ケンタッキー・フライドチキンの原点 | IR担当者のつぶやき

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上場企業に勤務する公認会計士の、IR担当者として、また、一個人投資家としての私的な「つぶやき」です。

ときどきIR担当者的株式投資の視点も。

カミさんが子どもに読ませようと図書館から借りてきた、ケンタッキー・フライドチキンの創始者・カーネルサンダースの伝記を読んでみました。


子どもにもやさしく読める本なのですが、大人が読んでも、余りにも起業家精神にあふれるすばらしい本だったので、ぜひ紹介したくなりました。



ぼくのフライドチキンはおいしいよ―あのカーネルおじさんの、びっくり人生 (愛と希望のノンフィクション)/中尾 明

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カーネル・サンダースは、1890年インディアナ州で生まれました。

本名はハーランド・サンダースといい、「カーネル」とはケンタッキー州に大きな貢献をした人におくられる称号です。

サンダースは、45歳のときにこの名誉称号を受けています。


農場の仕事をしていた父は、カーネルが6歳のときに亡くなってしまい、母一人でカーネルと弟・妹の三人を育てなければなりませんでした。そのため、缶詰工場で働き始めたのですが、小さい弟たちの面倒をみるのはカーネルの役目でした。


カーネルが7歳のとき、母は仕事が忙しく、2~3日家に帰って来れないことがしばしばありました。

ある日、母が焼いておいてくれたパンが底をつき、ひもじい弟たちのために、火遊びを厳重に止められていたカーネルは、見よう見まねでパンを焼いてみました。


あまりにもおいしく焼けたので、工場で頑張っている母親のために、幼いカーネル兄妹たちは、何キロも歩いて工場に行き、母や工場の仲間の女性たちに食べさせたのでした。


母親や仲間たちは、おいしい、おいしいと言って食べてくれ、カーネルは7歳にして、「おいしいものを作れば、みんなが喜んで食べてくれる!」という料理人のよろこびを味わったということです。



その後、幼い子どもらを養うために母親は再婚しましたが、カーネルと義父は折り合いが悪く、カーネルは若干12歳にして、家を出て働く決心をしたのです。


2年ほど農夫をし、14歳の頃、年をごまかして路面電車の車掌をやったりしました。

16歳になって、鉄道会社に勤めることになり、頑丈な体格を見込まれて機関車の釜掃除係をやりました。

ある日、機関車の火夫がたまたま乗車できなくなり、カーネルにチャンスが訪れます。

自分でかまを炊いて機関車を走らせることができたのです。

16歳で火夫になるには親の同意が必要でしたが、母に同意書をもらい、正式に16歳の火夫が誕生しました。

何ごとにも頑張り屋のカーネル青年は、労働組合の苦情処理係を引き受け、組合員の復職などで会社側と対立したこともあって、難くせをつけられ、鉄道会社をクビになってしまいます。


しかし、くじけずに他の鉄道会社に転職し、また火夫をやります。

ある日、鉄道会社の幹部が沿線の有名人や名士たちを招待する特別列車に乗務する機会がありました。

その頃の火夫は、石炭で真っ黒になる仕事だったので、汚れてもよい服装でいるのが普通でしたが、カーネルは火夫の仕事に誇りをもっており、真っ白いオーバーオールをぴっちり着込んで特別列車に乗り込んだのでした。


こんなところにも、カーネルの仕事に対する熱意や誇りを垣間見ることができます。


また、鉄道会社に勤めているあいだに法律の勉強をし始めたカーネルは、あるとき、脱線した列車の乗客が鉄道会社から賠償金をしっかりとる手助けをしたために、鉄道会社のブラックリストに載ってしまい、どの鉄道会社でも働くことができなくなってしまったのでした。

その頃は、しょっちゅう脱線があり、そのたびに、乗客はたった1ドルの賠償金で済ませられていたのを、カーネルは見過ごすことができなかったのです。


その後、弁護士を志したカーネルは、小学校しか卒業していないことなど気にもとめず、ある判事のもとで何度も法廷に立ち、実習を重ねましたが、あるとき弁護の依頼人から法廷で暴力を振るわれ、カッとなってイスを振り上げてしまったために、弁護士への道をあきらめざるをえませんでした。


