金田一耕助さんはじめまして。古嶋一平と申します。


金田一耕助さんのblog

 今年の4月の後半頃ですが、Internetで検索をしていた際、元々ハナミズキとは別の曲について調べていたのですが、たまたま検索結果に出て来たハナミズキの関連サイトを読んでいたら、複数のサイトのコメント欄で金田一さんが「心苦しいのですが」と書きつつご自分のサイトに誘っていたのでリンクに飛んでみて「ハナミズキ」に関する推理を興味深く読ませて頂きました。「へぇ~、こんな見方をする人も居るんだ。」と言うのが率直な感想でした。そして、私自身は、例えこの曲であっても「方程式の解」の様な唯一無二の答えは存在しない、と言う点で金田一さんの考えと相容れない部分があったので、金田一さんが展開していた文章の一部には、かなり違和感を感じました。



 だから当初、「事件ファイルその1~YO・CODE~ハナミズキの謎~」から始まる「金田一の事件簿」サイトを知った際、まず自分が感じていた解釈をざぁ~と書き出して見ました。更に続けて、金田一さんの案を一通り読み、「金田一耕助の解」で公開していた文にも順を追って手元でコメントを書いてみました(コピー&ペーストした文章に、加筆をしていった)。ただ、それを直ちにレスとして金田一さんのサイトに書き込んだりはしませんでした。それをやり始めてしまうと膨大な手間がかかりそうだったこと、そして結構私が同感出来るような内容を書き込まれ居ている幾人かの方の意見に対して金田一さんのスタンスがほとんど変化していないこと(恐らく、今でも「方程式の唯一の解は自分の推理である」と思いつつ、他の方々が書き込んでいるコメントに対してもレスされているのだと思いますし、譲っても「果たしてどの解が最も"真実の響き"を持っているかをご自身で判断していただきたい」と言う書き方)、そして間近に迫った「母の日」を控えて何かカリカリした文を送って何か始めてしまうのが非常に嫌だったし、第一ここで自分が熱く反論を繰り広げてしまったら「ハナミズキ」の歌詞からすると(私の方の解釈では)何か真逆のことしているんじゃないか、とも感じましたので文は書いたままテキストファイルを放置していました。



 それから数ヶ月、猛暑を経て未だ暑い9月になりました。もうすぐ9月11日が来ます。また、「ハナミズキ」と言うタイトルで映画も公開され、かなりヒットしているようです(私は観ていませんが)。私自身も「あっ、ハナミズキについて書き留めたのがあったなぁ。」と思い出し、今であれば当時書きなぐっていたことを少し離れたところから落ち着いて見られると思いましたので、この機会に公開してみることにしました。今回これを公開するに当たって、加筆や修正はしています。また、「金田一耕助の解」のページに対してコメントを書いていたので、量が膨大になってしまいとてもコメント欄におさまるレベルではなくなってしまい、最終的にはやったことのないblog公開というのをやってみようと思いました。正直、何かやり方が今ひとつ良く判りませんが(苦笑)。



 私がここで書く事自体、ほとんどが新鮮でも斬新でも目から鱗の着眼点でもなく、寧ろ直球なところが多いと思います。そして、それらに対して金田一さんは今ひとつピンとこなくて、今回の推理をされたのだと思います。でも、金田一さんのサイトであんなに丁寧に説明されていながらなお私がピンとこない部分があるように、私がいくらごちゃごちゃと書いたところで結局は私と金田一さんの間の感覚的な「ズレ」は埋めようがない、と言うところに話が行ってしまうのかもしれません。それでも、全体を通して見れば自分にとっては金田一さんが書かれた、この曲のサビである『薄紅色の可愛い君のね 果てない夢がちゃんと終わりますように』と『君と好きな人が 百年続きますように』と言う二つの重要なフレーズが別人へのメッセージであるという推理や、この曲が中絶した我が子と不倫相手へメッセージを込めているという結論よりも、今回自分が書いているものの方がよっぽど自然に感ずるところであります。自分が書いたものも、細かい解釈では色々とまだ改善の余地や新しい見方ができそうなところはあると思いますが、それでもどう転んでもここからいきなり金田一さんの推理の方に急接近、なんて展開はなさそうです。そして、例えば、金田一さんが単に「私の推理(解釈)はこうです」と一つの案として提示するというよりは、「ハナミズキ」についてのやりとりが為されている幾つかの場所で「多くの皆さんを傷つけてしまうかもしれませんが全く異なる解釈を私のブログに公開に公開しております。一度ご覧ください。」と言うようなニュアンスの文で誘い、この曲は方程式であり、自分の解であれば「すべての言葉が、すべての言い回しや表現が、そのあるべき場所にぴったりと、完璧に収まっていないだろうか。」と読者に問い掛け、一青窈のことを「ほとんどの人が理解できず、尚かつたった一つの意味にしか解釈できない詩を書くといった芸当のできる人」と評価し、「彼女自身この歌のはっきりとした意味を説明していないのですから、それをどのように解釈しようがそのことで非難することはできないはずです。また彼女にはそうする必要もないでしょう。もし私が出した解が間違っているなら、彼女は正解を公開すればよいだけのことです。」との持論を展開されていたことが、私が、4月当時に自分の中で漠然としてものを、書き出してみるに至った大きな動機でした。 



 因みに、私は特に一青窈のファンではなく、CDや(未だに)レコードやライブやDVDに結構なお金をつぎ込んでしまっていますが、彼女に関してはアルバムもシングルも一枚も持っておらず、彼女の曲は「ハナミズキ」と「もらい泣き」ぐらいしか挙げることができません。でも、以前家族で音楽番組の公開収録に行き、(安室奈美恵、PUFFY、ラルク・アン・シエル、浜崎あゆみ、スキマスイッチ、河村隆一など多数のアーティストと共に)偶然生歌に触れた「ハナミズキ」には感ずるところもありましたし、その時隣に居た我が家のやんちゃ坊主が、神妙に聴いた後にぽそっと「いい歌だね。」と呟いていたことを妻から聞いたのは今でも覚えていますし、息子にも「お前も好きな人と百年続くと良いなぁ。」と言ったりしていました。そして、今年の4月後半、まず自分でこの曲の歌詞どう受け止めるのかを全編に渡って書き出してみた後で、この曲と更に向き合うに当って滅多にしない「ダウンロード」でこの曲を初めて購入し、繰り返し聴いてみました。また、関連情報をインターネットで検索などもしてみました。大きな印象は従来とそんなに変わらないものでしたが、最初から最後まで吟味する良い機会ではありました。そして、やはりそれまで受けていた印象が「詩の一部のみを拡大解釈」したものだったとかは感じませんでした。

