金田一耕助さんはじめまして。古嶋一平と申します。
今年の4月の後半頃ですが、Internetで検索をしていた際、元々ハナミズキとは別の曲について調べていたのですが、たまたま検索結果に出て来たハナミズキの関連サイトを読んでいたら、複数のサイトのコメント欄で金田一さんが「心苦しいのですが」と書きつつご自分のサイトに誘っていたのでリンクに飛んでみて「ハナミズキ」に関する推理を興味深く読ませて頂きました。「へぇ~、こんな見方をする人も居るんだ。」と言うのが率直な感想でした。そして、私自身は、例えこの曲であっても「方程式の解」の様な唯一無二の答えは存在しない、と言う点で金田一さんの考えと相容れない部分があったので、金田一さんが展開していた文章の一部には、かなり違和感を感じました。
だから当初、「事件ファイルその1~YO・CODE~ハナミズキの謎~」から始まる「金田一の事件簿」サイトを知った際、まず自分が感じていた解釈をざぁ~と書き出して見ました。更に続けて、金田一さんの案を一通り読み、「金田一耕助の解」で公開していた文にも順を追って手元でコメントを書いてみました(コピー&ペーストした文章に、加筆をしていった)。ただ、それを直ちにレスとして金田一さんのサイトに書き込んだりはしませんでした。それをやり始めてしまうと膨大な手間がかかりそうだったこと、そして結構私が同感出来るような内容を書き込まれ居ている幾人かの方の意見に対して金田一さんのスタンスがほとんど変化していないこと(恐らく、今でも「方程式の唯一の解は自分の推理である」と思いつつ、他の方々が書き込んでいるコメントに対してもレスされているのだと思いますし、譲っても「果たしてどの解が最も"真実の響き"を持っているかをご自身で判断していただきたい」と言う書き方)、そして間近に迫った「母の日」を控えて何かカリカリした文を送って何か始めてしまうのが非常に嫌だったし、第一ここで自分が熱く反論を繰り広げてしまったら「ハナミズキ」の歌詞からすると(私の方の解釈では)何か真逆のことしているんじゃないか、とも感じましたので文は書いたままテキストファイルを放置していました。
それから数ヶ月、猛暑を経て未だ暑い9月になりました。もうすぐ9月11日が来ます。また、「ハナミズキ」と言うタイトルで映画も公開され、かなりヒットしているようです(私は観ていませんが)。私自身も「あっ、ハナミズキについて書き留めたのがあったなぁ。」と思い出し、今であれば当時書きなぐっていたことを少し離れたところから落ち着いて見られると思いましたので、この機会に公開してみることにしました。今回これを公開するに当たって、加筆や修正はしています。また、「金田一耕助の解」のページに対してコメントを書いていたので、量が膨大になってしまいとてもコメント欄におさまるレベルではなくなってしまい、最終的にはやったことのないblog公開というのをやってみようと思いました。正直、何かやり方が今ひとつ良く判りませんが(苦笑)。
私がここで書く事自体、ほとんどが新鮮でも斬新でも目から鱗の着眼点でもなく、寧ろ直球なところが多いと思います。そして、それらに対して金田一さんは今ひとつピンとこなくて、今回の推理をされたのだと思います。でも、金田一さんのサイトであんなに丁寧に説明されていながらなお私がピンとこない部分があるように、私がいくらごちゃごちゃと書いたところで結局は私と金田一さんの間の感覚的な「ズレ」は埋めようがない、と言うところに話が行ってしまうのかもしれません。それでも、全体を通して見れば自分にとっては金田一さんが書かれた、この曲のサビである『薄紅色の可愛い君のね 果てない夢がちゃんと終わりますように』と『君と好きな人が 百年続きますように』と言う二つの重要なフレーズが別人へのメッセージであるという推理や、この曲が中絶した我が子と不倫相手へメッセージを込めているという結論よりも、今回自分が書いているものの方がよっぽど自然に感ずるところであります。自分が書いたものも、細かい解釈では色々とまだ改善の余地や新しい見方ができそうなところはあると思いますが、それでもどう転んでもここからいきなり金田一さんの推理の方に急接近、なんて展開はなさそうです。そして、例えば、金田一さんが単に「私の推理(解釈)はこうです」と一つの案として提示するというよりは、「ハナミズキ」についてのやりとりが為されている幾つかの場所で「多くの皆さんを傷つけてしまうかもしれませんが全く異なる解釈を私のブログに公開に公開しております。一度ご覧ください。」と言うようなニュアンスの文で誘い、この曲は方程式であり、自分の解であれば「すべての言葉が、すべての言い回しや表現が、そのあるべき場所にぴったりと、完璧に収まっていないだろうか。」と読者に問い掛け、一青窈のことを「ほとんどの人が理解できず、尚かつたった一つの意味にしか解釈できない詩を書くといった芸当のできる人」と評価し、「彼女自身この歌のはっきりとした意味を説明していないのですから、それをどのように解釈しようがそのことで非難することはできないはずです。また彼女にはそうする必要もないでしょう。もし私が出した解が間違っているなら、彼女は正解を公開すればよいだけのことです。」との持論を展開されていたことが、私が、4月当時に自分の中で漠然としてものを、書き出してみるに至った大きな動機でした。
因みに、私は特に一青窈のファンではなく、CDや(未だに)レコードやライブやDVDに結構なお金をつぎ込んでしまっていますが、彼女に関してはアルバムもシングルも一枚も持っておらず、彼女の曲は「ハナミズキ」と「もらい泣き」ぐらいしか挙げることができません。でも、以前家族で音楽番組の公開収録に行き、(安室奈美恵、PUFFY、ラルク・アン・シエル、浜崎あゆみ、スキマスイッチ、河村隆一など多数のアーティストと共に)偶然生歌に触れた「ハナミズキ」には感ずるところもありましたし、その時隣に居た我が家のやんちゃ坊主が、神妙に聴いた後にぽそっと「いい歌だね。」と呟いていたことを妻から聞いたのは今でも覚えていますし、息子にも「お前も好きな人と百年続くと良いなぁ。」と言ったりしていました。そして、今年の4月後半、まず自分でこの曲の歌詞どう受け止めるのかを全編に渡って書き出してみた後で、この曲と更に向き合うに当って滅多にしない「ダウンロード」でこの曲を初めて購入し、繰り返し聴いてみました。また、関連情報をインターネットで検索などもしてみました。大きな印象は従来とそんなに変わらないものでしたが、最初から最後まで吟味する良い機会ではありました。そして、やはりそれまで受けていた印象が「詩の一部のみを拡大解釈」したものだったとかは感じませんでした。
金田一さん自身のお眼鏡にかなうものである気はあまりしませんが、寧ろ貴方の文を読んで感化された方などがこっちの方まで読んでくれる事があれば、「こんな見方もあるのか」とか「まぁ、こんな感じだかな」とか「色々あるようだけど、私自身の聴き方はこうだな」とかと読んで貰えばと思います。
2010年9月6日