イレグイ号クロニクル Ⅲ

イレグイ号クロニクル Ⅲ

釣りと読書の記録を綴ります。

 

場所:加太沖

条件:中潮8:20満潮

潮流:8:50上り3.5ノット最強 12:52転流

釣果:カワハギ4匹

 

早朝、ほぼ満月の月が驚くほど明るい。僕の影が地面に映るほどだ。

 

 

この満月のおかげで一年中でも一番というくらいに真夜中に潮が引く時期でもある。今日の朝の干満差は2メートルもあった。

 

 

一昨日の夜はそのおかげで楽しいYOASOBIをすることができたが今日はそれが仇になったのかもしれない。午前10時頃までは魚探で見える速度では時速5キロくらいで船が動いていたから3ノットくらいの流れがあったことになる。完全な二枚潮ではなかったので仕掛けの操作はなんとかできたがあまりの潮の速さに魚たちもどこかに逃げ込んでじっとしていたのか、魚探の反応もアタリもほとんどなしで終わってしまった。

 

潮流が最強になる時刻は午前8時50分なので少し早めの午前6時ジャストに出港。

 

 

と言っても東の空は薄っすらと明るくなりつつはあったが・・

テッパンポイントは潮流表よりも早く流れの変化が現れるので今日は最初からテッパンポイントに入って高仕掛け一本でやるつもりである。

まずは第一テッパンポイント手前でスパンカーと仕掛けの準備をし始めたのだがスパンカーの帆を立てる作業の間だけでポイントから大きく離れていってしまっている。魚探の速度を見てみたら、先に書いたように時速5キロを示していた。

この速さではポイントの幅が狭い第一テッパンポイントではあっという間にポイントを通り過ぎてしまう。しばらくしてここをあきらめ第二テッパンポイントへ移動。

 

 

当然だがここも潮が速い。マークを着けた150メートルほどの間隔を5分ほどで通過してしまう。ここでは大概ふたつのマークを結んだ直線と平行に船が流れるのだが今日は潮の押し出しが強いのかマークの間を通過してしまう。

それでもタモを入れている人がいたのでまったく魚がいないわけではないようだ。僕にもたしかにアタリはあった。2回ビニールを引き千切られ、3回目はあっさりと枝素を切られたのでそれらは多分サゴシであったのだろう。

前回絶好調だった第二テッパンポイント下との間をさまよってみたがその後はアタリもなく、依然として潮は速いままなのでこれからどうしようかと周りを見渡すと第一テッパンポイントと田倉崎の間に船が集まっている。

 

 

ひょっとして妥協の産物の結果なのかもしれないがそちらに向かってみることにした。たしかに僕にとっては妥協の産物でしかなく何のアタリもなくカワハギを狙いに別荘前に移動。

 

 

前回の調査で、水深20メートルくらいの所に岩場と砂地の境目があるらしいとわかったのでそこを重点的に攻めてみる。

アタリはあるがほとんど鉤に乗らない。ベラやチャリコなら掛かるはずだから多分カワハギなのだろうと思うが確かにそのとおりで時々小さなカワハギが掛かるようになってきた。小さいから鉤には乗りにくいのだろう。

しかし、僕が欲しい25センチ以上のカワハギは皆無だ。テレビでは大きなサイズも釣れてはいたが・・

12時過ぎまで粘ってみたけれども4匹しか釣りあげることができなかった。これくらいのサイズなら10匹は欲しいがなんちゃってカワハギ師の僕にはこれが限界なのである・・

 

ここ数回は好調であっただけに今回の釣行から負のスパイラルに陥ってしまわないかと不安になる。年末なのだから真鯛をストックしていかねばならない。12月のスタートでのつまづきはかなり痛い・・

 

浜本隆志 「残照 開高健:詩人・牧羊子と作家の昭和」読了

 

またまた師の関連本を見つけた。去年が没後35年、今年が生誕95年という節目にあたるからなのだろうが、なぜここに来て開高健なのかはよくわからない。5年前にはこんなに連発されはしていなかったと思う。

師のことをリアルタイムで知る人が少なくなり、今のうちに書いておかなければという焦りもあるのかもしれない。

著者も直接親交があったわけではなさそうだが、谷沢永一とは関西大学の教員同士という間柄であったらしく師のことはよく聞かされていたそうだ。松下電器のOB会の会報に牧羊子に関する記事を書いたことがきっかけでこの本を書こうと思い立ったそうである。

 

先に読んだ関連本は、翻訳家と師の間で交わされた書簡をもとに構成されたものであったが、この本は妻である牧羊子との関わりが強調されたタイトルになっているものの、内容は正統な開高健論となっている。

だから、特に新しい発見というものはなく、今までいろいろな本に書かれてきた事実や推論が中心なのだが、それでも一ファンとすれば嬉しい。忘れてしまっていることも改めて思い出させてくれる。

 

著者は特に、谷沢永一から聞かされていた、「牧羊子悪妻論」は本当だったのだろうかという疑問や、逆に、「開高健」という作家は牧羊子に大きな影響を受けて、「作家 開高健」となったのではなかったかというところにも力点を置いて書いているのでこういうところは確かにタイトル通りだ。

 

師はよく、サルトルの「嘔吐」について書いている。それまでの文学の世界では、作家を目指す人びとの大部分は抒情の世界やロマン主義の世界に足を踏み入れるのが常であったのでそこは足の踏み場もないほど荒らされ入る余地もない。そう考えていた師の前に現れたのがサルトルであった。