 金田一さん自身のお眼鏡にかなうものである気はあまりしませんが、寧ろ貴方の文を読んで感化された方などがこっちの方まで読んでくれる事があれば、「こんな見方もあるのか」とか「まぁ、こんな感じだかな」とか「色々あるようだけど、私自身の聴き方はこうだな」とかと読んで貰えばと思います。



2010年9月6日













「ハナミズキ」

作詞:一青窈




解釈上の登場人物

「君」娘

「君の好きな人」娘の将来のパートナー(娘の将来の夫)

「僕」父:米国出張でワールド・トレード・センター(WTC)に行った際、9.11(同時多発テロ)に遭遇し死去。

「母」妻(娘のママ)





(ピアノ)

空を押し上げて 手を伸ばす君【幼い娘の描写】

五月のこと【母の日の季節/ハナミズキの咲く季節】

どうか来てほしい【娘への花言葉「パパの想いを受けてください」】

水際まで来てほしい【水際/ミズキ葉=あの世とこの世の境目】

つぼみをあげよう 庭のハナミズキ【来てくれた娘への「返礼(ハナミズキの花言葉)」であると共に、母の日の妻への贈り物】





(こちらはボーカル・ダビングなし)

薄紅色の可愛い君のね【ハナミズキのつぼみであり、娘のメタファー】

果てない夢がちゃんと終わりますように【僕自身は「ちゃんと」終わらせることができなかった人生を、娘自身はまっとうできることを願う想い。重要なのは「終わる」ことではなく、「ちゃんと」の部分。ハナミズキのつぼみで言えば、「ちゃんと」花開いて天寿をまっとうすること】

君と好きな人が百年続きますように【自分は妻(君のママ)と添い遂げる事ができなかったけど、君にはそういうことが起こりませんように】





(残響音登場/残響音はこのヴァースのみ)

夏は暑過ぎて9・11に遭遇してしまい炎上するWTCの中の僕(君のパパ)】

僕から気持ちは重すぎて【僕が想う「助かりたい」「家族の元に帰りたい」と言う気持ち】

一緒に渡るには【同じ様に感じているたくさんの人達と一緒に脱出するには】

きっと船が沈んじゃうWTC倒壊のこと】

(初めてのボーカル・ダビング登場/達観したような歌い方?)

どうぞゆきなさい【混沌のWTCの中でパニックになっている周囲の人に道を譲る様】

お先にゆきなさい【恐らく自分の人生はここで終わるであろう覚悟を決める様】





(ボーカル・ダビング)

僕の我慢がいつか実を結び【「僕の我慢=憎しみ・報復を我慢し、断ち切る」ゆえの】

果てない波がちゃんと止まりますように【「果てない波=憎しみの連鎖」の終焉の達成】

君と好きな人が百年続きますように【それ故に実現できる娘と、娘の愛する人の百年(残念ながらパパには達成できなかったけど)】





(ストリングス伴奏)





(ピアノ&ソロ歌唱に戻る)

ひらり蝶々をおいかけて白い帆を揚げて【蝶々(=果てない夢?)を追いかける娘の「白い捕虫網」を白い帆に見立てていて、上にある「きっと船が沈んじゃう」と対比した「沈まぬ船」のメタファーにもなっている】

母の日になれば ミズキの葉、贈って下さい【ミズキの葉=水際との押韻/ママに喜んで欲しいから、ちゃんと贈ってあげてね】

(以下はボーカル・ダビングとなる)

待たなくてもいいよ【つぼみがつくまで待たなくても良いんだよ(パパにまかせておけ=1stヴァースでの「つぼみをあげよう」の通り、つぼみは『僕』が寄与したい部分)】

知らなくてもいいよA:ママはつぼみがどうやってついたかなんて、知らなくても良いんだよ(君からハナミズキを貰う事がママは凄く嬉しいし、嬉しいママを見てパパも嬉しいから)。/B:君も、何でつぼみが付くのかは知らなくても良いんだよ。】





(ボーカル・ダビングあり)

薄紅色の可愛い君のね【娘のこと】

果てない夢がちゃんと終わりますように【自分では「ちゃんと」終わらせることができなかった儚い現世=人生での「果てない夢」を、娘自身はまっとうすることを願う思い】

君と好きな人が百年続きますように【好きな人との百年をまっとうしてね】



僕の我慢がいつか実を結び【負の連鎖に身を任せないことで】

果てない波がちゃんと止まりますように【平和が訪れるように】

君と好きな人が百年続きますように【願っているよ】





(独唱)
君と好きな人が百年続きますように【君達が共に一生添い遂げられますように】































 灰色文字が金田一さんの「金田一耕助の解」のページに掲載されている内容で、紫色文字が古嶋一平の文です。




金田一耕助の解




 この詩の意味を解くためには、まず登場人物を特定しなくてはならない。方程式でいうなら、xやyである。

 一見すると当然、『僕』(男性あるいは男の子)と『君』『君の好きな人』の三人である。『君』は『薄紅色で可愛い』からやはり若い女性か女の子だろう。そして、一青窈は自分とは異なる『僕』の代わりにこの歌を歌っていることになるだろう。