しかし、この法律の勉強は、後々、カーネルが事業家になったときにずいぶんと身を助けてくれたということです。


若きカーネルの仕事遍歴はまだ続きます。


プルデンシャル生命保険の外交員。

どうしたら契約をたくさんとれるのか?そのためにはなるべく大勢の人に生命保険を勧めることだ、と、かたっぱしから受持ち区域の家庭訪問を始めます。家族がそろうのは、朝か夜ですから、朝早くや夜遅くに勧誘を行いました。

また、子どもたちのために25セント保険というのを考え出し、毎日25セント払い続けてもらえば、14年で1,000ドルの保険に入ったことになる、と考え、加入者をどんどん獲得していきました。


次第に、会社の利益優先の方針や、勧誘員をだますような契約手数料のことで、会社とぶつかるようになり、また辞めてしまいます。

カーネルは決して、我慢のきかない転職ばかりしている人なのではなく、ひんぱんに仕事を変わることは、自分にとってよくないことだと考えていましたので、そろそろ自分で事業をしたいものだと思っていました。


22歳のときに、フェリーボート会社の共同経営者になります。

その頃、会社のあった地区のロータリークラブのスローガンには、


「他人に最高のサービスをする人間が、もっとも利益を得る人間だ。自分の利益を考える前に、他人にサービスをしよう。」


とあり、さらにそのクラブには「4つのテスト」といわれるものがあったそうです。


① その事業にほんとうの誠意があるか?

② その事業は関係する人すべてに公平なものか?

③ その事業は善意と友情を育てるものか?

④ その事業は関係する人すべてに有益なものか?


何やら、現代のステークホルダー論というかCSR論でも通じるような内容ですが、カーネルはこれらのスローガンと4つのテストが気に入り、固く心に誓ったということです。


さらに、商工会議所の事務員を1年ほど。

アセチレン・ランプの製造販売にフェリーボート会社のときに蓄えた資金をつぎ込みましたが、電池式のランプの登場により、ぱったり売れなくなり、すべてを失うことになりました。


無一文になったカーネルは、ミシュランタイヤのセールスマンを始め、ぐんぐん商才を現していきます。

しかしこれも長くは続かず、ミシュランのアメリカからの撤退により、再び職を失います。


求職のためヒッチハイクをしていたところ、ガソリンスタンドの経営者を探していた石油会社のケンタッキー支社支配人に認められ、スタンドをまかされます。


(ようやく話がケンタッキーに近づいてきました。はぁはぁ・・・。

 何せ、カーネルがケンタッキー・フライドチキンを始めたのは65歳からというから、恐れ入りますビックリマーク



ガソリンスタンド時代も、カーネルは、起業家精神・サービス精神旺盛で、まったく斬新なサービスを生み出します。


タイヤのセールスマンとして各地を廻っていた時に学んだ、クルマの窓洗いサービスをケンタッキー州で初めて始めたばかりか、ラジエーターの水のチェック、ほうきで車内の土やほこりを掃き出す、最後に空気圧のチェック。

こうした4つのサービスを無料で提供するガソリンスタンドなど、当時はどこを探してもありませんでした。

超絶サービスが評判となり、わざわざ遠回りをしてもカーネルのガソリンスタンドにやってくるお客さんが、続々と増えるようになりました。


お客さんのくる時間に店を開けておかなければダメだ、と思い、カーネルは朝5時に店を開け、夜9時まで閉店しませんでした。

アメリカのモータリゼーションの発展もあって、カーネルの店は大繁盛。


しかし、1929年10月24日(木)、カーネルが39歳のとき、世に言う大恐慌が始まりました。

スタンド近隣のお客たちは、農業中心でしたので、農作物が満足に売れないために、カーネルはガソリンを掛売りにして、農民たちを助けましたが、やがて干ばつのために農家からツケを回収することができなくなり、やがては自分のスタンドを手放さざるをえなくなってしまい、またしても、一から出直すことになりました。


