「何故そうなのか?」を考える力 | 靴の一歩堂店主のブログ

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私は「発想の転換」が好きですし、

それを実践しようと心がけていますけど、

その際に大切なのが

「何故そうなのか?」

を考えることだと思います。

 

教科書に書いてあるから、

宗教の祭典に書いてあるから、

昔からの常識だから、

と何も考えずに盲信していたら、

どこかに不具合が生じてしまいます。

 

だって、

教科書も宗教の聖典も昔からの常識も、

全て(間違いを犯すかもしれない)人間が作ったものですし、

それらができてからかなりの年月が経過していますから。

 

以前、キリスト教の伝導活動をしている人がお店に来て

「商売をしている人にぜひ読んでいただきたい聖書の一節があります」と言われて読んでみたら

「不正をしてはいけません」と書かれていました。

商売で不正をした人に神罰が降って商売が破綻した例も書かれていました。

「あのう、なぜ不正をしてはいけないのですか?」って伝導活動をしている人に聞いたら、

「それは聖書に書かれているからです。神はそれを見ていて、いずれ罰を与えます」と言う答えでした。

 

「私は、不正をしたら本人は利益を得られるかもしれないけど、誰かが不利益を被るからいけないのだと思いますよ」

って言いました。

 

そんな「理由」も考えずに聖書はすべて正しいと盲信していたら

「法律は守っているけど、誰かが不利益を被る商売」を平気でできてしまいます。

実際にそうして儲けているキリスト教徒はいっぱいいますよね。きっと神は嘆いているでしょう。

 

挨拶も、

握手は「私は右手に武器を持っていません」と言う敵意が無いことを伝えるものだと聞いていますし、

お辞儀をするのは急所である頭を相手に晒すことで敵意が無いことを伝えるものだと聞いています。

挨拶の際に帽子を脱ぐのは、顔を晒して自分の行動に責任を持つためだと聞いています。

(由来が本当かどうかは確認してませんけど)

こうして挨拶のような常識や習慣って、

「何故そうなのか?」から考えると、

相手に敬意を示すために実践しなくてはいけないって理解できます。

 

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そんな意味で、

教科書も宗教の聖典も常識も

「何故それができたのか?」を理解した上で学び実践すべきなのだと私は思います。

そうすれば、

自ら考えてより良い行動ができるんじゃないかって思うのです。