 『僕』は『我慢』し『君と好きな人が 百年続きますように』と願っているから、『僕』は片想いの『君』から身を引いて彼女の幸せを願っているということか。

 しかしそう考えるとおかしな部分が出てくる。


 最後のほうに『母の日になれば、…贈ってください』と出てくる。


 この言葉は当然、母親が自分の子供に述べる言葉である。【父親が、娘に頼む形でも成り立ちます。私の出発点は、最初からそこでした。】

 改めて視点を変えて全体を見てみると確かにこれは母親の、成人して好きな人が出来、親離れしてゆく子供に対するメッセージだと見えてこないこともない。

 しかし、母親が自分のことを『僕』と言うのはちょっと不自然である。また意味不明の歌詞が多く残ってしまう。

 『薄紅色の可愛い君』というのは女の子のほか、幼い子供や赤ちゃんも思い浮かべさせる表現である。歌っているのが母親とすれば、赤ちゃんをイメージしている可能性は高い。

 では、何らかの理由で、赤ちゃんと離ればなれに生きてゆかざるを得なくなった母親から愛子へのメッセージか。【父親から、娘へのメッセージだとしても成り立ちます。】

 そう受け取れる部分もあるにはある。しかしやはり『僕』という表現が気になるし、意味不明の歌詞は依然として意味不明のままである。

【女性アーティストが「僕」と言う言葉を使い歌う事は、稀な話と言うわけではありません。その際に、「僕」が「女性」の立場のままで敢えて男言葉を使う場合もあるし、「男性」の立場で歌っているので意図的に「僕」と言う事もあります。ちょっと考えてみても、一青窈と顔が若干似ているEvery Little Thingの持田香織や、PUFFYや中島美嘉など、日本の一青窈と同年代(?)の人達の作品の幾つかが思い浮かびます。と言うか、女性が使う男言葉の歌詞は、私が結構好きなパターンの一つです。私がここで思うのは、一青窈が、父親の立場から歌っているという構図です。】




 その意味不明の歌詞の一つに『水際まで来てほしい』というのがある。


 これはいったいどういうことだろう。水際の手前にいるのは誰で、向こうにいるのは誰だろう。どちら側から呼んでいるのだろう。水際の向こう、つまり水の中にいるということは、その人は死んでいるということか。

 では母親はすでに亡くなっているのか。

 水の事故で亡くなったか、入水自殺した母親が天国かどこかから子供の幸せを祈ってメッセージを送っているのか。

 そう考えると『水際』の疑問は解決するかもしれない。だがその視点のまま解釈を進めていっても釈然としない言葉が数多く残る。

【水際=ミズキ葉の韻を踏んでいる部分はあるのではないでしょうか。『水際』をこの世とあの世の際とする見方も、私や金田一さん以外の方からもたくさん出てくると思います。既に亡くなっている中で娘に語りかけていると感じますが、時間軸としては、この体験自体はまだ自分が生きていた頃の出来事を回想しつつ歌いかけているという方向でも展開する事が出来ます。ここでは、複雑化するので省略します。】



 例えば『果てない夢がちゃんと終わりますように』という言葉。

 夢とは「叶う」よう願うものではないか。終わるよう願うということは、果たされずにということだ。ということは、その夢とは次に出てくる『君と好きな人が百年続く』ということではないことになる。

【金田一さんは『果てない夢がちゃんと終わりますように』と言う歌詞を悲劇的なものとして捉えていらっしゃいますが、私はそうは思いませんでした。ここで大切なのは『ちゃんと』終わること。『僕』としては、本当は大好きな妻と添い遂げて一生をまっとうしたいと思って居た、しかしその前に道半ばで亡くなってしまった。子供への想いは、「夢が終われ」と告げているのではなく、「お前は、大好きな人との人生を一緒に『ちゃんと』まっとうしてからこっちの世界に来られますように」というものです。『果てない夢括』とは、これから娘に訪れるこの世での人生(それ自体、既に亡くなってしまった自分には、一時の夢のようなものかもしれません)において、娘が思い描く夢と思えるが、まぁ、そこに世界平和とか、より大きなテーマも入っているのかもしれません。】




 また、『ミズキの葉、贈ってください』というのも変ではないか。

【『ミズキの葉』は、1st ヴァースの『水際』を受ける形にもなっています。】




 母の日に花束を贈ることはあってもただの葉っぱを贈るなんていうことは普通ない。

【ただの葉っぱとは思えません。「ミズキの葉のところに来てくれたら、僕がつぼみをあげる」と言うやりとりは重要だと思います。ハナミズキの花言葉は「返礼」や「私の思いを受け取って」などだそうですが、「水際まで来てください」と言う御願いを聞いてミズキの葉のところまで来てくれた娘に、つぼみを授けると言うストーリーが浮かびます。自分が生きていて小さい娘の隣に居るのなら、背の届かない娘に「つぼみを差し出す」ことができたけど、亡くなっている今はそれができない。であればせめて「ミズキの葉にパパがつぼみを授けよう」ということです。そして母の日の平和な風景として、子供がくれる花でお母さんが幸せを感じる、というものは色々な家庭で繰り広げられているものと思いますが、えてしてその影にはチラッチラッと父親が居たりする、と言うのも非常にありがちな風景です。母(妻)の誕生日になにをあげようか、とか母の日にどの花をあげたらママが喜ぶかな、なんて相談に父(夫)が絡み、特に娘が小さい場合はお財布役も、なんてことはそんなに不自然な話ではありません。でも、今、僕はそれが出来ない。だから、娘にミズキの葉を贈ってもらい、そして自分の関わり方はそれにつぼみをつけることで妻を影ながら喜ばせたい、と言う想いが浮かびます。】




 逆に子供のほうがすでに死んでしまっているとすればどうか。

 そうすると『君と好きな人が百年続く』はずはない。


 ここで推理は行き詰まってしまう。


 しかし、もはや選択肢はそう多くない。

そのことにはとりあえず目をつぶって、この視点でもう一度全体を見てみよう。


 子供はなぜ死んでしまったのだろう…そんなことを考えながら歌詞を追ってみると思い当たる言葉が目に入ってくる。

 『一緒に渡るにはきっと船が沈んじゃう どうぞゆきなさい お先にゆきなさい』


 この歌詞は、一緒に生きてゆくことができないと判断した母親が妊娠を中絶したことを述べているように聞こえないだろうか…。


【この曲の起源にテロが関わっていると言う一青窈本人の弁、更に元々はもっと長い歌詞であったと言うことを(カモフラージュではないか、などと怪しまず)そのまま受けとると、その前の「夏は暑すぎて」と言うのは、9月11日の倒壊しつつあるWTCの隠喩であり、「一緒に渡るにはきっと船が沈んじゃう どうぞゆきなさい お先にゆきなさい」とは、それぞれに重い想いを抱えて逃げよう生きようとする人たちが共倒れしないように、道を譲っているように思えます。WTCに日本から向かう人物として、「仕事をしに行くお父さん」という設定も、特に斬新な仮定ではありません。