やがて、別の石油会社がケンタッキー州に新しいガソリンスタンドを建てるというので、そこをまかされます(1930年のこと)。

開店前のおカネのない時期でも、カーネルのアイデアは枯れません。

国道沿いの農家の大きな納屋の壁に、赤ペンキで大きく自分のガソリンスタンドの広告をどんどん書いていきます(ペンキ職人には、開店後のツケで)。


広告作戦のおかげで、スタンドは初日から大盛況。

さらに、心をこめたサービスで、お客さんは行きだけでなく帰りにもカーネルのスタンドを利用しようという気になります。

カーネルはさらに考えます。


「車にはガソリン、人には食事ビックリマーク


ガソリンスタンドにレストランがあれば、両方いっぺんに済ますことができて、長距離トラックのドライバーや旅行者には便利だ、と。


こうして生まれたガソリンスタンドの片すみの「サンダース・カフェ」は、いつもお客さんでいっぱいでした。


「どうしたら、お客さんによろこんでもらえるかはてなマーク


「レストランは、まず味だ。おいしい料理を出せば、お客さんは必ずまた来てくれるビックリマーク


「ほかのレストランは、どんな料理を出しているのかはてなマーク それより味のよい料理を出すにはどうしたらよいのかはてなマーク


こうして努力を重ね、サービス満点のガソリンスタンドとサンダース・カフェは、10年かかって、他の州にも知れ渡っていったそうです。


しかし、よい時期は続かないもの。


レストランやモーテルを拡大し、やや離れた土地に第二のモーテルを開業してそちらの立上げに専念していたとき、元の店のほうが火事ですべて焼けてしまします。


カーネルは泣き言ひとつ言わず、今度は、作ったばかりのモーテルを売り払い、お客さんの要望の声が大きかったサンダース・カフェひとすじに再建することにしたのです。


1941年、新しいサンダース・カフェが開店しました。地方の町には珍しい147席もの大型レストランだったそうです。

以前のサンダース・カフェで一番の人気メニューは、フライドチキンだったそうですが、既に以前の店のときに、独特の製法を完成していたようです。

カーネルは、本格的なコックの修行をしたことがなかったわけですが、持ち前の根気と粘り強さ、研究熱心さでもて、スパイスとハーブの組み合わせのレシピをいくつも試し、新しい味を生み出していたのです。


あるとき、厨房業者が持ち込んできた圧力釜を使って、大幅な調理時間の短縮とこれまで以上のよい味の両立ができるヒントを得ました。実際には、さらに何年も研究を重ね、7つの島から集めた11種類のスパイスとハーブで味付けしたカーネルサンダース式フライドチキンを完成させたときに、カーネルは59歳になっていたそうです。


カーネルはその製法の特許をとらず、20年間の特許切れによる他社の真似を避ける道を選びました。

今でも、ケンタッキー・フライドチキンの秘伝のイレブンスパイスの調合リストは、アメリカ本社の金庫の奥深く納められているといいます。

これを見ることができるのは、社長のほか、1~2人の幹部だけなんだとか。


また、カーネルは広告の天才でもありました。

ケンタッキーの名士の称号を贈られ、年齢とともに白くなった髪とひげに、昔から清潔と誇りのシンボルだった白い服がよく似合うようになっていました。

どこに行くにも白いスーツといういでたちは、当時の子どもたちにも大人気で、カーネルが来た、フライドチキンのおじさんだとひっぱりだこだったそうです。

このように、自分からケンタッキー・フライドチキンの歩く広告塔を自認していたセンスは、他の誰にもありませんでした。


アメリカが第2次大戦に勝利し、全土の交通網がますます整備されていくカーネル65歳の頃、サンダース・カフェが面している国道の迂回路が作られることになり、サンダース・カフェの売上がどんどん落ちていきました。

