八代将軍徳川吉宗による享保の改革は、能楽の世界にも暗い影を落とした。
鳥取池田藩三代藩主池田吉秦も、それまで夢中になっていた能を中止する。
質素で地味とされる鳥取藩主としては当然の事であろう。
だがそれは表向きの話。

吉秦は倹約を奨励しながらも、自らは八百にも及ぶ能面を所有し、なおかつ
自らも舞うほどの道楽家であった。

領内には、稀代の能面師である三井実篤がいた。
実篤の打つ面は、八百ある面の中に置かれても、直ちにそれと判った。
例えてみれば、能面の写真を並べた中に一つだけ本物を置いたような。
そのように浮いて見えたという。

しかしながら、実篤には稀代の能面師であるが故の悩みがあった。
後継者、である。
実篤には、みつという娘がいた。が、彼は頑なに男の跡継ぎを求めた。
二人の弟子を競わせては、という考えが浮かんだのも無理はない。
また、そう決断させる腕を持つ弟子であった。

信綱は若干二十歳余りの若者であったが、打つ面には凄まじい力があった。
が、いかんせん荒い。
対して邦芳は三十五、経験に裏打ちされた技には、
華は無いが当たり外れも無い。
実篤は二人に課題を与えた。

求塚という曲に使用される面二つ。
それを打て、と命じた。

二へ