そして、少なくとも私がダウンロードしたヴァージョンでは、このヴァース「夏は暑過ぎて」~「お先にゆきなさい」の部分では、他の箇所では使われていない残響音のようなものが演奏(ドラムパターン?)に被さっており、私にはそれすらWTCと言う建物内と言うこの曲の中でも限定された状況であることの示唆であるように思えてしまうのです。

更に、感覚的なものですが、「どうぞゆきなさい お先にゆきなさい」と言う彼女自身の歌い方にも、達観しているような、やや他人行儀(妻や子供など愛しく近しい人に歌い掛けて居るというより、もっと対人関係上距離のある人、あるいは複数の人に向けて)の様な印象を受けるのです。これは、この曲の中で『初めて』セルフコーラスというかボーカル・ダビングが登場するのがこの部分だからかもしれません。感じ方は自由ですが、個人的には本当にある個人のみに伝えたい場合、特に彼女のようなタイプのボーカリストの場合、あまりコーラスやボーカル・ダビングで訴えかけるよりも独唱で訴えかける方が伝わる気がしています。ここで初めて出て来て以降は、度々ボーカル・ダビング(最初の登場時は独唱だった『薄紅色の可愛い君のね』~『君と好きな人が百年続きますように』の箇所も含めて)は登場して来ます。】




 (2)に続きます。

















テーマ:「金田一耕助の解」に寄せて【2】

(1)からの続きです。

 繰り返しになりますが、灰色文字が金田一さんの「金田一耕助の解」のページに掲載されている内容で、紫色文字が古嶋一平の文です。

 母親がおなかの中の赤ちゃんに語りかけている。

 この視点は新鮮だ。その可能性を歌詞の始まりから検証してみる。

 『空を押し上げて 手を伸ばす君 五月のこと』

【文字通り、娘さんが天空に手を伸ばしていると言う直球に受け取りました。蛇足ですが、「さつき(五月)ちゃん」とか「メイ」ちゃんと言う女の子ってのもありかな、と。まぁ、これは本当に蛇足ですね。『手を伸ばす』と言うのは、現状まだ手に入れられていないものを得ようとしているさま。それは『果てない夢』のことかもしれません。「果てない夢」の中には、その「手を伸ばしている君」自身がまだわかっていないものも含んでいるのかもしれません。「つぼみに手を伸ばしたとしてもまだ届かない」状態でもあるでしょう。】

 なるほど、これは母親が『五月』に妊娠した(あるいは妊娠の事実が判明した)ことをよく表現している。

 ここでそれは、ちょうど土の中で発芽した植物の種が、地面とその上の『空を押し上げ』、芽を外の世界へと伸ばし始めた様子に例えられている。その姿は小さな子供が空に向かって『手を伸ばし』ているかのように見える。

 『どうか来てほしい 水際まで来てほしい』

 これは母親の願いである。

【前述のように、私は父親の願いと解釈しました。】

 水の中とは母親のおなかの羊水の中であったのだ。

 それは死後の世界ではないかとの推測からこの解釈を進めてきたのだが、この結論に至ったのは怪我の功名だ。少なくともこの時点では母親は赤ちゃんに『水際まで来てほしい』すなわち、外の世界に生まれて来てほしいと願っていた。

【繰り返しますが、私の解釈では水際のあの世側にいるのは父親、現世に居るのが娘です。】

 『つぼみをあげよう 庭のハナミズキ』

 『つぼみ』とは将来の可能性のことだ。『庭のハナミズキ』を眺めながら、生まれてきた赤ちゃんに母親はすばらしい将来をあげたいと思っていたのだ。

【私の解釈では、父が娘に「ミズキの葉のところに来てくれたら、僕がつぼみをあげる」と告げているものです。元々直球ではないかと。】

 ここまで驚くほどぴったりの解釈ができた。

 続いてサビの部分が始まる。しかしサビというのは後でまた何度か繰り返されるもので、最後にその意味がわかるというパターンが多い。

 先に二番の歌詞のほうから考えてみよう。

 『夏は暑すぎて 僕から気持ちは重すぎて』

 やはりどう考えても母親が自分を『僕』と呼ぶのはおかしい。

【母親ではなく、父親が、WTCの中で熱望した「生き延びたい」「妻と子供の元に返りたいと言う想いです。そして、恐らくその場に居た多くの人たちが家族の元に、愛する人の元に返りたい、あるいは生き延びたい、と熱望していたのでしょう。」】

 しかし、『僕』と呼ぶ人物は確かに存在する。それは自分の赤ちゃんである。

 「僕」「僕ちゃん」といった具合だ。『夏』すなわち八月、妊娠(あるいは妊娠が判明してから)三ヶ月目、猛『暑』のような試練が生じ、母親は産まれてきたいという『僕から』の『気持ち』を受け止めるのは荷が『重すぎる』と感じるようになる。

 『一緒に渡るには きっと船が沈んじゃう どうぞゆきなさい お先にゆきなさい』

 もはや赤ちゃんを産み、『一緒に』世間の荒波を『渡って』ゆくことはできないと判断した母親は辛い決断をする。赤ちゃんを自分より『先に逝かせる』という決断を。

【この部分については、既に上で詳しく触れましたので再度の言及は割愛します。】

 次に二度目のサビに入る。最初のサビとは歌詞が異なるが、ここもとばして三番の歌詞を見てゆく。

 『ひらり蝶々を 追いかけて白い帆を揚げて』

 『蝶々』は天使の羽をイメージさせる。それを『追いかけ』、旅立って行く先は天国である。

【蝶々を追いかけている娘さんの姿で、「白い帆を揚げて」と言うのは、「沈んで行く船」とは対照的な「沈まぬ船」に乗っている娘が、現世で「果てない夢」をおっかける真っ最中(あるいはまだそこにも辿りついていない?)なのだと思います。また、私自身が、そして自分の子供達も行った風景を重ねれば、「白い帆を揚げて」と言うのは蝶々を白い捕虫網(横から見れば帆も網も三角に見えます)を持って追っかけている姿がありありと浮びます。正直、非常に「生々しい」あるいは「活き活きとした」情景であり、私がこの歌で「今歌いかけている対象」が「亡くなっている」どころか「生まれてすら居ない」と言う解釈が出てくるのに大きな違和感を覚える部分の一つです。】