「嘔吐」を念入りに研究した師はその後、「何を書くのかではなく、どのように書くのか」を重視するようになった。

確か、「嘔吐」を超えられる小説は今後誰も書くことができないだろうと考えた師は、“ どのように書くのか”にこだわるようになったのだと記憶している。

 

すでにサルトルのことについてよく知っていた師ではあるが、フランスの現代詩に通じていた牧羊子からさらに深くリルケやサルトルという実存主義的な文学表現を提示されたのであろうと著者は考えている。

 

また、自分を束縛しようとする牧羊子から逃れるために海外に出ることで優れたルポルタージュを書くことができたし、同じく、愛人を持つことで闇の三部作や珠玉といった優れた純文学を創作することができたのも、ある意味逆説的ではあるが牧羊子の功績であるのかもしれないというのである。

さらに、師と佐治敬三、サントリーを結びつけたのも牧羊子だったのであるからやはり開高健を創りあげたのは牧羊子だと言っても過言ではなかろうともいうのである。

 

しかし、それは師の闇の部分を作り出してしまい、また、牧羊子自身を苦悩に陥れることになるのだから小説家という仕事は因果なものである。

たしかに、牧羊子の師への執着心は尋常なものではなく、この本に書かれている、「 私の肋骨の一本である作家の亭主の家庭放棄などはまことに可愛らしいもの。」という牧羊子が残した一文を読んでいると空恐ろしくなる。

著者はこれも、戦前の良妻賢母的な教育を受けた女性なら誰もが持つであろう感覚であったはずだと納得している。たから、愛人の存在に気づいたとしても離婚を選ぶことなく必ず自分のところに帰ってくると確信していたはずだというのである。

谷沢永一が、結婚から死までの一連の出来事を受けて、7歳も歳下の将来有望な作家を誘惑してたらし込んだのだということとはかなり違っている。

たしかに、谷沢永一が書き残している、葬儀の際の言動や行動を読んでいるとオンナというのはこういうものなのかと思ってしまうところがあるが、著者はそれでも牧羊子を擁護するためにもこの本を書いたということである。

 

著者の解説では、絶筆となった「珠玉」は叙情的に書かれた小説だそうだ。僕は少なくとも2回は読んでいるが、闇の三部作の延長線上にある作品だと考えていた。

こういうこともやはり解説なり評論なりを読まないと僕の読解力では理解できない。さらに、この小説のモデルになった女性は師の一回忌の日に自殺をしているそうだ。司馬遼太郎は弔辞で、この小説のモデルは牧羊子だとわざと述べたそうだが近しい人なら誰もが別の人物を頭に浮かべることができたらしい。

牧羊子は、師を自分が看取ることで自分のもとに戻ってきたのだと考えたのだろうが、彼女の死によって再び闇を抱えることになったのではないかと考えている。さらにその4年後には娘の道子が同じ方法で自殺を遂げることでさらにその闇は深くなったのではないかとも想像している。

師は晩年、この小説のテーマにもなっている、宝石のコレクションをすることに興味を持っていたそうだが死後そのコレクションはどこかに消えてしまったらしい。おそらくそれらはモデルとなった女性のもとに行ったのではないかと考えられているそうだが、師は自分の死期と、自分の死後、周りの人たちがどうなっていくのかをすべて予見して物語を書き終えたのだとすると、それを知った上で読み直してみる必要がありそうだ。

 

たとえ当事者たちが生きていたとしてもその心の内はわからないのだろうけれども、こういうことを知った上で作品を読んでみるとさらにその奥深さを味わえるに違いない。

 

場所:水軒一文字

条件:長潮20:16干潮

釣果:グレ1匹 マアジ5匹

 

今日はダブルヘッダーである。Nさんたちは先週のエンジントラブルにもめげず今日も夜釣りに出かけるらしい。サンバソウを釣らせてやるからついて来いというので誘いに乗ってしまった。くだんのエンジントラブルの原因はガス欠だったそうだ。燃料は防波堤との往復分くらいは残っていたそうだが液面が下がったものだから吸い上げることができずにエンジンまでガソリンがいかなくなってしまったらしい。そこはもう少し余裕を持ってもっと燃料入れといてくださいと言いたいところだが、僕も人に言えたものではなく、前々回の釣行から戻ってきたらタンクがほぼ空になっていて、補給をしてみたら10リットル入れてもまだ隙間があり、こんなことでは漂流騒ぎを起こしてしまうと反省したところであった。

 

午後4時に港を出る。

 

 

サンバソウはアオイソメを使ったフカセ釣りで釣れるそうだ。電気ウキとエサはNさんが用意してくれている。至れり尽くせりおんぶに抱っこなのである。

時合は日没から1時間ほど、アジが釣れ始める頃くらいまでらしい。

 

 

僕も防波堤にあがってすぐに仕掛けの準備をして投入する。

何投目か、まだ電気ウキを点灯させる前にアタリがありグレがあがってきた。魚はいるようだ。ただ、ポイントは限りなく防波堤の横に張り出しているテトラの際なので根掛かりが怖い。借りている電気ウキを失うわけにはいかないのだ。多分、ひとつ1000円以上するはずだ。

こういうのは言い訳に過ぎないのかもしれないが、その後はアタリがなくなったのでアジ釣りに転向。

anotherNさんには確かにサンバソウらしいアタリがあって、僕の目の前でテトラの中に入りこまれてしまった。2.5号のハリスでも耐えられなかったそうだから僕が使っていた1.7号のハリスではたとえサンバソウが掛かったとしても多分獲れなかっただろう。

