文楽という芸が在る。
芸、というには失礼かもしれない。
2003年11月にユネスコの世界無形遺産に選定されているのである。
先頃亡くなられた吉岡珠男氏がその立役者であることは
言うまでもない。
珠男氏は、「永久に続けられる肩書をくれはった」と喜ばれたそうである。
肩書きや地位などは要らぬ、人形を使えたらそれだけでいい。
そう言いのけ、実際に大きな名跡は継がなかった。
最後まで吉岡珠男として人形を操り続けたのである。
その彼をして、「あれは不思議なことやったなぁ」と言わしめた
出来事がある。
過分にして、その話を伺うことができた。
ここに紹介したい。


珠男氏がようやく首(かしら)と右手を使う主遣(おもつかい)として名を馳せ始めた
頃のことである。

或る夜、氏の宅に泥棒が入った。
おそらく金目の物があるに違いない、と見当をつけた泥棒の
その想いは見事に裏切られる。
人形さえ使えればそれで良し、とする者の家に金目の物が有るわけがない。
また珠男氏は、この当時は全てを人形に注ぎ込み、
その生活は貧困を極めていた。
がっかりした泥棒は、何か無いかと部屋を見回した。
そして何よりも金になりそうな物を見つけ、ほくそ笑んだ。


二へ