 『母の日になれば ミズキの葉、贈ってください』

 葉を贈るというのは変だと感じていたが、これで意味がわかる。

 すなわち、五月の『母の日』の頃、『ミズキの葉』が芽吹くとき母はそれを天国の子供からの『贈り物』と見なし、思い出すということだ。

【ミズキの葉と母の日に対する解釈は、既に上で詳しく触れましたので言及は割愛します。逆にお尋ねしたいのは、なぜここで「花ではなくて葉を贈る」というのが、「これで意味がわかる」のでしょうか?時節的に、花が咲いていておかしくない時期ですよね。中絶した我が子だから贈ってもらうのが「生まれてこようとしていたけど生まれなかった=つぼみにも花にもなれずに葉で止まったというのがぴったり当てはまる」と言う解釈なんでしょうか?もしそうであるというなら、贈り物と言うには余りに哀しいと思えてしまいます。】

 何ともぴったり当てはまるではないか。これですべての謎は解けた…のだろうか。

(3)へ続きます。

(2)の続きです。

 繰り返しになりますが、灰色文字が金田一さんの「金田一耕助の解」のページに掲載されている内容で、紫色文字が古嶋一平の文です。

 いや、最後のこの歌詞が残っている。

 『待たなくてもいいよ 知らなくてもいいよ』

 これまでの解釈がすべてであるとすると、残念ながらどうしてもこの言葉の意味が理解できない。

 天国にいる赤ちゃんに、「待っててね、お母さんもじきに行くから」ならともかく、待たなくていいとはどういうことか。

 死んだ子供に「自分はもっと長生きするから待ってなくていいよ」というのはあまりに酷い。

 何を知らなくていいと言っているのか。

 「わたしがあなたを殺したという事実なんか知らなくていいよ」というのもこれまた酷すぎる。

 方程式の問題において、90%の正解などありえない。0か100かである。この部分が解明されなければこれまでのすべての解釈は無意味だ。

【もしかしたら、一番私と金田一さんの捕らえ方が違うのはこの部分で、例え、この曲であっても歌は「方程式ではない」と思います。】

 しかし、ここでこれまでのアイデアすべてを放棄してしまうにはあまりに当てはまりすぎていた。とりあえずここは先に進み、保留してあったサビの部分の解明に取りかかりたい。

 『薄紅色の可愛い君のね 果てない夢がちゃんと 終わりますように』

 『夢』が『終わるように』という表現にも引っかかっていたが、これまでの解釈でいくとそれも説明できる。

 おなかの中の赤ちゃんの見ていた『果てない夢』とは、もし生まれてきていたならば追い求めることが出来たであろうすべての夢だ。それが『ちゃんと終わって』ほしいと中絶をした母親が願うのは当然だ。

【一度書きましたが、ここは敢えてもうちょい突っ込みます。ここで重要なのは「終わること」なのではなく『ちゃんと』の部分だと思います。親が子供に願うこととして、「自分がまっとうできなかった人生を、お前は『ちゃんと』まっとうした上で何れこっち(あの世)に来て欲しい(この場合も「来て欲しい」が重要なのではなく「人生をちゃんとまっとうした上で」が重要)」と言うのは特に苦しい解釈、と言うよりは親心として不思議なものではありません。『僕』が亡くなった身であれば、なお更です。それは、私にとっては「自らの意思で中絶した赤ちゃんに向けて『可愛い君の[実ることの無かった/可能性は母である私が摘んでしまった]夢がちゃんと終わってほしい』」と敢えて歌詞にして歌いかけ、その直後に更に続けてまさにその中絶した赤ちゃんの父親(不倫相手)に対して、再び『君』と言う言葉を使い「こんな私たちのことは知ることなく、君は全く別の人と百年続きますように」と歌っていると解釈をするよりも、私個人にしてみれば遥かに違和感がありません。】

 『つぼみをあげよう 庭のハナミズキ』

 『つぼみ』とは将来の可能性のことだ。『庭のハナミズキ』を眺めながら、生まれてきた赤ちゃんに母親はすばらしい将来をあげたいと思っていたのだ。

【私の解釈では、父が娘に「ミズキの葉のところに来てくれたら、僕がつぼみをあげる」と告げているものです。元々直球ではないかと。】

 ここまで驚くほどぴったりの解釈ができた。

 だが、ここで再び壁に突きあたってしまう。 

 『君と好きな人が百年続きますように』

【もう、直球に「娘と、娘が好きな人(将来の夫)」でしょう。娘と妻(僕が好きな人)、と言う解釈も可能ですが、個人的な見解は、「僕」と組となるべきなのは「妻(娘のママ)」で、同じような関係でいて自分たちには果たせなかった「添い遂げる」を君(娘)とそのパートナーは果たせますように、と言うのがしっくりきます。】

 死んでしまった赤ちゃんと、赤ちゃんが『好きな人』(考え得る唯一の人は母親)が『百年続く』ことなどあり得ない。

 それにそれは妊娠中絶を決断し、実行した母親の願いであるはずはない。

 やはりこの視点では無理なのか…。

 いや、ここで諦めるわけには行かない。なんとかここを打破する道はないだろうか。

 もう一度、サビの部分に全神経を集中して見てみたい。

『薄紅色の可愛い君のね 果てない夢がちゃんと終わりますように』

『君と好きな人が 百年続きますように』

 ん?…母親は『君』の『果てない夢』が果たされずに『終わる』ことを願い、同時に『君』と『好きな人』が『百年』『続く』ことを願っている…。

 無限のものが終わり、有限のものが続くように…この完全に対照的な願いは何らかの意図を感じさせないだろうか。

【私はこれを完全に対照的な願いとは解釈しませんでした。寧ろ、百年続いて、そして『ちゃんと』終わると言う一続きの願いです。途中で妻や子供と死別してしまった『僕』にとっては決して叶えられることはなく(もしそうであったらどんなに良かったことでしょう)、でも子供にはそれを達成して欲しい、と。ここで百年と言いますが、これからパートナーと出会い、結ばれ、共に生きて行く子供に対してであれば「百年」と言う長さもちょっと無理がある(出会ってから百年は生きられないだろ)程度ですが、いい大人でそれなりのドラマ(金田一さんの言葉を借りれば、不倫)も経た後に、結局元の鞘に戻った夫婦がそこから百年続きますように、というのは子供へ歌うこと以上に無理があるかと、まぁ、これもある意味蛇足です。曲を作るにあたって、子供に向けてであれば「君と好きな人が六十七年続きますように」であるべきで、不倫相手の残りの人生であれば「君と好きな人が四十五年続きますように」であるべきだなんて私も思っていませんので。】

