先々週行きそびれた明日香村へ今日行くことにした。
高松塚古墳の見学期間は終わってしまったがキトラ古墳の見学はまだ終わっていなくてダメ元で申し込んだらあっさり当たってしまった。当たったというより、多分、申し込めば全員OKというシステムになっているのだろう。万博のパビリオンの抽選とは大違いだ。
季節の変わり目なのか、週間天気を見ていたらどんよりした天気だ。前々日になってやっと予報が曇りに変わった。これで念願かなって巨石と日本の国の始まりの場所を見に行くことができる。ここも、死ぬまでに行きたい場所のひとつだったのだ。
朝はこの日のために買った折り畳み自転車とともに始発電車に乗って万葉まほろば線畝傍駅まで。

途中、和歌山、天王寺、王寺でホーム間を移動しなければならないのだが自転車が重い。鉄製のフレームでハンドルが折り畳めない自転車なので本来はこういう使い方をしないのであろう。それはこのあともっと身にしみて思い知らされることになる。
予定通りの時間に畝傍駅に到着。ホームで自転車を組み立てまずは藤原宮跡へ。

ここは文武天皇や持統天皇が皇居を構えたところだ。平城宮跡のように立派な建物は復元されてはいないが大極殿院南門のあった場所に柱の位置を示す印が作られている。

遠くにはコスモスの花がいっぱい咲いていたがここに来るまでに少し道に迷ったのでキトラ古墳見学の予約の時間まで1時間半を切っている。

家に帰ってニュースを見ていたらそのコスモス畑のことが放送されていてそんなに有名なら無理してもっとよく見ておけばよかったと思ったがあとの祭りである。

ここからは一路明日香村の中心街を目指す。
今日の目的のひとつがここに住むIさんを訪ねることなのである。インターネットで人と人が出会う時代、この人も海の上でしか会ったことがない。ひょんなことからこの人は明日香村に住んでいるということを知り畝傍からキトラ古墳まで自転車でどのくらい時間がかかるかということなどを教えてもらったりしていた。途中には飛鳥寺があるのでそこも見るつもりだ。
藤原宮跡から飛鳥寺まではかなりの距離がある。おまけに怪しい雲行きは本当に怪しくなり雨が降り出した。カメラ2台に図書館で借りた本がリュックに入っているのでこれを濡らすわけにはいかない。スマホと本をビニール袋に入れカメラを輪行バックの下に隠して雨の中自転車を漕ぐ。
平たい地形のように見えるが微妙に高低差がある。変速機のない自転車には辛い高低差だ。
たどり着いた飛鳥寺はなんとも小さいところであった。

元は元興寺と言ったそうだが平城京への遷都とともに移設されたので、ある意味取り残されたのがこのお寺ということになる。当時はきっと巨大な伽藍を誇っていたのだろうが夢の跡というところだろうか・・。
本尊は元祖アルカイックスマイルの通称「飛鳥大仏」で、ぜひ拝観したいと思うのだが時間がない。まあ、拝観料が必要というのもあってここをスルーして近くの首塚を見てみる。この首塚の主は蘇我入鹿で、乙巳の変で首を切られた時、その首がここまで飛んできたという伝説の場所だ。

事件は飛鳥宮で起こったので直線距離で600メートル。柳田理科雄なら人間の頭部の重さを考慮に入れてその時の初速はどうだったかと計算しそうな場所である。
600メートルしか離れていないのなら僕も訪ねて見たかったが場所を事前に確認していなかったので訪問先にはまったく候補にはあがっていなかった。残念・・。
Iさんのお店の方角に向かって走っていると酒船石の看板が見えてきた。途中に見えてくるはずだと思っていたが適当に走っていたものでこのルートが当たっているのかどうかわからなかったがそれは正しかったようだ。時間はギリギリなのかもしれないが今を逃すと帰り道に寄るのは無理だろうと考えて自転車を降りる。
酒船石は道路から300メートル先にあるという。駐車場の横にある階段を上らねばならないのだがすでにこの時点で僕の足には乳酸が溜まりつつある。しかし、ここを上らねばそれを見ることはできない。疲労に耐えながら階段を上る。あまりにもしんどいので階段の写真を撮るのを忘れてしまっていた。
始めて見る飛鳥の巨石となった酒船石は山の中に置かれた巨大な硯石の感じである。

実際、何のために造られたかというのはよくわかっていないそうだが、斉明天皇の時代、何かの占いのために造られたという説が有力らしい。飛鳥の謎の巨石と言われているものはこの斉明天皇が統治した7年ほどの間に造られたそうだ。この、斉明天皇という人は、巫女のような人であったらしく、呪術を使って政治をおこなっていたらしい。また、朝廷とはいっても日本全国を制覇していたわけではなく、東北に住んでいた先住民との交渉や朝鮮からの使節団に対して、巨石であってもこんなに自由自在に操れるのだということ誇示するためこんなものを造ったという。噴水みたいなものを造ったりもしていたらしい。
大化の改新の始まりはこの少し前であったので、飛鳥の巨石群というのは、神秘的な政治手法から律令国家という官僚組織が政治を行う時代への過渡期に生まれた最後の遺物であったと言えるのである。
しかし、権力を誇示するならもっと平らでみんなが見やすい場所に置いておいてくれよと思うものだが、当時は周りに石段が築かれていて祭壇風に見上げるような設えであったそうだ。

