まるでそこに蕎麦が有るようにしか見えない。

「さすがだよ、朝平」

小ん太が初めて、朝平を褒めた。

に、と笑った朝平の手から扇子が落ちた。

「母さん」

朝平の最後の言葉であった。


「朝平…朝平、てめ起きろっ!んな落ちはつまんねぇぞ」

小ん太の必死の呼びかけも空しく、朝平は二度と目を開けなかった。

背後に連合軍の兵士が迫っていた。

小ん太は捕虜になった。収容所で彼は、稽古の鬼になった。

「朝平と一緒に、もう一度、末広亭に上がる」

自分に言い聞かせ、暇さえ有ればネタを繰る。
いつしか戦争は終わり、日本は敗戦国となった。


人形町末広亭は奇跡的に戦火を逃れた建物である。
今、楽屋に小ん太が座っている。
復員が遅れ、ようやく帰って来た小ん太は、その足でここまで来たのだ。
娯楽に餓えた大衆には何よりの知らせである。
以前の小ん太を知る者や、そうでない者で満席だ。
立ち見すら出ている。

小ん太が陽気な出囃子に乗り現れた。

師匠達が舞台の袖で見守っている。


「大丈夫なのかい?」

「ああ、小ん太に文七元結なんて出来るとは思えねぇ」

「朝平ならともかく」