 

アジは前回のように楽ちんで釣れるのかと思ったらこれが全然釣れない。前回使ったヨロヨロになったサビキを使っているからなのかとも思うがNさんのほうも苦戦している。それでも僕の倍以上は釣っているが・・。

そしてこんな日は型も小さい。すべて20センチにも満たないサイズだ。その中でも少しマシなサイズだけをクーラーボックスに入れていって、10匹くらいはあるのかと思ったけれども家に帰って数えてみたら5匹しかなかった。

こんな日はみんな早く帰りたいものだ。まだ6時台だが僕が撒き餌カゴを根掛かりさせてしまったのを期にみんなパラパラと撤収の準備を始めたので今日は終了。

 

釣れた魚をみんなが僕のクーラーボックスに放り込んでくれるので魚の数としてはかなりなものになった。午後8時に家に戻り2時間ほどかけてさばき、今日は日付が変わるまでに布団に入ることができた。

夜釣りも楽しいが休日はいつも午後8時過ぎには寝てしまっている身にはこれが辛いのである。

 

場所:水軒沖

条件:長潮6:22干潮

釣果:コウイカ 3匹

 

鈴鹿市に住んでいる友人からビニール袋が送られてきた。

 

 

前回のブログにも書いたが、自力で買いに行く気力と体力がなくて彼にすがってしまったのだ。僕は沖田艦長にも玄奘三蔵にもなれなかった・・。メールで連絡を入れるとその日のうちに手配をしてくれた。1年で1枚は使わないから、これだけあれば死ぬまで戦える。持つべきものは友人である。

 

新たにビニールが手に入ったけれども今日はコウイカの調査である。

朝はゆっくり出ようと思っていたが勝手に目が覚めてしまい航海灯を点けての出港となった。

 

 

バイクの調子は相変わらずよくなくて、今朝もエンジンが始動しない。キックでもダメでウンウン唸っているとかろうじてセルが回り、なんとか家を出ることができた。バッテリーは完全に死んではいないが生死の境をさまよっているらしい。

 

今日も遠くへは行かず、先週釣れた所を重点的に調査しようと考えている。

 

根掛かりをしないように危ない所からは距離を取って仕掛けを下ろすとすぐにアタリがあった。型は小さいが今日も釣果があった。先週よりも船の流れは少し速い。もう一度アタリのあった場所に戻り仕掛けを下ろすとまたアタリがあった。どうもこの場所にイカは集まっているようだ。

このイカはゴミバケツに投入するのに失敗し、デッキの上に豪快に墨を吐いてくれた・・。こんなに吐かなくでもいいではないかと思いながらも、これがイカを釣り上げた証になるのだと少しばかり嬉しくなるのである。

 

 

三度目に戻ってみるとまたアタリ。しかしこれは誘いをかけようと竿をあおった時に出てしまったのでスッテを抱ききっていなかったらしくすぐにバレてしまった。感触からするとかなり大きな個体だったのでこれは残念だ。

バラしたことが悪かったか、その後はアタリが途絶えたのでもうひとつのポイントである元の防波堤の切れ目に行ってみるがアタリがないので再び最初の場所に移動。もう少し粘ればアタリがあるのかもしれないがほんの少しでもアタリがないとすぐに飽きてくる。

 

やはりここにはイカはいるようでまたアタリがあった。“ここにはいる”というよりここにしかいない感じだ。それでも、去年は2匹が最高だったのでこの部分だけを見てみるとコウイカは底を打ったということだろうか・・

とはいいながらその後はアタリがなくなり従兄弟に充電器を借りるため午前8時20分に終了。

 

ゾーイ・シュランガー/著 岩崎晋也/訳 「記憶するチューリップ、譲りあうヒマワリ: 植物行動学 」読了

 

もう、3年ほど前になるらしいが、「NHKスペシャル 超・進化論」のシリーズのひとつで、“ おしゃべりをする植物”という回があった。植物はただじっとしたままぽつんとたたずんでいるのではなく、体内の各所が連携を取り合ったり、株同士がお互いにコミュニケーションをしながら生き残るための戦術を繰り出しているのだというような内容であったが、この本の著者はさらに踏み込んで、植物には知性に似かよったものが備わっているに違いないと考えている。

 

各章では、その証拠となる研究や観察の結果が紹介されている。

第三章では葉や根から化学物質を放出することにより他の固体とコミュニケーションをしている。

第四章では植物の体内では電気信号を使ってどこかで起こった異変を体全体に知らせている。

第五章では音も聴き取れるのではないかということ。まあ、これは音としてではなく、振動として感知しているということらしい。

第六章では過去の出来事を記憶し、将来に向けて対処しようとしているような行動をとるということ。何を記憶しているのかというと、ある種の植物は花に蜜を集めにくるインターバルを記憶していて、次にやってくる時間を予想して蜜をたくさん分泌し始めるという。

第七章では、動物とコミュニケーションをおこなうことによって繁殖や自己防衛をしているだけでなくさらには遊びをするように戯れることもあるのだという観察記録が紹介されている。雄しべがある種の蜂の女王蜂に擬態している花があって、それは特にお互いにメリットがあるわけではないのに呼び合っていて、遊んでいるようにしか見えない。遊ぶという行為も知性が存在する証拠だというのである。

このように、各章で取り上げたような植物の行動が知性の存在を証明しているというのである。

 