それはそれで威厳を持たせるためになっていたのだ。それが1400年ほどの間に山の中に埋もれてしまったというわけだ。
酒船石の前にたどり着いた時点で午前10時15分。キトラ古墳の予約時間まで45分しかない。
ここからキトラ古墳までどれくらいの時間がかかるのかはまったくわからない。とにかく先を急ぐ。
地図の上ではIさんのお店はすぐ近くのはずだ。そしてその通り1分ほどでIさんのお店が見えてきた。Iさんのお店というのは理髪店なのだが、駐車場には海なし県には不似合いなボートがいっぱい置かれている。

この人も大の釣り好きで、こんなに釣ってどうやって食べるの?と思うほどの釣果を毎回上げている。この人を訪ねた目的は秘密のタチウオ仕掛けを託すためだ。釣りの腕前は僕よりはるかに上だ。この人に試してもらえば開発のスピードが上がるのではないかと思うのである。

仕事中に押し掛けたにもかかわらず話の相手をしてもらい、キトラ古墳までの道すじも教えていただいた。ルートの指示と振る舞っていただいた麦茶の水分補給がなければ僕は予約時間に間に合わなかったと思う。
距離にして4.1キロメートル。平地ならおそらく10分ほどの道のりなのだろうが、ここからはさらにアップダウンが激しくなった。これは大きな誤算であった。変速機のない自転車に乗る還暦過ぎのホワイトカラーにはきつすぎる。キトラ古墳を前にした上り坂でとうとう足が動かなくなってしまった。自転車を降り押しながら午前11時3分、予定の時間に3分遅れで到着した。

見学開始は午前11時15分。いよいよキトラ古墳の石室壁画とご対面だ。
石室壁画で有名な古墳にはもうひとつ高松塚古墳があるが、それぞれどんな人が葬られているのかということははっきりわかっていない。ただ、高松塚古墳は皇子クラスの高貴な人、キトラ古墳は家臣クラスの人であるというのが定説だそうである。
薄暗い展示室に案内され、ご対面したのは玄武の図だ。4面全部の壁画を見ることができるのかと思ったら、1面ずつの公開なのだそうである。年に4回公開されていて、全部見ると1年で4面すべてをコンプリートできるという仕組みになっているそうだ。少しがっかりしたが、それほどの値打ちがあるものなのだろう。明日香村一帯の遺跡の量を考えると4回来てもついでにすべてを見ることはできないだろうから現実的なシステムになっているのだろう。そこは万博のパビリオン並なのである。
その壁画は想像していたものよりもかなり小さかった。幅が104センチ、高さが115センチ、玄武の図柄にいたっては横25センチ、縦15センチである。展示室に入る前に双眼鏡を貸してくれたが、確かに必要である。

石室の奥行きも2.4メートルということなので、棺桶を置くとほとんど余裕がないほどの大きさである。天井には精緻な星座の絵も描かれているそうだが、これらの絵を描いた人はそうとう窮屈な思いをしただろう。
約20分の見学を終え、キトラ古墳本体を見に行く。古墳の墳丘も石室のサイズに合わせてかなり小さい。阪和線の車窓から見える古墳があまりにも大きいのでそう思うのかもしれないが・・。

これでキトラ古墳の見学は終了。少しだけ休憩をして高松塚古墳へ。とりあえず墳丘だけを見る。ここも幹線道路から離れていて、しかも小高い丘の上にあるのでそこへ向かうだけで疲れる。これも整備された盛り土という感じなので、やはり古墳は中身を見ないと感慨はない。

その後は途中にあった持統天皇と天武天皇の墓を拝んで石舞台古墳へ。

石舞台古墳への道も坂道だ。途中からは自転車を押して登ってゆく。駐輪場までもう一息というところで一気に距離を詰めようと立ち漕ぎをしてみたら僕の足の筋繊維の何割かがプチっと切れる音がした気がした。そして数分間の間、まともに歩けなくなってしまった。こんな経験をしたのは10代の頃以来だろう。
足を引きずりながら石舞台古墳へ。

この古墳の主は蘇我馬子と言われているが、さすが天皇に次ぐ権力者。石室の大きさはキトラ古墳の比ではない。今は石が積まれているだけだが、きっと漆喰できれいに塗られて壁画も描かれていたのだろう。

これで今日の目的はすべて終わった。本当は甘樫丘にも上りたかったのだが帰りの時間が迫っているのと、なにより、もう、そんな体力が残っていない。せめて甘樫丘の麓をかすめて帰ろうと来た道とは違う道で帰途につく。途中、亀石の表示が出ていたのでほんの少し寄り道をして見学。

こういう遺物がいたるところにあるのがこの村の特徴だ。そして、こういうものと同居して暮らしている人々がすごいと思う。
そして、もうひとつすごいのが村のほとんどの場所に広がっている田んぼが耕作放棄地や宅地に転向されることもなくきちんと農業が営まれているということだ。どこを掘っても遺跡が出てくるような場所ではなかなか土地開発も進まないのかもしれないが、正統な里山がきちんと残っているのだ。
実は、1300年前の遺物たちよりもそっちの方に感動してしまったのだ。
午後1時過ぎに畝傍駅に到着。次の電車は約1時間後、近くにコンビニはないかと駅の周りをうろついて缶酎ハイを購入して電車がやってくるのを待つ。

自転車で走り抜けた距離はGPSプロッターの計算では28.432キロメートル。

帰りの電車の中では酎ハイの酔いも手伝ってずっと居眠りをしたままで自宅の最寄り駅にたどりついた。
とにかく疲れた・・。