
ゾーイ・シュランガー/著 岩崎晋也/訳 「記憶するチューリップ、譲りあうヒマワリ: 植物行動学 」読了
もう、3年ほど前になるらしいが、「NHKスペシャル 超・進化論」のシリーズのひとつで、“ おしゃべりをする植物”という回があった。植物はただじっとしたままぽつんとたたずんでいるのではなく、体内の各所が連携を取り合ったり、株同士がお互いにコミュニケーションをしながら生き残るための戦術を繰り出しているのだというような内容であったが、この本の著者はさらに踏み込んで、植物には知性に似かよったものが備わっているに違いないと考えている。
各章では、その証拠となる研究や観察の結果が紹介されている。
第三章では葉や根から化学物質を放出することにより他の固体とコミュニケーションをしている。
第四章では植物の体内では電気信号を使ってどこかで起こった異変を体全体に知らせている。
第五章では音も聴き取れるのではないかということ。まあ、これは音としてではなく、振動として感知しているということらしい。
第六章では過去の出来事を記憶し、将来に向けて対処しようとしているような行動をとるということ。何を記憶しているのかというと、ある種の植物は花に蜜を集めにくるインターバルを記憶していて、次にやってくる時間を予想して蜜をたくさん分泌し始めるという。
第七章では、動物とコミュニケーションをおこなうことによって繁殖や自己防衛をしているだけでなくさらには遊びをするように戯れることもあるのだという観察記録が紹介されている。雄しべがある種の蜂の女王蜂に擬態している花があって、それは特にお互いにメリットがあるわけではないのに呼び合っていて、遊んでいるようにしか見えない。遊ぶという行為も知性が存在する証拠だというのである。
このように、各章で取り上げたような植物の行動が知性の存在を証明しているというのである。
こんなのはもう、ほとんど動物がやっていることと同じではないかと思うのだが、著者が言うには、植物も動物も環境中に生きている。その環境に対して「行為主体性」を持って関与するのは当たり前のことで、その前では植物と動物の区別をすること自体が間違っているという。
植物には脳がないのにどうやって知性を作り出すのか。動物の知性も細胞の電気的な連携が作り出しているものに過ぎない。脳はたまたま行動しやすいように脳を作り出しただけであって、行動する必要のない植物は体全体で電気的なネットワークを作り、体全体で知性をつかさどっといても不思議ではないというのである。
“知性”の定義自体もここまでくると見直してゆかねばならないのも確かではあるが・・
著者は研究者ではなくジャーナリストだが植物に知性があるかどうかという考えについてはどうも中立ではなく、どうしても知性がある方に結論を持っていきたいようだ。取材している研究者たちも今のところは異端視されている人が多いようである。
研究者たち自身も、自分たちがそう見られていると警戒している様子で、著者は細心の注意を払って相手の懐に入ってゆく。
著者はまた、植物学の世界では植物が知性を持っているという考えには否定的な意見が多いようだが、それは学界が保守的な考えから抜け出すことができないからだと切り捨てる。「植物の神秘生活」という、1975年に出版された本は当時のベストセラーになったが、その内容があまりにも疑似科学的であると批判されたため、「植物行動学」という分野は今でも異端視をされ続けているのである。だから著者は、この本を通して植物が知性を持っているという考えの正しさを証明したかったのであろう。
植物が知性を持っているかどうかは別にして、確かに植物はじっと受け身な生き方を続けているわけではないことは確かであるというのは庭の木の面倒を見ているとよくわかる。バベの木を剪定した後は切ったところではないところから大量に新芽が出てくる。おそらくこれは、葉っぱを切られたという情報がバベの木の体中を駆け巡っている証拠だろう。
槙の木の下に生えているローズマリーは槙の木を剪定し始めると急に匂いが強くなる。おそらく、自分の周りにダメージを与える悪いやつがいると察知してなんとかしなければと考え始めたか、もしくは槙の木が周りの木に危険を知らせていて、それを敏感に受け取っているのかもしれない。
外敵から攻撃を受けた植物は防御のために様々な科学物質を作り出すそうだ。自分を食べる動物に対して毒になるものもある。ローズマリーの香りもそんな毒なのかもしれない。おそらく大概は人間にも毒になったり不味く感じるようなものだろうから、そういうことを考えると栽培種となった野菜たちは毒素を出さない固体が選び続けられた結果、雑草たちよりも虫に喰われやすくなってしまったと考えると合点がいく。実際、この本にも、植物のそういった性質を利用して害虫に強い品種を作り出そうとする研究があるということが紹介されていた。
ここら辺りまではなるほどとも思うのだが、第八章では、あるつる植物は視覚を頼りに擬態をすることで外敵から身を守ったり、安全に巻きつける植物を選んでいるということなどが書かれている。そこまで言われるとにわかには信じ難い。著者が取材した研究者によるとその植物は単眼のようなものを持っていて、見えたものと同じ形に擬態しているのかもしれないと考えているというがさすがこれはないんじゃないかと思ってしまう。別の研究者の考えでは、細菌やウィルスを使って自らの遺伝子を操作することで擬態をおこなっているかもしれないともいう。はたしてそんなことができるのだろうか・・
もっと信じ難いのは、第九章に書かれている、近親株を見分けることができるということだ、近親株同士なら、お互いの成長の妨げにならないように譲り合って枝や葉を伸ばし、逆に、赤の他人だと攻撃的になり同種であっても相手の成長を妨げるように枝や葉をつけるということが書かれていた。根から出る化学物質や光の反射を感知して見分けているという。
これらもかなり怪しいと思うが、絶対に間違っている、それは疑似科学に過ぎないともいえない気もする。もしもそんなものがあったらこれだけ機器が発達した時代の中ではすでに見つかっていると思いなからも読み進めれば進めるほどきっとそうに違いないと思い始めてしまう。僕はかなりのお人好しなのかもしれないが、全否定してしまうと、著者がいうようにその先には新しい発見はなくなるのだから右目で信じて左目で疑うくらいがちょうどよいのかもしれない。
さらに著者は、現代の環境破壊を克服する最後の手段として植物の知性に注目しなければならないと考えている。地球環境は動物と植物、そして地球そのものとが織りなすもの。だから、動物(ここではおそらく人間という意味なのだろうが、)が優位だと考える思想から離れることで地球環境は復活することができるというのである。
この本の内容が、ただの妄想かメルヘンか、それとも真実を先取りしていたのかが分かるのはもっと先のことなのかもしれない。