「ハッピー…おまえ」
ハッピーにとって、人の手は自分を殴る武器にしか見えない筈なのだ。
その手を舐めるという行為が、どれほどの信頼に基づくものか、
さすがの健司にも二週間の生活の中で痛いほど判っていた。
知らず、涙が溢れ出てきた。
ハッピーの鼻先に涙が落ちた。

くぅん

手を舐めていたハッピーが健司の顔までも舐め始めた。

「はは、止めろよ、何すんだよ」
この刑務所に来て以来、いやこの数年間で初めて健司は
朗らかに笑った。

ハッピーは悪い前足を庇いながらも、嬉しそうに散歩を楽しむようになった。
それにつれ、健司は明らかに変わっていった。
あれが愛田か、と刑務官が驚くぐらい他人と話し、笑う。
虐げられた者同士、労わるような日々が続いた。
ハッピーは謙司以外の人間も恐れなくなってきた。
ごく一部の人間だけが動物を虐待するのだと判ったのである。
そしてその事は、謙司との別れを意味していた。

謙司と過ごして二ヶ月が経とうとしていた。
ハッピーを引き取ろうとしているのは、以前に盲導犬を育てた
事がある一家である。
横山というその一家なら、ハッピーを家族として共に
暮らしていってくれるに違いない。
それに、県境にある山でペンションを経営している。
ハッピーにとって、この上ない環境だ。
そう、桂から説明を受けた謙司は黙って唇を噛み締めていた。