寝室に向かう時に、啓吾は台所の香織に話し掛けた。

「俺、空手の道場に通うことにした。帰りが遅い時があるから」

「空手?…年齢を考えたらどうですか。良太のこともあるのに」
香織の声にやんわりと非難の色がにじむ。

「だからだよ。だからなんだ。このままだと、俺は良太に会えない。
父親じゃない。約束を守ることもできない」

「約束?」

「俺は、良太がまだ小さい頃、何が有っても必ずお前を守ってやる、
そう約束したんだ。
父親は、出来ない約束を子供にするもんじゃない。
だから、俺は、俺は」

そこまでだった。後から後から溢れ出す涙が啓吾から
言葉を奪った。

嗚咽する啓吾の頭を香織が優しく撫でた。

「頑張って。応援するから。とりあえず、湿布薬は切らさずにおくわ」

啓吾は、父として、男としてのプライドをあの日、全て無くしてしまった。

何も無くなった心の荒野に、今、一つだけ積み木が置かれた。
それは、男の誇り、という名の積み木であった。