こんなのはもう、ほとんど動物がやっていることと同じではないかと思うのだが、著者が言うには、植物も動物も環境中に生きている。その環境に対して「行為主体性」を持って関与するのは当たり前のことで、その前では植物と動物の区別をすること自体が間違っているという。

植物には脳がないのにどうやって知性を作り出すのか。動物の知性も細胞の電気的な連携が作り出しているものに過ぎない。脳はたまたま行動しやすいように脳を作り出しただけであって、行動する必要のない植物は体全体で電気的なネットワークを作り、体全体で知性をつかさどっといても不思議ではないというのである。

“知性”の定義自体もここまでくると見直してゆかねばならないのも確かではあるが・・

 

著者は研究者ではなくジャーナリストだが植物に知性があるかどうかという考えについてはどうも中立ではなく、どうしても知性がある方に結論を持っていきたいようだ。取材している研究者たちも今のところは異端視されている人が多いようである。

研究者たち自身も、自分たちがそう見られていると警戒している様子で、著者は細心の注意を払って相手の懐に入ってゆく。

著者はまた、植物学の世界では植物が知性を持っているという考えには否定的な意見が多いようだが、それは学界が保守的な考えから抜け出すことができないからだと切り捨てる。「植物の神秘生活」という、1975年に出版された本は当時のベストセラーになったが、その内容があまりにも疑似科学的であると批判されたため、「植物行動学」という分野は今でも異端視をされ続けているのである。だから著者は、この本を通して植物が知性を持っているという考えの正しさを証明したかったのであろう。

 

植物が知性を持っているかどうかは別にして、確かに植物はじっと受け身な生き方を続けているわけではないことは確かであるというのは庭の木の面倒を見ているとよくわかる。バベの木を剪定した後は切ったところではないところから大量に新芽が出てくる。おそらくこれは、葉っぱを切られたという情報がバベの木の体中を駆け巡っている証拠だろう。

槙の木の下に生えているローズマリーは槙の木を剪定し始めると急に匂いが強くなる。おそらく、自分の周りにダメージを与える悪いやつがいると察知してなんとかしなければと考え始めたか、もしくは槙の木が周りの木に危険を知らせていて、それを敏感に受け取っているのかもしれない。

外敵から攻撃を受けた植物は防御のために様々な科学物質を作り出すそうだ。自分を食べる動物に対して毒になるものもある。ローズマリーの香りもそんな毒なのかもしれない。おそらく大概は人間にも毒になったり不味く感じるようなものだろうから、そういうことを考えると栽培種となった野菜たちは毒素を出さない固体が選び続けられた結果、雑草たちよりも虫に喰われやすくなってしまったと考えると合点がいく。実際、この本にも、植物のそういった性質を利用して害虫に強い品種を作り出そうとする研究があるということが紹介されていた。

ここら辺りまではなるほどとも思うのだが、第八章では、あるつる植物は視覚を頼りに擬態をすることで外敵から身を守ったり、安全に巻きつける植物を選んでいるということなどが書かれている。そこまで言われるとにわかには信じ難い。著者が取材した研究者によるとその植物は単眼のようなものを持っていて、見えたものと同じ形に擬態しているのかもしれないと考えているというがさすがこれはないんじゃないかと思ってしまう。別の研究者の考えでは、細菌やウィルスを使って自らの遺伝子を操作することで擬態をおこなっているかもしれないともいう。はたしてそんなことができるのだろうか・・

 

もっと信じ難いのは、第九章に書かれている、近親株を見分けることができるということだ、近親株同士なら、お互いの成長の妨げにならないように譲り合って枝や葉を伸ばし、逆に、赤の他人だと攻撃的になり同種であっても相手の成長を妨げるように枝や葉をつけるということが書かれていた。根から出る化学物質や光の反射を感知して見分けているという。

これらもかなり怪しいと思うが、絶対に間違っている、それは疑似科学に過ぎないともいえない気もする。もしもそんなものがあったらこれだけ機器が発達した時代の中ではすでに見つかっていると思いなからも読み進めれば進めるほどきっとそうに違いないと思い始めてしまう。僕はかなりのお人好しなのかもしれないが、全否定してしまうと、著者がいうようにその先には新しい発見はなくなるのだから右目で信じて左目で疑うくらいがちょうどよいのかもしれない。

 

さらに著者は、現代の環境破壊を克服する最後の手段として植物の知性に注目しなければならないと考えている。地球環境は動物と植物、そして地球そのものとが織りなすもの。だから、動物(ここではおそらく人間という意味なのだろうが、)が優位だと考える思想から離れることで地球環境は復活することができるというのである。

 

この本の内容が、ただの妄想かメルヘンか、それとも真実を先取りしていたのかが分かるのはもっと先のことなのかもしれない。

 

場所:加太沖

条件:中潮 8:21満潮

潮流:5:04転流 9:17上り3.4ノット最強

釣果:真鯛5匹 ハマチ5匹

 

朝、家を出ようとしてバイクのエンジンをかけようとしたらセルが回らない。また故障かと思ったらストップランプのハブルが切れていた。エンジンはキックでスタートできるが警察に見つかると整備不良で切符を切られてしまう。しかし、車でいくのも臭いがこもるから嫌なので、危険を冒してそのまま行くことにした。

思えばこれが今日の波乱の幕開けだったのである。

 

今日は上り潮なのでゴールデンコースで真鯛とハマチを狙い、その後はそのままカワハギを釣ってみようと考えている。

 

朝は少し早めの午前6時に出港。

 

 