147席もの大型レストランを維持しきれず、やむなく最盛期の半額以下の値段で売り払わざるをえませんでした。

税金を払って、手許に残ったお金はごくわずか。


そのときのカーネルに残されたものは、フォードの中古車、圧力釜、極秘のフライドチキンのレシピとスパイス調合リストだけでした。


しかし、レストランはない。資金もない。

考えつづけたあげく、ようやく、他のレストランに、自分のフライドチキンの作り方を売ればよいのだということに気がつきます。これが、ケンタッキー・フライドチキンのチェーン展開のスタート時点になったということです。


それでも、最初の頃は、なかなかチェーンが増えずに苦労したようですが、一軒一軒、レストランを訪ね、フライドチキンを実際に作り、食べてもらい、気に入ってくれる主人を開拓していったそうです。


チェーン店は一軒でも多くほしいけど、


・料理の質

・レストランのサービス

・レストランの清潔さ


を必ず確かめ、どれか一つでも欠ける店は、チェーンに加えなかったといい、決して妥協をしない固い信念を持っていたようです。


その後、大きくなったチェーン本部の若手に200万ドルで経営権を譲ったあとも、カーネルは白いスーツに黒ぶちメガネ・ステッキというおなじみの格好で、アメリカ中、世界中のチェーンを視察するとともに、広告してまわったということです。



ということで、ケンタッキー・フライドチキンの原点をひと言で言い表すのはなかなか難しいですが、


・何度失敗してもくじけない、強い信念をもつ起業家が最後には勝つ

・起業家には、その事業/人物にとっての欠かせない原点がある

・カーネルおじさんの場合は、サービス精神、味(品質)や清潔さなどに対する徹底した妥協を許さない姿勢


といったところでしょうか。



ちなみに、日本には、1970年に日本ケンタッキー・フライドチキン株式会社(KFCJ)が設立されたということです。


■KFCJ

 http://japan.kfc.co.jp/outline/  


生来の働き者のカーネルは、よく働く日本のチェーンが大好きだったそうです。


おっ、KFCJのHPに「カーネル物語」のページがあるじゃないですか(フレームのためリンク不能)。

こんなに長々とご紹介しなくても、そちらを読んでいただくと、もう少しダイジェストでご理解いただけると思います。


あ~、むしょうにケンタが食べたくなってきました・・・(⌒¬⌒*)



ちなみに、日本ケンタッキー・フライドチキンは東証2部に上場しています(証券コード:9873)。

HPの株主優待情報によると、5月末・11月末の年2回、各5,000円相当(年10,000円ビックリマーク)の優待券が発行されます。ただし、1,000株以上の一律支給。

株価はずいぶん長いこと、2,200円前後で推移してきていましたが、2008年1月には1,500円そこそこという水準もありました。

3/17現在、1,700円というところですから投資単位としては、かなり高額といえます。


なお、同じく3/17発売の四季報によれば、大株主に三菱商事 31.1%、傘下にピザハットもあり、連結売上高の25%がピザ関連、75%がチキン関連となっています。


業績的には、売上、利益ともに手堅く増加しており、年間50円の安定配当を継続。株価1,700円だと、配当利回りは2.94%、優待を含めた実質配当利回りは約3.53%になります。


2007年冬の急落の事情はまだよく調べていませんが、年初の混乱を脱したあとは、最近の日経平均の猛烈な下げや為替の乱高下にも係わらず、安定した株価を保っています。

(それでも11月末の権利確定時には、終値ベースできっちり半期の配当と優待分くらいは権利落ちしています-Yahoo!ファイナンスの時系列データを参照-)


これも、みんなに愛されるカーネル・サンダースのなせるワザか、それともウォーレン・バフェットさんがコーラ株を愛するように、安定したキャッシュフローを生み出す会社だからなのか。



多くの日本人に愛されるケンタッキー・フライドチキンのカーネル・サンダースおじさんの不屈の起業家魂、知ってましたはてなマーク


ぜひこの本を読んでみてください。

胸が熱くなります。



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