 実はここにこの歌の謎を解く重要な"鍵"が仕組まれているのである。

 ここから先を解き明かすにはこの鍵を使用し、コロンブスの卵的な発想の転換をしなければならない。

【私の解釈では、コロンブスの卵は未使用です。】

 確かにこの二つの願いは正反対の方を向いており、同一人物に対するものであるとすれば矛盾している。

 しかしもし、もし仮に二人の異なった人物に対する別々のメッセージだとすればどうだろう。そう、連立方程式のように…。

 つまり、初めの『君』と後の『君』が別人であるという可能性はないだろうか。

 でもそうだとすると新たな疑問が生じてくる。母親の子ではない別の『君』とはいったい誰か、そしてその『君の好きな人』とはいったい誰かという疑問である。

 どうかよく考えてみてほしい。この歌にある人物が出てこないのはおかしいとは思わないだろうか。

 そう、それはこの赤ちゃんの父親だ。

【あっ、やっと出てきましたね、父。私の方では、正に歌いかけている本人です。】

(4)へ続きます。

(3)の続きです。


 繰り返しになりますが、灰色文字が金田一さんの「金田一耕助の解」のページに掲載されている内容で、紫色文字が古嶋一平の文です。


 さらに、もう一つ考えなければならない重要なことがある。当初は生みたいと思っていた母親がなぜ中絶を決断しなければならなくなったのか、その理由である。

 二番のサビの部分にその答えがある。


 『僕の我慢がいつか実を結び』

 『僕』は生まれてきたいという願いを『我慢』した。それはどんな『結果』を期待してのことか。

【本来の歌詞の位置にある、上からの流れで解釈すると『僕の我慢』とは、「生還することを我慢した」「妻子の元に帰ることを我慢した」と言う側面も考えられるものの、『実を結び』というところに繋がるのを重視するのであれば「自分を死に追いやった誰かを憎むこと、恨むこと、あるいは報復することを我慢した」などではないかと受け取れます。再度花言葉に言及すると、「返礼」が「お礼参り」であってはならないと言うことです。当初は歌詞に入っていたと言う「テロ」や「ミサイル」といった忌むべき言葉を歌詞に使うことを封印して、『君と好きな人が 百年続きますように』と言うメッセージに昇華した一青窈の我慢にも通じているかもしれません。】


 『果てない波がちゃんと止まりますように』

 母親が中絶することによって『波が止まる』ような状況とはいったいどのようなものだろう…。

 そう…

 唯一考えられるのは…不倫だ。

 すなわち、この母親はそれによって不倫相手とその妻との『果てなく』続くかに思われたどろどろの三角関係に終止符を打ちたいと思ったのである。

 そう考えれば何の疑問もなくこの歌詞の意味が理解できるようになる。

【これまた上からの自然な流れですし、一青窈のインタビューにも通じますが『果てない波』が憎しみの連鎖で起き続けているテロとすれば「自分が憎悪を我慢することで、憎しみの連鎖が止みますように」と言うそのまんまのメッセージです。私は元々、疑問は持ちませんでした。】


 『君と好きな人が 百年続きますように』

 ここで語りかけている『君』とは不倫相手のことであり、『君の好きな人』とはその妻(あるいはその本妻の子かもしれない)である。

 母親は自ら身を引くことにより、不倫相手とその妻との間の『波』風が収まって、その関係が『百年』すなわち末永く『続いて』ゆくことを願ったのだ。(「永遠に」でないところはやはり女心か)

 これであの最後の言葉の謎も解くことができる。

 『待たなくてもいいよ 知らなくてもいいよ』

 これは天国の赤ちゃんに対するものではなく、不倫相手に対するメッセージだったのだ。つまり、

「私はもうあなたのもとには戻らないから、待たなくてもいいよ」

「私が赤ちゃんを堕ろしたことなんて、知らなくてもいいよ」

 というわけだ。

 彼女は妊娠の事実を不倫相手には教えることなく、中絶し、別れることを自ら申し出た…。

 これが私の導き出したこの歌の謎の解である。

【これまた本来の歌詞の位置にある、上からの流れで解釈すると『待たなくてもいいよ』は、母の日に贈るミズキの葉に花が咲くのを『待たなくてもいいよ』で、『知らなくてもいいよ』は「ミズキの葉に何故つぼみがつくのか」「誰がつぼみを付けてくれたのか」までを『知らなくても』良いに含めることも可能です。私自身も今ひとつ決めかねるのは、この『知らなくてもよい』が、娘に対してまでを含んでいるのか、あるいはハナミズキの受取人である母(娘のママ)だけを言っているのかという点です。綺麗にまとめるなら、娘には「パパがこのつぼみを授けたんだ」とわかってもらい(想いを受け取ってもらい)、ママは詳しい経緯は知らなくて、お花(状態はつぼみ?)を母の日に娘から受け取って単に喜んで欲しい<僕の「妻に喜んで欲しい」と言う想いも達成される>ね、と言う心理です。でもここも『知らなくて「も」いいよ』であり、知ってくれて「も」良い訳です。個人的には、自分だったら本音としては知って欲しいですね。もう一つ悩んだのは、最終的に母の日にあげたハナミズキはつぼみなのか、花開くとこまで行くのか、あるいは実を結んだりするのか、というところです。世界平和の部分に重きを置くなら、いずれ世界平和「実現した」際に花が咲いたり、あるいは実がなったりするという設定にするかもしれません。一青窈はインタビューで「花として実を結んでいる」と言う言葉を使ったようなので(ただこれとて、完全逐語掲載なのかとか、一青窈が一字一句正確に自分の作詞背景をインタビューで回答せねばと自身に課していたかも、あるいはワシントンとの桜との交換が今日の日本でのハナミズキの存在として「花として実を結んでいる」と認識しているからと言って、直ちにこの曲での言葉の扱い方が同様になるかというと、その辺は私には知る由もありません。花と実は同義なのかもしれませんし、つぼみと花の違いを重要なポイントとして詩に反映させているかも私には良くわかりません。ただ、「つぼみ」までで、「花」が今の段階では歌詞の中に一度も出てこないのは、個人的には意図的なものなのかもしれないなぁ、とも思えます。