防波堤越しに沖の方を見てみると、巨大な光の固まりが移動している。“見てみる”と書いたが嫌でも目に入ってくるほどの明るさだ。豪華クルーズ船が入港してくるようである。せっかくなので見物しようかと青岸に向かって船を走らせる。

 

 

出迎えに来ているタグボートは舳先を白いシートで覆っている。タイヤがむき出しだとクルーズ船の船体に黒い◯が付いてしまうからだろう。えらい気の使いようだ。

 

 

写真を撮るためにエンジンをニュートラルにしているとそのタグボートが近づいてきて、「そこから退去せよ。」と拡声器で怒鳴っている。やっぱりえらい気の使いようだ。

 

そんなことをしながら四国ポイントにやってくるとすでに朝日が顔を出し始めていた。

 

 

反応があればここから始めるのだがまったく反応が無く、おまけに船も全然いないのですぐに第一テッパンポイントに向かった。

さすがにここには反応がある。まずはサビキからと仕掛けを下ろしてみる。ただ、反応はあるもののサビキで喰ってくるような反応ではなさそうだ。これは高仕掛けだとすぐに仕掛けを変更。

 

これがよかったのか、しばらくしてアタリがあった。引きからすると真鯛っぽい。最初の一匹は慎重なやりとりになる。ゆっくりやりとりしていたのだが、仕掛けに手が掛かったところですぐに軽くなってしまった。調べてみると枝素が切れていた。3.5号のフロロカーボンなので簡単に切れるはずはないのだが真鯛ではなかったのだろうか・・。

次のアタリは強烈だった。これは間違いなくメジロクラスのハマチだろう。道糸を30メートル以上引き出され、これ以上出すとまずいと思いドラグを締めたらその直後に幹糸から切れてしまった。なかなかアタリが出ない日に貴重なアタリを二つもものにできなかった。

これから先、アタリがなくなったので第二テッパンポイントに移動。

 

 

なんとかここでハマチと真鯛を1匹ずつ確保したが第二テッパンポイントをしてもアタリが少ない。これはもう最後の切り札でナカトシタに行くしかないのだが、船が浮いていない。それに反して第二テッパンポイントの南に船団というほどの集まりではないがたくさんの船が浮かんでいる。

 

 

あんなところには何もないんじゃないかと思うのだが、魚が釣れているのか、それとも何処もアタリがなくて妥協の産物としての集まりなのかを確かめるべきだろうと考えて行ってみることにした。あそこがダメなら別荘の前に行ってカワハギを狙って終わりだ。

 

最初のうちは何のアタリもない。もちろん魚探の反応もない。周りでも竿が曲がっている気配がない。やっぱり行き場を無くした釣り人たちの吹き溜まりじゃないかと思っていたのだか、ここから怒涛のアタリラッシュが始まった。仕掛けを下ろし始めてから船が100メートルくらい流れた時に不意にアタリがあった。

 

 

真鯛のような引きだがかなり強い引きだ。上がってきたのは真鯛が2匹とハマチが1匹の三連掛かりであった。それはよく引くはずだ。その後真鯛を2匹追加。一体ここは何なのだと思い始めたがここはそれだけでは終わらなかった。次のアタリはまた強烈だった。全然止まらない。竿を水の中に突っ込んでいなしてはいるがまだ止まらない。やはり30メートル以上引き出されこれはダメだと糸が切れるのを覚悟で強引にリールを巻き始める。フッと軽くなったのでやっぱりバレたかと思ったが魚はまだ付いている。その間も糸はかなり引き出されているのでその後もかなり強引にやりとりをしながらなんとか糸も切れずに上がってきたのはメジロクラスのハマチであった。枝素が1本切れていたので同じサイズのハマチがもう1匹掛かっていたのだろう。それはよく引くはずだ。

そしてまだまだ終わらない。次はハマチと真鯛が二連で掛かりその後にハマチがきた。

まだまだ釣れそうな気配だがこれ以上釣ると持って帰る手だてがなくなる。カワハギ用のエサと仕掛けも準備していたが時刻も正午を過ぎていたのでこれで終了とした。アサリのむき身はもったいないが価格にすると50円くらいのものだ。ただ、あとになるほどやっぱりもったいないと思うのである・・

 

高仕掛けは今日もHNメソッドを使って操っていたのだが、どうもこれが効果的なのか連続でそこそこの釣果を得ることができた。まあ、魚がいればどんなことをしていても釣れるのかもしれないけれどももう少しこのメソッドに磨きをかけたいと思っている。

 

そしてそして、今日はまだまだ終わらない。

ここからはフィクションだが、久々に大きなハマチが釣れたのでしゃぶしゃぶを作ってもらっていつもよりたくさんお酒を呑みお風呂に入ってひと息ついて、スマホの充電をしようとしていると突然電話が鳴り始めた。誰かと思ったらNさんだ。「呑んでる?」と聞かれたので、「は〜いと」答えると、「エンジン途中で止まった・・。迎えに来てもらえるか?」とのこと。その声には、なんでもかまわんからとりあえず来てくれという気持ちがこもっていた(ように聞こえた・・)。僕もかなり呑んでいるがそんなことは言っていられない。すぐに、「行か!」と返事をした。海での事故は何を置いても駆けつけなければならないのが海の男の義務である。(全然海の男ではないのだが・・)飲酒運転と整備不良で捕まる不安が頭をよぎったのはほんの一瞬であった。すぐに服を着替えて家を出たが、取り外していたバブルを差し込み直してみたらテールランプさえも点灯しなくなっていた。ええい、ままよ!天は我に味方してくれるはず。そのまま港に向かった。

