみると、現在のマグカップには持ち手に傷がついていたり汚れが付いていたりする。それはこのカップの歴史であり、時間が創り出したものである。「 パティーナ」というやつかもしれない。また、このマグカップには別の傷や汚れが付いたかもしれないという可能性もあった。こういった可能性は無限に存在し、それらの様相のすべてがこのマグカップの存在である。このような様々な可能性を包含した存在を規定することを可能主義という。
まあ、簡単に言うとパラレルワールドは実在してそれらすべてを包含して実体というものがあるのだということだ。
第六章、第七章はこの世界における私たち自身の位置付けに焦点が当てられている。
第六章は人の同一性について書かれている。「人は、ある一定の期間中、同じ一つの対象(同じひとりの人物)として存在し続けるもの、通時的な同一性(時間を通じての同一性)を保って持続するもの」であるという。ファンタジーやSFの世界になってしまうが、人格が入れ替わってしまった人や多重人格の人は何をもってその人だと確定するのかという問題だ。
第四章のように、人をモノとして考えるのか、コトとして考えるのかということである。
第七章は「自由」について書かれている。
私たちは自由に行動していると思っているが、それは幻想で、過去からの因果に縛られて行動しているだけであるというのである。
株価がもっと下がるのにそれを待たずに買ってしまう僕の行動は確かに何かの因果に縛られているように思うが、それは単に先が読めないだけのことで何かに縛られているという感覚はない。しかし、形而上学では「決定論」といって、私たちの行為はすべて、私たち自身がコントロールできない何らかの要因によってあらかじめ生じるよう決定されているのだという考えがあるようだ。これはリベット実験というかなり科学的な実験によって「因果決定論」や「法則的決定論」として確立されているという。
ここまでがこの本に書かれている形而上学が考える世界の秩序である。
なんだか分かるようで分からないという不思議で、しかも納得いかないような論理だが、たしかに形而上学の中でもそれぞれについてたくさんの反論があるそうだ。(肯定的な考えを「還元的モデル」、そうでないものは「非還元的モデル」という。)
たとえば、第一章の類似性に反論するのは「唯名論」である。
唯名論では性質という名前があるだけで“実在”をしているものではないと考える。
唯名論という言葉は以前に読んだ本にも出てきたが、ここではその本とは少し趣きが違うニュアンスで書かれている感じがする。
第七章などは絶対に反証があるはずだと思うが、確かにそうで、きちんと反論がある。これは、
「自由意思論」と呼ばれるもので、ある時点における世界の全状態が与えられても、その後の世界の状態が自然法則によって一意に決まるわけではないというのである。
このように、それぞれの主要なテーマのなかで定まった見解があるわけではない。
まあ、ぶっちゃけていうと、世界を統べるような秩序などというものはおそらく存在しないのだから永遠に答えは見つからないのだと思う。ただ、そう思いながらも、う〜ん、やっぱりありそうなのかなと思ってしまうところがある。
それよりも、第五章に出てくる可能性の世界や第四章の実体よりコトを優先する考えというのは現代量子論に通じるところがあるのが不思議である。量子論というのもそれは本当なのかと思えるところがあるが、実はこの理論というのは形而上学にバイアスをかけられて生まれてしまったもので、本当の世界は実はまったく違った理論で出来上がっているのではないのかと思ってしまったりする。哲学というもの自体も科学の発展とともに変化してきたというのだから互いに虚像を創りあっているだけであったりして・・
まあ、さすがにそんなことはないのだろうがどうしてもそう思ってしまうのである。