以前から読みたいと思っていたこちらの書籍を読みました
ここに教育があった―筑波大附属小校長の実践教育日記 (1983年)/山手書房
¥1,080
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第1章 子どもに返せ、ゆとりの時間
第2章 たくましさを育てる
第3章 心のやさしさを育てる
第4章 自己をみつめる心を育てる
第5章 探究する力を育てる
第6章 共に学び、共に育つ ―教師の姿勢―
第7章 体験から芽生える創る喜び
第8章 自然とともに子どもは伸びる
第9章 教育の伝統から学ぶ
第10章 附小教育の評価
(付)若桐会・入学試験について

これまで何冊か筑波大附属小の先生による著書を読んできましたが、今回の書籍の著者は筑波大附属小学校長・筑波大学教授(いずれも当時)であるため、先生方とはまた異なる視点から附属小での教育について述べておられました。
また、教育学をご専門とされている方だけあって、道徳教育その他、日本の教育の問題点やあるべき姿について広い視点から述べていらっしゃるのですが、そういった記述も今後の家庭学習を考える上で参考になりました。

1983年の書籍なので、この本の中で紹介されている附小生の6年間の過ごし方(行事など)は今と異なるものもあるかもしれませんが、一読して驚いたのは身体を鍛えることに対して非常に力を入れていることでした(富浦遠泳など)。

また、「小学校として立派な教育をするという本来の使命と共に、全国の初等教育を実践的に研究し、その改善に資する使命」を任務として担っている学校であるためか、”日本人としてのアイデンティティ”を学校教育を通じて確立する旨、明確に打ち出されている点が印象的でした(私が小学生の時ももしかすると先生方はそういった狙いを持って教育に当たられていたのかもしれませんが、記憶に残っておらずあせる)。

ところで、本書の中には夏休みの作品展に関する章があるのですが、その中にあった以下の一文にハっとさせられました。
自分で苦心して作った子どもは、友達の作品を見る目も鋭い
だから一人で頑張って夏休みの課題を作りなさい、親は手伝ってはいけない等々言っているのではなく、寧ろ夏休みの製作を親子で作ることは微笑ましい光景であると肯定されているのですが、私にとっての気付きは「これは子どもが日常的に試行錯誤する様子全般について言えることなのでは?」という事でした。
今までは子どもの「自立」の観点から、何でも親がお膳立てしてあげる子育ては避けようと思っていましたが、子ども自身が「建設的な批判の眼差し」を獲得する点においても、苦労した経験はより広く深い眼差しへと深化させるのですねひらめき電球

もう一点、この本を読んで感じたことは”完璧な教育は無い”ということです。
当たり前と言えば当たり前ですが、”理想の教育”を追求している附属小であっても「やりたい事に打ち込む能力」は6年間の教育を通じて高いものが身に付く反面、その裏返しとして「自分の短所や欠点を直す努力が弱いという傾向が見られる」と述べておられ、家庭における子どもへの働きかけも同様に表があれば裏もある訳で、表を伸ばしながら裏を最小限に留めるための客観的且つ冷静な眼差しを持ち、軌道修正できる親でありたいと思いました。


以下、備忘録のメモ書きです

 小学校6年間で個性が決まる。
 0~1歳:
この時期には、母親と子どもを結ぶ母子のきずなが確立されることが望ましい。

 1~4歳:
子どもが母親から心理的に分離して、自我に目覚める時期。
第一次反抗期はこの自我の現れともいえる。
 
 4~6歳:
両親を理想のモデルとしてそれに同一化しようとする時期。
ままごと遊びは、この同一化の心理傾向がつくり出した遊びということができる。
この頃は近隣の子どもと集団で遊ぶようになり、その集団の中で自立できるようになることが強く要求される。

 小学校低学年:
身体的発達が達成される時期で、活動性がこの時期の発達課題。
子どもの遊びというのは、この活動性が具現したものであるから、遊ぶということは人間の成長発達のなかで大変重要な活動である。

 小学校4年頃:
発達が従来の総体的発達から本人が関心を寄せている方向に選択的に発達するようになり、子どもは何か一つ自分が打ち込むものを見つけてそれに熱中するようになる。
この興味こそ子どもの自発性であって、親や教師が口やかましく勉強しろと言わなくても、このことに関しては子どもは自分から進んで勉強する。
だから、小学校教育の一つのポイントは、その頃までに出来るだけ多様な経験をさせておいて、この自発性の発現してくるときの選択肢の可能性をできるだけ大きくしておくことが必要なのである。

 中学2年生の頃:
子どもがその後、大きく伸びていくか否かの大切な関門に差し掛かっている時期。
心身の発達からいっても身体的に急激な成長が見られ、そのために心理的にも微妙に動揺しているし、異性への関心も強くなる時期である。
教育内容面でも基礎的な事項の積み上げがなければ理解することができないほど難しくなるから、学力の面での能力差が目立ってくる。
中学2年生の頃は子どものそれまでの成長発達の総和が問われる時期といってもよいし、子どもが変わり得る最後のチャンスとも言える。

  上記 の関門を無事に通過した子どもは、いよいよ子どもから大人に向かって、自己同一性の確立という最後のハードルを飛越することになる。


 「知ることの驚き」を体験させよ
子どもの場合、知ろうとする認識の働きは、対象への単なる好奇心だけではなく、対象への関心の深まりがなければ持続しない。
花に惹かれ、小動物を愛する心が昂じてくると、それらをよく知ろうとする欲求が自然に出てき、いつまでも時間をかけて詳細に観察を続ける。

そして、そこから新しい何かを知ったとき、子どもの心は新鮮な驚きに揺り動かされる。
どうしてもその驚きをまわりの人たちに伝えたいという気持ちになり、その体験を相手に理解してもらえるように話したり、書いたりする。
これが子どもの学習の原型である。
小学校の教育は、すでに言語によって概念化された知識を教え込むことではなくて、この知ることの驚きを体験させ、それをまわりの人たちに伝える努力を経験することにある。


 古都を訪ねる心は、日本人のふるさとを訪ねる心であり、それは日本人である子ども一人ひとりのルーツを訪ねることである。
そして、そのことによってはじめて日本人としての一人ひとりのアイデンティティが確立される。

日本文化の源泉に触れ、古代美術に接するのは、論理的思考による認識ではなくて、直感的に本質をとらえる直感的認識である。

道徳教育とか愛国心、人間愛といったことも、教科書や教師の話によって観念的に教えるよりも、こうした古代文化に触れしめるなかで、その狙いも充分に達成されるのである。


 手作りの経験が大切
モンテッソーリの教育では目と手の共応動作による創るということを幼児教育のなかで大きく重視している。

人間は手と頭の共応、動作によって頭脳を刺激し、創造的な思考を育ててきたのである。
つまり、手の働きは今日の高い文化を発達させてきた原動力であるから、手の働きが鈍くなることは、創造的思考を大きく低下させることになる恐れがある。


 学校が検査したいと思っていることは、テストの時点で字をいくつ知っているとか数の計算がどれだけ早くできるかといったような学力の程度ではなく、
家庭における基本的な躾がきちんと身に付いているかどうか
学校生活という集団生活のなかでうまく適応できるだけの自立性と協調性ができているかどうか
教師の指導によって今後大きく伸びる可能性を持っているかどうか

ということである。