それでもさすがに二重遭難は怖いので出港してからは慎重に船を進める。

 

 

えい航するのも初めてなので道中そのシミュレーションをしながら新々波止へ向かう。いつもの上陸場所とは違う階段にNさんたちを発見。船を運転している最中にエンジンが止まったらしく、手で漕いで岸壁までたどり着いたらしい。この人たちも怖い思いをしたことだろう。

 

ゆっくり港に戻り無事に着岸。僕も警察に捕まることなく無事に帰宅することができた。

一応、天は僕に味方してくれたようである・・。ご褒美はコウイカの爆釣でよろしくお願いします・・。

 

 

場所:水軒沖

条件:中潮 7:43満潮

釣果:コウイカ1匹

 

加太への釣行は明日にして、今日はコウイカを狙いにゆく。狙いにゆくといっても今年は過去3回まったく釣れていないのでコウイカがいないことを確かめに行くのである。天野アキちゃんは故郷が素晴らしいところであることを確かめるため都会に行くということと同じなのである。

 

もう、遠くへ行くこともせずにいつものポイントでのみ釣ることにする。

まずはいちばん可能性が高いはずの新々波止の元の切れ目の前から。

 

 

25号のオモリで底が取れるほど理想的な流れなのにやっぱりアタリはない。ここを見切って移動を決める。沖へは行かずに新々波止の根元に行ってみることにした。水道が開いているので多少流れもあるだろうという考えからだ。昔からよく釣れる場所でもあった。

 

 

そしてその勘は間違いではなかった。しばらくしてアタリがあった。しかし、魚が来るかもしれないとドラグを緩めていたのが悪かったか、道糸が滑り出してバレてしまった。アレレ・・貴重なアタリなのにの悔やんでいるとまたアタリがあった。本当にすぐだったので同じ固体が再びアタックしてきたのかもしれない。今度はしっかり掛かったようだ。結構いい型なのでよく引く。久々に味わうイカの引きだ。

 

これはきっと水道のところがポイントだと確信し、さらに近づいてみることにした。ここには昔、何かの観測塔があってその土台が残っているので根掛かりをよくするのだがそれにも顧みず行かねばならないほどイカがいないのである。そしてその無謀な試みが仇になってすぐに根掛かりしてしまった。

前回3号の糸が、魚が掛かった時に切れてしまったので4号に変えていたのがまたまた仇になってしまった。全然抜けない。船の位置を変えながら引っ張ってもダメだ。後は鉤が曲がってくれるのを祈るだけだが、そんな祈りもむなしく高切れしてしまった。二日間で貴重なスッテを3個も無くすというのはイカが少ないよりも辛い。仕掛けはいつもひとつしか持って行かないので午前8時にもなっていないが強制終了となった。

 

港に戻って軽油を買いにガソリンスタンドへ。前回の給油からは少し遠いけれども安いスタンドを利用している。加えて補助金の額が増えたので最後に免税で買った時の値段よりも5円高いだけになっている。20リットルを1000円少しで買えた時代もあったのでけっして安いとはいえないがそれでも負担が減るというのはありがたい。野党の皆様、ありがとうございますというところだ。

 

ここは「わかやま◯しぇ」に近いところにあるので広告掲載品を買って港に戻り給油をして今日の釣行は終了。

 

スッテの在庫は残り三つ。いつも買っている釣具屋の話ではこのメーカーは製造を終了してしまっていてもう手に入らないということだったが、マルニシ釣り具にはそれが置かれていた。鉤の形状を見てみるとひとつ前のものだったので確かにこれもデッドストックだ。デッドストックだからか、値段はプレミアムが付いているがごとく高くなっていた。

 

 

しかし背に腹は代えられない。とりあえず1個購入してもっと安いものはないかと近くの釣具屋に行ってみると400円で違うデザインのものが売られていた。

まだまだ諦めることはできない。これも買って次回の釣行に備えるのである。

 

 

場所:水軒沖

条件:4:37満潮 

釣果:アマダイ8匹

 

今週は月曜日にも休みを取っている。昨日釣りに行って今日は安息日にしようと思っていたが、昨夜寝たのが午前1時頃だったのでさすがに夜明け前に起きるのは無理だった。

来週は上り潮なので加太に行くのは次回にして今日は近場でアマダイを2匹ほどと思って出かけた。先週は大きなサワラで一昨日はアジを釣っているので冷蔵庫の中は魚で満たされている。前回釣ったアマダイも冷凍庫に残っているらしいがそんな時にかぎってよく釣れるのだ。

 

朝は航海灯が必要ない午前6時35分に出港。

 

 

目指す場所はいつもの双子島の沖だ。ギリギリ双子島の南側なのでブログのタイトルは“水軒沖釣行”としている。

前回はそれほど深くないところで釣れたので水深32メートルの地点から仕掛けを下ろすことにする。

 

 

今日も4本の竿で挑む。

置き竿の3本の竿をセットし終えてタイラバの仕掛け作りに取り掛かろうとしたらすでに真ん中の竿にアタリが出ている。30センチを余裕で超えている良型が上がってきた。

今日の船の流れ方は理想に近い流れ方である。もう少し速いともっとよいのだが幸先よくアタリがあったのでこれでよい。

タイラバの竿の準備ができてしばらくしたら舳先の竿にアタリ。今度もいい形だ。3匹目は真ん中の竿。これもいい型だ。船は沖に向かって流れているので徐々に深いエリアに入っていっているからか、アタリが無くなった。今日は間違いなく浅場がポイントだと確信して最初の所よりもさらに浅い場所に移動した。と言っても1メートルほどしか違いはないのだが・・

