輝いている人って、内側から思いが溢れている人。
そんな気がする。
それが言葉になったり行動になったり、表情になったりする。
新聞や本や、テレビやネットで様々な人のそれを目にしたり聞いたりして感動するとき、それはその思いを受け取っているんだなと感じる。
これはもう感覚でしかなくて、受け取るものは人それぞれだし、何に感動するかも人ぞれぞれ。
言葉にすると制限がかかってしまうけど、感覚には制限はない。
そこから自分は何を受け取っているのか。
溢れるものを受けとって自分を満たしていく。
満たしていけば溢れてくる。
輝かそうと一生懸命磨くより、溢れさせればいい。
そしてそれは、受け取らなければ溢れないものではないと思う。
自分の中に溢れているのに、気付いていないこともある。
無いと言われていたり、自分で抑え込んでいることもある。
本を読むとき、言葉だけをくみ取ろうとするとうまくいかない。
その人の伝えたいことや本質などはその中の思いにある。
何かをやろうとしてうまくいかないのは、表面だけを見ているから。
何が本質なんだろうと、感覚を研ぎ澄ませながら読む、聞く、見る。
1回ではうまくいかないときもあるし、そんなときは何回も繰り返す。
受け取りたいもの、在りたいものを持っている人の感覚に浸る。
言葉だけで受け取るより、ずっと大きいものが得られる。
感覚を得たら言葉にできる。
(聖書に 「はじめに言葉あり…」 みたいなことが書かれているらしいけど、これって制限の始まりが言葉だっことなんじゃないか?と思った。あくまで私の考え。)
音楽を聴いたり絵を見たりして感動するときと一緒かな。
ふと、私たちは物事を難しく困難なほうに考えてしまっている気がした。
言葉にすると感覚が逃げてしまいそうになるのがつらい。
快楽と楽の差。
ここに惑わされると道が反れる。
何かをしなくても得られる。
簡単に手に入るものを、あえてそれは難しいのだと思い込ませて遠回りをする。
もっと素直にストレートに思いを伝える。
制限の全くない人なんていないのかもしれないけど、それが限りなく少ない人から教わるのはとても大きなこと。
自分の枠もどんどん取れていく気がする。
イメージングはそんな感覚。
1つ言葉にすると、ひとつ花びらが散るように舞ってしまう。
零れ落ちる。
うーーん。
いつかなんとかなるものなんだろうか・・・。
