それでもなお、耕一は躊躇っていた。
あの日の電話の怒鳴り声と、己の我儘が、
帰省に二の足を踏ませていたのだ。

愛美の誕生日を二日後に控えた夜、ぼんやりとテレビを見る耕一の
目の前に、早由里が手紙を差し出した。
大切に取ってあった母の手紙である。

「耕一さん。帰ろ。お父さんとお母さんに、愛美を見せてあげたい。
あたしも、お母さんに御礼を言いたい。
この手紙があったから、今まで頑張って来られたもん」

その言葉が背中を押した。
耕一は、震える指先を止める為に深く呼吸し、電話をかけた。

『はい、大隈でございます』
年老いてはいるが、確かに母の声だ。

耕一は溢れる想いを懸命に抑え、静かに話しかけた。
「母さん。耕一です。お元気ですか」

しばらくの間、応答が無かった。
電話線の向こうには、故郷の空気がある。
波の音が聞こえる。
小さく鳴っているのは風鈴だ。
そして。
そして、母はすすり泣いていた。

「母さん、写真送ったろ、愛美な、今度四歳の誕生日なんだ。
…顔、見せに行ってもいいかい?」

『当たり前だろ。ここはお前ん家だよ。父さんが何て言ってもかまわない。
帰っておいで。帰って、顔を見せておくれ』

「うん。うん、うん。帰るよ、母さん。ごめんな、ごめんな、母さん」
耕一には、それ以外の言葉が見つからない。

『寒いからね、愛美ちゃんや早由里さんに風邪ひかさないようにね』

ボロボロと涙を流す父を心配そうに見上げる愛美の
頭を撫で、早由里は帰り支度を始めるのであった。