 

そしてこの移動が当たりであった。今日いちばんの大物に続いてタイラバの仕掛けにもヒット。

 

 

何匹か目のアマダイがアシナガダコ?の足を吐き出したのを見て同じような色の白っぽいラバーに変えたのがよかったのかもしれない。そしてその後は舳先の竿にダブルでヒット。

 

 

これらのアタリが立て続けにあったので、おそらくはアマダイのコロニーに遭遇したのだろう。

 

今日のアマダイはよく引いた。普通なら最初だけよく引いて水圧の変化に弱いアマダイはすぐに弱って浮いてくるが、今日最大の魚は途中でドラグを滑らせて道糸を引き出していったし、その他の魚も同様に最後まで暴れてくれた。

 

アタリが多いのに加えて今日はなぜかエサ取りがいる。自販機で買うアオイソメは間違いなく量が減っているといるというのは前回書いたが今日もやっぱり少ない。エサはあっという間になくなり午後9時には底をついてしまった。以後はエサがなくなった順番に竿を片付けなければならない。そんな窮状でも1匹追加してしまった。

そんな中でエサ取りの正体がわかった。チャリコだ。ウミケムシがいっぱいいるのだろうと思っていたがそれは違ったようである。

午後9時半にはすべての竿のエサがなくなりそのまま終了。

 

合計8匹の魚をどうするか・・。叔父さんの所もその近所も連続して魚を持って行っているのであんまり頻繁に持っていくのも憚られる。こいつは自分が食べたくないので処分場代わりに使っているんじゃないかと思われても困るのだ。(ある程度は図星だが・・)

そこで思い出したのが雑賀崎にある旅館だ。

 

 

Nさんの親戚で以前にも釣れすぎたハマチをもらってもらったことがあった。早速LINEを入れると、今は病院にいるので連絡だけしておいてやるとのこと。

帰り支度を整えて雑賀崎灯台の手前の旅館に向かう。対応してくれた職員さんはなんだか迷惑だというような表情であったが厨房の板前さんは、「アマダイやんか~、ええね~。」ととりあえずは喜んでくれた風に見えた。

夕刻、Nさんから送られてきた画像はこんな料理の数々であった。

 

 

魚にしてみれば、とんでもないものに喰いついてしまって命を取られるというのは迷惑な話だが、僕に捌かれるよりも立派な料理になって成仏してくれたんじゃないだろうか・・。

それに比べて、1匹だけ持って帰った魚はかわいそうなものだ・・。素人の料理と比べると天と地以上の差があるのだから・・。

 

 

 

場所:水軒一文字

条件:若潮15:24満潮 21:57干潮

釣果:マアジ31匹

 

本当なら、今日は鈴鹿市にゴミ袋を買いにいくはずであった。せっかくそっち方面へ行くのならと、折り畳み自転車を車に積んで伊勢神宮の内宮と外宮の間を往復し、牡蠣の詰め放題を買おうかと考えていた。しかし、前の日の金曜日は思わぬ残業で帰りが遅くなり早い目に現地に乗り込んで車中泊という計画はあえなく頓挫した。

頓挫したというよりも行かない理由を探していたのかもしれない。車のブレーキの調子が悪く長距離の運転に耐えられるのかという不安も言い訳で、ガソリン代がもったいない、計画をしてみたもののやっぱり行くのが面倒、というのが真の心の中なのである。ビニールが欲しければ現地に住んでいる友人に頼めば快く送ってくれるはずだと思い始めるともう、ダメなのである。

宇宙戦艦ヤマトがイスカンダル星まで自力でコスモクリーナーDを求めに行ったように、自ら行くか行かないかでそのご利益は天と地ほどの差があるはずなのであるが、手にするビニールの品質には何の変わりもないのだと自分に言い聞かせることもなくあっさりといくつかの言い訳に従うことにした。

 

来週は上り潮だし、再来週には待ちに待ったYOASOBIが待っている。そうこうしているうちに名阪国道には雪が降り始める。やはり僕はきっとそこへ行くことはないのであろう・・。

 

もともと、この日は夜釣りに行くでとNさんから連絡をもらっていたので朝からの草刈りにも参加することにして、どうしてここにいるの?とからかわれながら夜釣りの参加表明をした。

 

トンガの鼻はすでに秋から冬に変わりつつある。秋の味覚の果実たちはすでに実を落とし、スイセンが小さな芽を出していた。そして、ツワブキはきれいな黄色い花を咲かせていた。今頃花を咲かすというのは知らなかった。去年も見ていたはずなのであるが・・

 

 

集合時刻は午後4時。その前にスーパーに寄ってたこ焼きと発泡酒を購入。これを防波堤の上で食べるのも楽しみのひとつなのである。

 

 

 

暗くなるまでにはかなり時間があるがうまくいけば暗くなる直前にアコウやヒラメが来るらしい。しかし、そんなマジックアワーは何事もなく終わってしまい、最初にアタリがあったのは多分午後6時をかなり過ぎてからであった。その後は間断なくアタッてくる。サイズは大きく、小さいものでも20センチはある。加太の鬼アジを見慣れている僕にはやっぱり小さく見えるのだが・・。

隣に座っているNさんは僕よりもさらに数を上げている。いろいろ工夫をして自分で作っているサビキだがやはり市販のものには負ける。潮は終始Nさんの方に流れているので僕の撒き餌の効果ももNさんの方にいっているということもあるのだろう。

