熊は正式に退職した。
故郷の家に一人戻り、朝晩、母に特訓を受けた。
店の手伝いと通院の付き添いをする。
こうすれば、いざという時にも側にいてやれる、
その思いも有った。

母は日増しに痩せていき、咳が出始めた。
けれど台所に立ち、包丁を握っている瞬間だけは
昔の母のままである。

「いいかい、下ごしらえに手を抜くんじゃないよ。
出来上がりのほとんどは、下ごしらえで決まるんだ」

相当の自信を持って作った料理のほとんどを
母は否定した。

「あんたの料理は理が勝ちすぎている。
それでは店に客は来ない。
料理という字に理は入っているけど、それだけでは
美味しい物は出来ないよ。情、が無けりゃね」

熊にはそれが判らない。腕には自信があった。
だから余計に母の言うことが判らなかった。
俺には才能が無いのかな、そう思い始めた時。

母が倒れた。

救急車の中で、母は熊に言った。
「あんた、あたしの弁当を作りな。幕の内を
持ってきなさい。いいね」

「判った。わかったから母さん、じっとしてて」

母は思ったよりも癌の進行が早かった。
熊は病室の外で廊下に座り込み、頭を抱えた。

「幕の内…やるよ、母さん。やってみせる」
立ち上がり、熊は市場に向かった。

八へ