 また、私自身が一番の解釈として浮んだのは、上のようなものでしたが、『知らなくてもいいよ』の部分については、テロや自分の死に様を含めた「パパがどうしてそこに居られないのか」と言う候補も思い浮かびはしました。そして、『待たなくてもいいよ』の部分に付いても、「自分の帰りを待たなくてもよい」と言う解釈も充分あり得ると思いました。ただ、個人的な心情は前段落に書いた内容でした。】


 どうかこれらの解釈を当てはめ、もう一度最初からすべての歌詞を追ってみてほしい。

 すべての言葉が、すべての言い回しや表現が、そのあるべき場所にぴったりと、完璧に収まっていないだろうか。

 完成された方程式の解のように…。

 当然、この母親は一青窈本人であろう。

 彼女は生涯決して不倫相手に妊娠の事実は告げるまいと決意したものの、それでもやはり知ってほしいという想いを捨てきれず、この歌詞に暗号としてメッセージを忍ばせたとしても何ら不思議はない。

【私は今までつらつら書いてきたような解釈で居ましたので、この金田一さんの断言が不思議です。】


(5)へ続きます。








(4)の続きです。



 繰り返しになりますが、灰色文字が金田一さんの「金田一耕助の解」のページに掲載されている内容で、紫色文字が古嶋一平の文です。





 序論で紹介したとおり、彼女自身は9.11テロのことや、アメリカから贈られた花水木に関する逸話との関連を述べている。

 しかし彼女が述べていることが真実であるのなら、なぜ誰もが理解できるような言葉でそれを書かなかったのだろうか。

 なぜこの詩について漠然としたことしか語らず、解りにくい個々の言葉の意味を説明しようとしないのだろうか。

【作品をどのように書き、発表し、歌うかは彼女がやりたいようにやれば良いのです。私はアーティストでも創作者でも、文筆家でもないので、あんまり「アーティストはこういう思いで作った」とか「このように意図してしたのだ」と言うような「代弁」みたいなことはおこがましいしと感じてしまうので、あくまで「自分が受け取ったものはこうだった」と言うものを上に書きました。一方で、作品はある意味「アーティストを通してこの世に生まれ出てしまうもの」と感じるときもあります。一青窈自身も、最初はもっと辛らつな言葉が入った作品だったし、色々と言葉を削って今の形にまで削ぎ落とした(そして、その結果わかりにくくなってしまう部分もあった)ということを語っていたようです。そして、それらの変遷や、作品と向かい合う中で「君と好きな人が 百年続きますように」と言うのがパンチラインとなり、伝えたいメッセージであったとしたなら、金田一さんが疑問視するような全体の整合性に対して、一つ一つ判り易くご丁寧に解説するような作品にすべきであったのだとも思えません。】

 さらに彼女は明らかにわざわざこの歌を聴く人が混乱するような書き方をしている。

 これは聴く人が自由にイメージを膨らませられるように、といった書き方ではない。むしろ逆にイメージを途切れさせ、戸惑わせ、感情移入を妨げさせるものだ。

 なぜ彼女はこのような書き方をしなければならなかったのだろうか。

 もし本当に彼女が自ら言っているようなメッセージを伝えたいと思っていたとするなら、このようなことはすべてマイナスにしかならない。

【実際、それぞれの人が夫々の想いをもってこの歌を受け取っているのであって、上で金田一さんが断言されている「彼女は明らかにわざわざこの歌を聴く人が混乱~イメージを途切れさせ、戸惑わせ、感情移入を妨げされるものだ。」は貴方の印象でしょう。この歌が明け透けな「私はWTCで妻子を思い、苦しみながら亡くなった。でも、私がそれを恨みに思うことなく我慢をし、復讐心に駆られる事なく受け入れることで、繰り返された報復の歴史が塗り替えられ、世界の平和が実現できればいい~。」なんてわかり易い歌詞だったとしたら、ここまで広く『君と好きな人が 百年続きますように』と言うメッセージは伝わったでしょうか?そう言う選択をした別のアーティストが居たとして、その人自身の作品ですから否定する気もありませんが、一方最終的に一青窈が選択した現在の選択も否定されるべきであるとも思えません。上に書いたように、一青窈の「代弁」なんて出来るわけもありませんが、一人の受け手として、一青窈が伝えたいと想いを込めたものの一部は受け取ったと感じています。それは、別に自分自身がWTCの中で妻子を想いながら息耐えなくたって、今の歌詞で伝わる物だと思いますし、聴き手が、それぞれの状況で受け取ることを許すものだと思います。単純に私は父親で、息子と娘が居て、妻が好きで、母の日の花を子供達と一緒に選んだり、財布を提供したり、はたまた自分自身がチョウを捕中網を持って追っかけたり、あるいは子供達のそういう光景を目にしたり、という状況下であてはめても良いし、この歌を自分に照らし合わせて『君』が恋愛対象で、そしてそこに別に中絶やら不倫が必ずしも介しているわけではない、と解釈してもそれは「方程式に無理が生じるから間違っている!」とはならないと思うのです。金田一さんご自身が、この曲を「確かに優れた推理小説ではあったが、その結末は何とも哀しい、救いのないものだった、といったところだろうか。」と結論付けるのは全然結構だと思います。そのようにお聴きになれば良いと思いますし、口ずさむのを止めれば良いと思います。しかし私は私で、金田一さんの解釈よりは自分にとって遥かに無理なく想像することができる自らの解釈で聴き続けるでしょう。】