普通は喰いが立ち始めて30分ほどでほぼ釣れなくなるそうだが、今日は午後7時半頃に終了の指示があった時でもまだまだ釣れそうな感じであった。

最終結果は、僕が31匹、Nさんが65匹とダブルスコアとなった。まあ、あんまり釣れても捌くのが大変なので適度の数といっていい。叔父さんの家に10匹届けて残りを捌いて道具を洗いお風呂に入ってひと息ついたら日付が変わっていた。

サビキの性能を含めてちょうどよい釣果であった。

 

釣ったアジは定番のアジフライと刺身と干物、市場で買ってきた調味料を使ってカルパッチョを新作として作ってみた。

干物は涼しくなった気候も相まって上できというほどの仕上がりになった。

 

 

塩加減も程よく、やっぱりアジは何をしても美味しいと改めて思うのである。

 

松本卓也 「斜め論:空間の病理学」読了

 

ページをパラパラめくってみたら、ハイデカーやガタリという名前が出てきたのできっと哲学の本だと思って借りてみたら、全然違っていた。この本は精神病理学というものについて書かれた本であった。その内容はというと、精神病の治療方針の変遷や歴史というもののようであった。“ ようであった”としか書けないのは、精神病と神経症の違いも分からず、こういう分野にはまったく興味がな いのでほとんど予備知識もなく、結局、何を書いているのかがわからなかったからである。2冊連続で難しすぎる本を選択してしまった。

しかし、読み始めた本は一応最後まで読み通そうと考えているのでこの本も遅々としてページが進まないけれども読んでいった。

 

精神病理学というのは、哲学をよりどころにして発展してきたという。特にハイデッカーの哲学には大きな影響を受けてきたそうだ。

著者はそれをこう説明している。

『精神病理学はハイデッガーの哲学から大きなインスピレーションを得ることによって発展してきた。

とりわけ、人間を世界内存在(単に客観化可能な現実のなかにあるものとしてではなく、世界の成立それ自体と切り離すことができないもの)として捉える見方は、統合失調症やうつ病といった病理を患う人々がどのように世界を経験し、また自己を経験しているのかを明らかにするための有力な手掛かりとなった。

病者においては、世界の成立と自己の成立の両方が(等根源的に)うまくいかなくなっているのである。特に統合失調症の場合では、病前から「自然な経験の非一貫性」のために世界の中に自然に棲まうことができずに、水平方向の空間がやせ細ってしまう。そのため、そのような苦難を一撃でなんとか解決しようとして、垂直方向の高み、例えば、「神の似姿である人間の理想とは何か?」「父であるとはどのようなことか?」「主体とは何か?」といった問いと、その問いをたったひとりで解決しようとする試みへと過剰に跳躍する「思い上がり」が生じる。』

 

これがこの本の主題となる、“ 斜め”を産み出す垂直と水平の意味である。

僕自身も、この世はバラ色と思うことができずにいままで生きてきた。ハイデッカーの哲学を参考にすると、神の高みまでの垂直方向はないにしても、会社では常に上を向いていなければならず現状維新では振り落とされてしまう中で、根っからの人嫌いでは水平方向に救いを求めることができずにいた。それでは確かに生きづらいはずである。僕も軽い統合失調症を抱えながら生きてきたのかもしれない。その証拠に、

『 あらゆるものが意味ありげに見えるようになり、そのような意味ありげなものが乱舞するようになる。自己は「意味されるもの」となり、あらゆるものが自分に向けて何かを意味しているように感じられる。』

というのが統合失調症の症状のひとつだそうだか、港までの道のりで、赤信号に引っかからなかったのはきっと魚が釣れる前兆なのだと考えてしまうところであったり、おはぎの神様にその日の釣果を託してしまうなどはまさにそれである。

 

たから、この本を読みながら、これはそのまま僕のことじゃないかと怖くなってくるのだが、それを克服するためには、自身を水平方向に広げつつ適度に垂直方向を取り入れる斜め方向の治療法が必要であると論じている。

ハイデッカーの哲学を基本とする治療法では、ほぼ垂直方向、すなわち、患者と医師という上下関係による治療であった。しかし最近の治療法は横方向、すなわち、患者同士の体験の発表などを取り入れた治療がおこなわれるようになった。この前、「あんのこと」という映画を観ていたら薬物中毒の治療にもそういうサークルが出てきた。この本にもこういう治療を実践している、「べてるの家」という組織が紹介されていた。

どことなく水平方向の人間関係のほうがよさそうに思うが、これだけでは医学的な管理によって人々があらゆる個性を剥奪されてしまう(これを平準化と呼ぶ)ということが起こる。だから、垂直性、水平性を超える次元として「斜め横断性」が実現されなければならないというのが著者やこの考えを最初に提唱した哲学者のピエール=フェリックス・ガタリの考えである。

 

まあ、結論としてはそういうことなのだが、そこのところにはあまり興味はなかったのだが哲学が精神疾患の治療に役立っているというところには驚きと興味を持った。確かに、哲学とは、「存在とは何か」を問う学問であり、存在するためには必ず“ 場”が必要であり、それが社会だと考えたとき、社会にうまく存在できなかった場合に精神疾患を発症すると考えてもいいような気がする。ならば、存在を考える哲学がそのインスピレーションになるというのも納得できる。まんざらセンセーショナルな考えでもないのである。

 

それを知ったというだけでもこの本を読んだ意味はありそうだ。