幼い頃、私は頬の痣の治療の為に長浜まで通っていた。
僅か半時間だが、母と共に汽車の旅だ。

私が退屈しないよう、童話やしりとりで時間をつぶすのだが、春になると母は、ある場所で決まって遠くの山を見た。

何か見えるのと訊ねる私に、母は微笑んだ。

「あそこの山。真ん中ぐらいに桜が一本だけ咲いてるのよ」

色調の異なる緑の中に、母が言う桜は只一本だけ立っていた。

遠く離れた場所である為、詳しくは判らないが、少し赤みがかった花を咲かせている。
今思えば、山桜であろう。

「毎年ちゃんと咲くのよ。お父さんがトンネル工事している時に、お弁当を届けに行った時も咲いてた」

汽車を降りると駅前の桜も満開であった。

「こうやって、手入れする人がいて満開になる桜もあるけどね。誰の力も借りずに花を咲かせる桜もある」


あんたはどっちになるかしらね、と母は私の頭を撫でた。


今でもあの山桜は花を咲かせているだろうか。

故郷が遠くなってしまった今では知る由もない。