 実際、この詩の中に出てくるのは五月と八月だけであり、九月を連想させるものは何もない。

【「夏は暑過ぎて」と言う歌詞から「八月」と結論付けているようですが、テロのあった九月十一日を「暑過ぎる夏」と表現したとしても、それ程突飛な解釈ではないと感じます。私はそこにカレンダー上の厳密な意味は問いませんが、後付けで調べてみますと、夏を「夏至から秋分(9月23日頃)」とする定義や、7・8・9月を「Summer Quarter」とする切り方もあります。ちょっと検索してみたら9.11同時テロについての寄稿で、9月11日当日の、終わりつつあった2001年の夏の息苦しい暑さを伝えている文などもありました。政治的なサイト(?)でもあるようなので、直接のリンクはやめておきます。

 今年のように気候的に「暑い」のでも良いですし、WTCの中で過ごした状況が『暑過ぎて』と歌詞に反映されていたとしても、私からすれば充分連想できます。】



 またアメリカから贈られた花水木について述べるなら、それが贈られるきっかけとなった日本から贈られた桜について何も語られていないというのも腑に落ちない。

【この展開の中で、「だから歌詞に桜が入っていなというのが腑に落ちない」と言う感覚は、私には全然わかりません。ただでさえ、一青窈は一曲の中に盛り込みすぎた言葉を、全体の写実的な意味がわかりにくくなったとしても削除している方向に創作をしているらしいのに「ハナミズキとの対比で、今の歌詞に加えて更に桜も入れておかないとこの歌のメッセージが伝わりにくい!」と言う感覚がほんとにわからないのです。】

 何とかそれらの視点からこの詩を読み解こうとしたが結局出来なかった。

 彼女のコメントは他の人にその本当の意味を悟られないためのカムフラージュだと私はみている。

【インタビューで補完的に説明しても、「カムフラージュ」と言い放っていますが、そんなにカムフラージュしたいなら、それこそ歌詞に無理矢理にでも「桜」をねじ込めば良いのではないでしょうか?などと返すのは、ちょっとこちらも熱くなり過ぎですね。】

 それでも最後に一言だけこう本心を語っていた。

『「ハナミズキ」は自分の大切なひととその人の好きな人がせめて100年続けばいい、そういう願いを込めて創りました』

 そう、彼女は告白している。『自分の大切な人』の『好きな人』が自分ではないこと、その人を想ってこの曲を作ったことを。

【私の解釈でも、ここは満たしています。娘が将来を共に過ごすパートナーは、父親でなくて良い、と言うか、そうだったら寧ろ心配です。】

 ちなみに彼女は最近、離婚した不倫相手と結婚したことが報じられているが、その相手との関係はこの詩を書いた後からのもののようである。だとすればおそらくこの詩の中の相手とは別人であろう。

 ただ彼女に不倫の前科ならぬ"後科"があるというのは事実だ。

【私は、アーティストにロールモデルは求めていないので「ふうん」と言う感じです。私自身は不倫とは無縁に生きてきましたし、賛成も出来ませんが、そういったものへの個人的な感情と曲に対する想いは、くっつけたい人はそのように聴けば良いし、別物と思う人は切り離して何ら問題無いと思います。そうは言っても、例えば、ある曲の内容が明らかにそういったものを示唆させるものであれば、例えばErykah BaduのNext Life Timeみたいな、私自身が「不倫反対の私でも、この曲(勿論歌詞だけでなく、歌声、メロディ、演奏、プロデュースを含めて総体的に送り出された作品自体です)には感銘を受けてしまう」(それは、最終的に「現世では貴女と結ばれるのは無理だから来世では一緒になりましょう」みたいな悲恋であったこともあるかもしれませんが、ベタだから感銘を受けるのではなく、作品として素晴らしいので例え自分の心情とは異なっても感銘を受けてしまうのです))ほどの曲をそう言う噂のあった人(“恋多き女”と言われるErykah Baduがこの曲の時期にそうであったかは、私は無頓着なので知りません)が書いているのであれば、そこは実生活との関連を考えてしまうかもしれませんが、「ハナミズキ」については全く感じませんでした。そして、寧ろ金田一さんがハナミズキについての論議がされている何箇所かに出向いて「わざわざ誘って」披露しておいて、また私生活情報を曰くありげに併記しておきながら、Q&Aコーナーで「彼女自身この歌のはっきりとした意味を説明していないのですから、それをどのように解釈しようがそのことで非難することはできないはずです。また彼女にはそうする必要もないでしょう。もし私が出した解が間違っているなら、彼女は正解を公開すればよいだけのことです。」と書いたりしていたことの方によっぽど驚きました。私から見れば「何でアーティストがいちいちそんなことに付き合って回答を公開しなきゃいけないの?」と言う感じです。】

 しかし、心地よいメロディーで美しい歌詞のヒットソングの中にかくも悲しく、暗いメッセージが込められているという結論に至ったのはやはりショックだった。

 私はもはやこの歌を口ずさむ気にはなれない。

 確かに優れた推理小説ではあったが、その結末は何とも哀しい、救いのないものだった、といったところだろうか。

 さて、あなたの導き出した解はどのようなものだっただろう。

 願わくは、もっと明るい、もっと希望の持てる解が発見されたことを期待している。

【少なくとも金田一さんの解よりは、父が亡くなっているとは言え希望の持てる解だとは思いますが、金田一さんが他の方にレスしている内容を考えますと、金田一さん自身のお眼鏡にかなうものである気はあまりしません。寧ろ、貴方の文を読んで感化された方が居たとしたら「こんな見方もあるのか」とか「まぁ、こんな感じかな」とか「色々あるようだけど、私自身の聴き方はこうだな」とかと読んで貰えばと思います。私自身は、自分の解釈が唯一絶対だとも思っていません。そして金田一さんの解釈が、全くの勘違いであると言いたいわけでもありません。「こういう解釈もあるのか」と思ったのは、最初の方に書いた通りです。ただ、繰り返し触れているように、金田一さんの解釈が唯一絶対のものであるとも思っていません。】

【以上、大変長くなりました。ここまで読んでくださった方がいらっしゃったとしたら、金田一さんでも、あるいは金田一さん以外の方だったとしても、ありがとうございました。

 2010年9月5日 古嶋一平】